短編小説「おかえり、ただいま」 #5分で読める短編小説
「ただいま」と呟いても、空気は静かに濁ったままだった。
彼女がこの部屋で「おかえり」と言わなくなったのは、いつからだっただろう。
「おかえり」って、いつも自然と返ってくるものだと思ってた。
玄関のドアを開けて、靴を脱ぐ音がして、リビングのほうから「おかえり」が聞こえてきて、俺はなんでもない顔してその言葉を受け取ってた。
だけど、さっき電車の中で気づいた。もう長いこと、それを聞いてない。
気づいたきっかけは、テレビドラマだった。
たまたま電車の中で見ていたドラマで、男が玄関を開けると、恋人が嬉しそうに「おかえり」と言った。
その一言が胸の奥に落ちたとき、凍りかけた湖面に小石を落としたような音がした。ああ、最近、言われてないなって。
「ただいま」
改めて言ってみる。
リビングには彼女がいる。ソファでスマホを見ていて、こちらをちらりとも見ない。
無言のまま、指先がスマホの表面を滑る音だけが、部屋の静けさを小さく裂いていた。
テレビの音だけが、空気を埋めている。
俺は靴を脱いで、リュックを部屋の隅に置いた。
台所の棚からコップを出し、水道水を飲む。
水の冷たさは確かに喉を過ぎたのに、心の奥には、ぬるい孤独が沈殿していた。
「今日さ、部長に変なことで絡まれてさ」
リビングに戻って、話しかけてみる。
彼女は「へえ——大変だったね」とだけ言って、顔はまだスマホに向いたまま。
それ以上、言葉は続かない。
話題が悪かったのか。あるいは、もはや何を話しても同じなのか。
「なあ、最近さ——」
何か言いかけて、やめる。
どうせ、また変な空気になるだけだ。
言葉になる前に、舌先のどこかで、気持ちが折れた。
晩ごはんは、お互い勝手に済ませるようになって久しい。
昔はふたりで買い出しに行ったり、カレーのじゃがいもを「煮すぎ!」とか笑いながら言い合ったりしていたのに。
仕事に追われる日が続き、気がつけば、冷蔵庫にあるものをレンジで温め、食べながらそれぞれのスマホを見る生活になっていた。
「明日、何時に帰ってくる?」
何の気なしに聞いたら、彼女はスマホを置いて言った。
「わかんない。残業あるかも」
それだけで、また黙ってしまう。
質問の答えにはなってる。でも、何も返ってきていない気がした。
リビングに沈黙が降る。
俺たちの間には、最近こういう空気が増えた。
言葉があるようで、ない。
何かを大きく壊した記憶はない。
傷つけあった夜も、激しい言葉も思い当たらない。
けれど、確実に、愛のかたちは風化していた。
日常が、少しずつ擦り減って、丸く、白く、何の感情も引っかからないものに変わっていく。
それが、たまらなく怖かった。
彼女が風呂に入ってからの部屋は、妙に静かだった。
風呂場から漏れるシャワーの音も、テレビの音も、洗濯機の回る音も、この空間を埋めきれない。
ふと思い立って、スマホで写真を見返す。
記憶の断片のように、まばらな動画が並んでいた。
飲み会の動画、駅で見つけた猫の動画、彼女とキャンプで撮った焚火の動画。
その中に、ひとつだけ、思いがけない動画があった。
再生ボタンを押すと、彼女の誕生日にサプライズでケーキを買ったときの動画だった。驚く顔が見たくて、玄関から動画を撮り始めていた。
「おかえり、佑樹。今日は早かったね」
忘れていた優しさが、音になって耳元に帰ってきた。
たぶん、何気なく録音されたまま、残っていたもの。
耳元で「おかえり」と言われて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
——目の前の人から、ちゃんと届く言葉。
俺たちは、いつからそれを惜しむようになったんだろう。
***
玄関の鍵が開く音がした。
彼女が帰ってきた。
俺は立ち上がって、リビングの入口に立った。
あの日のドラマの一場面みたいに、迎える側になってみたくなった。
「おかえり」
その言葉を、初めて、俺から彼女に向かって言ってみた。
数秒の沈黙のあと、彼女が唇を少しだけ動かした。
「……ただいま」
照れと戸惑いが滲んだその声は、確かに“かつての彼女”に触れていた。
たったそれだけで、少しだけ息がしやすくなった。
「ただいま」よりも、「おかえり」と言える人でありたい。
誰かの帰りを迎えられる人でいたい。
それが、心の扉を閉ざさないための、ささやかな祈りのような気がした。
