【短編小説】最後のデートに、レモンティーと嘘ひとつ ‐第2章‐ #創作大賞2025
駅前のカフェの窓際席に座りながら、恭介は行き交う人々を眺めていた。その視線の先には、もう戻らない誰かの影を無意識に追っていた。いつも彼女が座っていた席。二人のお思い出のあの丘——。朝井恭介は、まだその記憶から抜け出せずにいた。
紗季にメッセージを送っても、相変わらず既読すら付かない日が続いた。
あの日、紗季の様子は明らかにいつもと違った。最初は気づかないふりをした。けれど、カフェのテーブルに肘をついて笑うその顔に、どこか作りものめいた柔らかさを感じた。 「少しだけ、距離を置きたい」と言われたとき、本能的に理解した。これは、“後戻りできない別れ”かもしれないと。
それでもなお、あの日の最後の彼女の言葉―― 「じゃあ、またね」 あの言葉が、なぜか耳にこびりついて離れなかった。『またね』というには、彼女は少し、悲しそうに微笑んでいた。
「……やっぱ、何か隠してるよな」 ブラックコーヒーの空きカップを握ったまま、恭介は小さく呟いた。
胸のどこかに刺さったままの棘が、時間が経つほどに痛みを増していた。 五年も付き合ってきた。彼女が“嘘をつくときの声”も、“我慢してるときの目”も、全部知ってる。それなのに、あの日の彼女を信じられなかった自分が、今は悔しくてたまらない。
帰り際、紗季が少しふらついたときのことを思い出す。
「大丈夫。ちょっと、寝不足なだけ」 そう言って笑った彼女の顔は、どこか空っぽだった。そしてあの丘のベンチ。
「じゃあ、俺はこの丘にいるよ。紗季が戻ってくる場所をなくさないように」 そう言った自分の声が、今でも耳の奥に残っている。
本当に戻ってくるのか? それとも、あれは“お別れの儀式”だったのか……?
恭介は座っていた椅子を押し、立ち上がった。考えていても仕方がない。だったら、動くしかない。あのまま“わからないまま”にはしたくなかった。
五年間、誰より近くにいたはずの自分が、一番遠くに置いて行かれている。そんな思いだけが、彼の背中を静かに押していた。
***
午後五時過ぎ、オフィス街の喧騒が少しずつ静まっていく時間帯。恭介は、紗季の勤務先の前に立っていた。風がビルの谷間を抜けるたび、ジャケットの裾がはためく。
まるでストーカーみたいじゃないか、と自分を責めながらも、足だけはその場を離れようとしなかった。
ふと、エントランスの自動ドアが開き、ひとりの女性が出てきた。短く切り揃えられた髪、落ち着いたベージュのカーディガン。見覚えがある。紗季と何度か食事をしたことのある同僚、吉村菜々だった。
「あれ……朝井さん? どうしてここに?」
「偶然このへんで予定あってさ……」
「そうなんですね。紗季がいたら一緒に帰れたのに、残念ですね」
恭介は衝撃の強さに頭が揺れそうだった。
「えっ……紗季は仕事に来ていないの?」
これには菜々も驚いたようで、瞬きが増え、夢から覚めたような目つきだった。
「先週の金曜日で最後でしたよ……知らなかったってことは、もしかして紗季と別れたんですか?」
先週の金曜日が最後……紗季が距離を置きたいと言ってきた前日だ。
「最後って……退職でもしたってこと?」
「退職じゃなくて、最低でも二か月間は休むって言ってましたよ」
最低でも二か月。ストレス発散のための旅行にしては長すぎるし、仮に仕事で相当ストレスを抱えていたとすると退職しているはず——。自分で考えているだけでは謎が深まっていくばかりだった。
「実は……その、この前の日曜から先と連絡がさっぱり無くなって……なんか最近、紗季に変わったこととか無かったですか?」
恭介は紗季から告げられた内容はあえて伏せた。
「えっ、そうだったんですか……なんか急に心配になってきちゃいました。でも、私が知らないってことは職場で知っている人は多分——いないと思います」
「なんか例えばどこかに旅行したいとか、遊びに行くとか……なんもなかったですかね」
菜々は「なんかあったかな」と自問自答をはじめ、腕を組みながら思い出しているようだった。
「あっ——。朝井さん、まだ時間あります?」
「もちろんあるよ」
「朝井さん、ちょっとだけ待っててください」
そう言って奈々は踵を返したが、すぐこちらに振り返って一言だけ付け加えた。
「あっ、でもあんまり期待しないでくださいね」
しばらくして、奈々が小走りで戻ってきた。
「お待たせしました。朝井さん、これ見てください」
奈々が握っていたのは一つの名刺だった。
『中央総合病院 消化器外科 川端宏文』
病院名と診療科の文字が、異様なまでにくっきりと目に飛び込んできた。その裏側に、手書きでこう記されていた。
——六月七日 十一時 診察 川端先生
恭介は一瞬、息をするのを忘れた。
「六月ってもう四か月前の……これ、いつ見つけたんですか?」
「この前、ちょっとしたことでハサミを借りようと思って、彼女のデスクを開けたら……この名刺がチラッと見えたの思い出して」
恭介は同時に、あの丘で紗季の足元が覚束ない様子がフラッシュバックした。
“名刺”という、ただの紙切れに、全てが詰まっているような気がした——迷っている暇なんて、もうなかった。
菜々にお礼を言って名刺の病院名を見つめながら、恭介はその場を離れた。
どこかで、風が強くなり始めていた。
