整いすぎた言葉は、誰の心に届くのだろう?
1、 正しさが削り取ってしまうもの
きれいに整えられた文章は、読みやすい。
誤字脱字が少なくて、論理も通っていて、段落も整理されている。読む側にとっては、たしかに親切です。
でも最近、少し考えることがありました。
noteで、全盲の方々が書かれた文章を読む機会が増えたんです。
音声入力で書いているのか、キーボードで打っているのか。それは僕には分かりません。けれど、日々の出来事や病気への思いが、かなり生々しい言葉で綴られている。
誤字脱字もあるでしょう。文章としては、整っていない部分もあるでしょう。
でも僕は、そこに強く心を動かされるんです。
僕自身、普段は画面読み上げを使っています。だから、多少の誤字脱字があっても、そこまで気にならないという面もあります。
それ以上に、その文章からこぼれてくる感情のほうが、ずっと大きい。
うまくまとめられていないからこそ、伝わってくるものがある。
怒りなのか、悲しみなのか、諦めなのか、それともそれでも前に進もうとする力なのか。言葉の形は少し崩れていても、その奥にある体温が、読み手の側に届いてくる。
まるで、魂をそのままぶつけたアート作品に触れているような感覚です。
そこで、ふと自分のnoteのことを考えました。
僕はポッドキャストで話した内容をもとに、AIを使ってnote記事に再構成しています。誤字脱字を直し、読みやすく整え、文章として伝わりやすい形にする。
それは、とても便利です。
僕のように視覚に障害がある人間にとって、AIは本当に大きな助けになります。ひとりでは確認しきれない部分を補ってくれるし、文章の流れも整えてくれる。
でも一方で、こうも思うんです。
目が見えなくなっていく怖さ。
病気と向き合う中で感じた混乱。
日常の中で、うまく言葉にできないまま抱えている感情。
そういうものまで、AIの「正しさ」によって、きれいにデザインされすぎてはいないだろうか。
アートを過度にデザインすると、急につまらなくなることがあります。
荒々しさや、歪みや、余白が削られて、整っているけれど心に刺さらないものになってしまう。
文章も同じなのかもしれません。
読みやすいことと、届くことは、必ずしも同じではない。
整っていることと、生きていることも、たぶん少し違う。
この記事について
僕のポッドキャスト番組「バリアフリー探求所」で、1年前に配信したエピソードをもとに、AIで再構成した実験的記事です。
音声配信(stand.fm、各ポッドキャスト、YouTube)とnote合わせて2,000フォロワーを目指しています。フォローよろしくお願いします!
2、 「かっこいい」と「おしゃれ」のあいだ
これは、音声配信にも似たところがあります。
たとえば、きっちり台本が用意された経済ニュース。
情報は整理されていて、聞きやすい。必要なことが短時間で分かる。あれは、情報を届けるために高度にデザインされたものだと思います。
一方で、個人の音声配信には、別の魅力があります。
話が少し脱線したり、言葉に詰まったり、同じことを言い直したりする。情報としては、効率が悪いかもしれません。
でも、その人が今そこで考えている感じが出るんです。
言葉が整いきる前の揺れ。
迷いながら話している息づかい。
そこに、人間らしさが出る。
リスナーは、ただ情報を受け取っているのではなく、その人の思考の途中に立ち会っているのかもしれません。
少し話は変わりますが、僕は昔から「おしゃれだね」と言われることはあっても、「かっこいい」と言われた記憶はあまりありません。
この違いも、なんだか面白いなと思うんです。
男性ファッションでいう「かっこいい」の一つの完成形は、体に合ったスーツスタイルかもしれません。
サイズが合っていて、ルールに沿っていて、無駄がない。きれいに設計された美しさです。
でも「おしゃれ」は、少し違う気がします。
あえてオーバーサイズを着る。
カモフラ柄や花柄のシャツを取り入れる。
本来なら外しとされるものを、自分の感覚で組み合わせる。
正解のラインから、少しだけはみ出す。
僕自身、スーツは冠婚葬祭くらいでしか着ません。普段は、少し変わった服を楽しむほうが好きです。
そこには、ルール通りの「かっこよさ」とは別の面白さがある。
文章も、たぶん同じです。
AIが整えてくれた文章は、体にぴったり合ったスーツのようなものかもしれません。
読みやすい。破綻が少ない。人前に出しても恥ずかしくない。
でも時には、感情がそのまま出た花柄シャツのような言葉に、心が惹かれることもある。
少し不格好で、少し混沌としていて、でもその人にしか着られない言葉。
そういう文章のほうが、記憶に残ることもあるんじゃないでしょうか。
3、 混沌を残したまま、楽しんで生きる
これからの時代、AIはもっと僕たちの生活の中に入ってくると思います。
文章を書くことも、音声を作ることも、画像を作ることも、今よりさらに自然になっていくはずです。
AIによるポッドキャスト生成も、本当に驚くほどリアルになっています。
きれいな声で、自然な間で、分かりやすく話してくれる。技術としては、ものすごいところまで来ているなと思います。
でも、正しいものばかりが並ぶ世界は、少し退屈になるのではないか。
そんなことも考えます。
間違える。
迷う。
言葉に詰まる。
あとから考えて、「あの言い方は少し違ったかもしれない」と思う。
そういう不完全さは、効率だけで考えればノイズかもしれません。
でも、人間の魅力は、案外そこにあるのではないでしょうか。
僕は「楽しんで生きる」ということを、人生のテーマにしています。
だから、AIを否定したいわけではありません。
むしろ、使えるものは使いたい。
視覚障害がある自分にとって、AIは大切な道具です。自分の発信を続けるための、心強い相棒でもあります。
ただ、その便利さの中で、自分の中にあるぐちゃぐちゃした感情まで、全部きれいに消してしまわないようにしたい。
目が見えにくいこと。
病気を経験したこと。
日常の中で感じる小さな引っかかり。
そういう一次情報は、僕自身の中からしか出てこないものです。
うまく言葉にできない部分も含めて、それが僕の発信なのだと思います。
だからこれからも、整えることと、残すことのあいだで迷いながら書いていきたい。
読みやすくする。
でも、削りすぎない。
伝わりやすくする。
でも、体温までは消さない。
きっちりデザインされた正解と、少し不格好だけれど生きている言葉。
僕たちは、どちらに心を動かされるのでしょうか。
そして自分が何かを伝えるとき、どこまで整えて、どこから先をあえて残すのか。
その答えは、まだはっきりとは分かりません。
でも、その分からなさも含めて、これからも考え続けていきたいと思っています。
