そこにあるのに見えない――僕を惑わせる、わずかなズレ
1、数センチ先で消えてしまう
目の前にあるのに、どうしても見つけられない。
そんなことが、僕の日常ではよくあります。
最近、大切にしているアクセサリーを拭くためのセーム革を、床に落としてしまいました。白っぽい床と色が同化して、どこにあるのか分かりません。
このあたりに落ちたはずだと思い、椅子を動かします。床に膝をつき、手のひらで周囲をペタペタと触りながら探しました。
別の日には、エアコンのリモコンが見つからなくなりました。
散歩へ出かけようとしていたのに、エアコンを消せません。いつもの場所を何度見ても見つからず、家の中を探し回りました。
結局、リモコンがあったのは、いつもの場所からリモコン一つ分ほど左にずれたところでした。
わずか数センチです。
けれど、視野が狭くなっている僕にとって、その数センチのズレは小さなものではありません。いつもの位置から外れた瞬間、そこにある物が、世界から消えてしまったように感じることがあります。
見えなくなったのではなく、見つけられなくなった。
この二つは似ているようで、少し違うのかもしれません。
この記事について
僕のポッドキャスト番組「バリアフリー探求所」で、1年前に配信したエピソードをもとに、AIで再構成した実験的記事です。
2、少し見えるからこその難しさ
こうしたことは、家の中だけではありません。
外出先の公衆トイレに入ったとき、バッグを掛けるフックや、荷物を置く棚が見つからないことがあります。
おそらく、どこかに設置されている。それでも、自分の視界に入ってこなければ、僕にとってはそこにないのと同じです。
僕は数年前から、外のトイレでは必ず座って用を足すようになりました。そのほうが、周囲の位置関係や自分の動きを把握しやすいからです。
今は、スマートフォンのカメラやAIを使って、周囲の状況を確認する方法もあります。
「ここに棚はある?」
「フックはどこ?」
そう問いかければ、音声で教えてもらえる可能性があります。
便利な技術ですし、僕自身、テクノロジーには助けられています。
ただ、トイレの個室で一人、スマートフォンに向かって話している姿を想像すると、少しシュールにも感じます。使える技術があることと、実際の生活の中で気軽に使えることには、まだ距離があるのかもしれません。
外食をしたときにも、似たことが起こります。
僕は料理の写真を撮るのが好きです。以前は撮影後、スマートフォンをテーブルの上に置いたままにして、帰り際に妻から「スマホを忘れているよ」と言われることがよくありました。
目の前のテーブルに置いてある。それなのに、視野に入っていなければ気づけません。
そこで今は、写真を撮ったら、すぐにバッグへ戻すことにしています。
これは、自分の視力だけに頼らずに暮らすための、僕なりの小さなルールです。
完全に見えないわけではない。少し見えているからこそ、つい目で確認しようとしてしまう。そして、見えているつもりの中にある小さなズレに惑わされる。
この感覚は、周囲にはなかなか伝わりにくいのかもしれません。
3、「ある」と「見える」は同じではない
自分一人で生活しているなら、すべての物を毎回同じ場所へ戻すこともできるかもしれません。
けれど、暮らしは一人だけのものではありません。
僕は妻と一緒に生活しています。二人で使う物は、同じ場所へ戻しているつもりでも、毎回わずかに位置が変わることがあります。
もちろん、悪気があるわけではありません。
同じ棚の上、同じテーブルの上、同じ収納場所に戻してくれている。それでも、僕にとっては数センチの違いが、大きな変化になることがあります。
「そこに置いてあるよ」
そう言われても、僕の目には映らない。
同じ部屋にいて、同じ物を見ているはずなのに、僕と相手とでは、見えている世界が少し違っています。
これは、どちらが正しいという話ではありません。誰かを責めれば解決する話でもないと思います。
だから僕は、物を置く位置を決めたり、使ったらすぐにバッグへ戻したりしながら、できるだけ焦らずに暮らせる方法を探しています。
バリアフリーというと、段差や設備のような、大きく分かりやすい問題を思い浮かべることがあります。
けれど実際には、リモコン一つ分のズレや、見つけにくいフックの位置にも、その人にしか分からない小さな壁があります。
そこにあることと、見えること。
見えることと、気づけること。
それらは、必ずしも同じではありません。
僕が見失っている物は、実際にはすぐ近くにあります。
もしかすると僕たちの暮らしの中には、同じように、そこにあるのに誰かには見えないものが、まだたくさん隠れているのかもしれません。
