【短編小説】最後のデートに、レモンティーと嘘ひとつ-第1章- #創作大賞2025
【あらすじ】
ある秋の日。
岸本紗季は恋人・朝井恭介と“最後のデート”を過ごすことを心に決めていた。
別れの理由は、誰にも明かしていない。
自分の中でさえ、まだ言葉にできない。
それでも今日だけは、普通の恋人のふりをしたかった。
いつものレモンティーを受け取って、いつもの場所を歩いて、いつものように笑って――でも、そのすべての背後には、彼女の「ひとつの決意」と「小さな嘘」が隠れている。
第1章
最後のデートになるかもしれない朝、岸本紗季はいつもより丁寧にアイロンをかけた。ワンピースの襟を真っすぐに伸ばしながら、指先がかすかに震えているのを感じた。
まるで、罪を犯す直前の人間みたいだ――自分がそんな顔をしていることを、鏡が教えてくれる。
土曜日の午前九時。青く晴れた空が、逆にうらめしいくらいだった。
晴れの日のデートなんて、もう何度もあったはずなのに、今日の空だけはやけに澄んで見えた。
朝井恭介と出会って、もう五年。最初は同じカルチャースクールで開かれた歴史講座だった。私は友人に誘われて、彼は“ネタ作り”だったらしい。
「あんな講義、退屈じゃなかった?」と初めて話しかけてくれたその声は、どこか子供っぽくて、好感が持てた。
それから数えきれないほどの休日を共にしてきたけれど、今日という日は――そのすべてを切り落とす日になる。
駅前のカフェに着いたのは、約束の五分前だった。
「紗季!」
声に振り向くと、少し走ってきたのか、恭介が額の汗をぬぐっていた。細身のシャツの下で、しっかりとした肩幅と腕が陽に照らされていた。中学校教師という職業のせいか、いつでもどこか“父性”のような落ち着きがある男だった。
「暑くなったなあ、今日。ほら、レモンティー」
私の前に、いつもの冷たいレモンティーが差し出され、すぐに口へ運ぶ。
「ありがとう。でも、最近はちょっと甘すぎる」
「そうか? 俺には全然わかんないけどな」
氷で冷えたカップが、紗季の手のひらを湿らせる。
恭介は何も変わらない。
「それより、どこ行こうか? 水族館? それとも久しぶりにあの公園?」
私は首を振った。
「ちょっとだけ散歩してから、あの喫茶店に行かない?」
「おっ、いいよ。いつもアクティブな紗季がそんなこと言うなんて、珍しいじゃん」
彼の笑顔がまぶしくて、私はとっさに目を逸らした。
午前中は、思い出の場所をいくつか巡った。
彼と初めて手をつないだ並木道。
ふたりで無言になった喫茶店。
見つめ合って笑った公園のベンチ。
けれど、私はそのすべてを「上書き」するように歩いた。
意識的に、風景を瞳に焼きつけないようにした。
ふと、体がふらりと傾ぐ。バス停の影に腰を下ろして、呼吸を整える——喉の奥がやたらと乾いていた。
「大丈夫か?」
彼が心配そうに覗き込む。
「うん、大丈夫。ただ、ちょっとだけ立ちくらみ」
「疲れたらすぐ言えよ。最近無理してるんじゃない?」
私は笑ってうなずいたけれど、恭介の目の奥には、うっすらと不安の影が見えた気がした。
紗季はバッグから水筒を取り出し、静かに口をつけた。
中身はただの水。でも、今の私にはそれがやけに苦く感じる。
お昼は、昔よく行ったパスタ屋に入った。
店内のBGMも、ガラス窓から差し込む光も、何もかもが懐かしい。
だけど、懐かしいのに、どこか“遠く”感じた。
まるで自分だけ、薄い膜の中に閉じ込められているような感覚。
彼と同じ空間にいるのに、呼吸のリズムが合わない。
「そういえばさ、この間、生徒に“夢ってどうやって見つけたんですか?”って聞かれたんだよ」
「うん?」
「正直、困ったんだよね。俺、自分の夢とか意識したことなかったし、今の夢って聞かれても結構困るじゃん。でもさ、“毎日、飽きずにやれてることがあれば、それが夢なんじゃないか”って答えたんだ」
彼は笑いながらそう言った。
だけど、その言葉は、私の胸のどこかに小さく刺さった。
「紗季の今の夢ってなに?」
「……うん、そうだねぇ」
言葉にするたび、“今の自分”がどこか遠ざかっていくような感覚があった。
本当は、違うことを言いたかった。
だけど、そのときの私は、あまりに臆病だった。
昔から味の変わらないボロネーゼを頂き店を出ると、空は少し曇り始めていた。
「ねぇ、恭介くん。私たちの一番の思い出の場所に行かない?」
恭介は言葉を発することなく、首を縦に振った。
それは街外れの丘。私たちが何度も登った、お気に入りの場所。
歩き出すと、階段の中腹で息が切れた。ふくらはぎが少し痛い。体が、少し重たい。
「紗季、大丈夫?」
「平気。……ごめん、少しだけ、ゆっくりでいい?」
「もちろん」
彼は私のペースに合わせてくれた。そのやさしさが、かえって胸に痛かった。
丘の上に構えるベンチに並んで腰を下ろすと、風がいっそう強くなった。
街の雑音は遠のき、鳥の声と葉の擦れる音だけが耳に届く。
この丘の静けさが、私は昔から好きだった。
恭介はレモンティーの残りを一口飲んで、空を見上げた。
「やっぱ、いい場所だな。何度来ても落ち着く」
「……うん」
私も同じように空を見た。
でも、今日はどうしても、その青が眩しすぎた。
少しの沈黙のあと、私はゆっくりと切り出した。
「ねえ、恭介。……ちょっと、話したいことがあって」
「ん?」
彼がこちらを向く。私の様子がいつもと違うことに気付いているのか、彼の顔は少しだけ強張っているようだった。
私は視線を逸らして、言葉を選んだ。
「最近、自分の中でいろいろ考えることがあって……。これからのこととか、ちゃんと向き合いたいなって思ってるの」
「うん」
「でね、ちょっとだけ、距離を置いてみたいなって。お互いに」
彼は一瞬、言葉を失ったようだった。
「……距離、って?」
「別れたいってわけじゃない。でも、一度、立ち止まってみたいの。このまま何となく流されるんじゃなくて、自分の気持ちを整理したくて」
「なんか、急だな……何かあった?」
私は軽く首を振った。
恭介は紗季に喋る隙を与えないかのように矢継ぎ早に言った。
「だったらおかしいじゃん。俺ら付き合って五年間、何も問題なく過ごしてきたじゃんかよ。それなのに……」
「恭介は結婚とか、考えてるかもしれないけど……私は、正直まだ、答えを出せないの。未来の話をされると、なんか、胸が苦しくなる」
彼は深く息をついた。
何かを言いたげだったけれど、しばらく黙っていた。
「……わかった。紗季がそうしたいなら、俺は止めないよ。止めないけどさ……」
「恭介くん、お願いだから今日は言いたいことを全部言って?」
彼は言葉を詰まらせながらも、真っすぐ紗季の目を見た。
「いいや、やっぱり言うのやめた」
彼がそう言った声は、怒りではなく不安を含んでいた。
私は無理に笑って見せた。
「……紗季、何か隠してるだろ? もしかして、他に男でも出来たのか?」
「ううん、そんなんじゃない。……恭介のこと、嫌いになったわけじゃない。ただ、今の私はちょっと、自分のことで精一杯なの」
言葉を詰まらせると、彼は私の顔をじっと見つめてきた。
私もようやく、彼の目を正面から見返す。
「俺は……待ってた方がいいのか?」
「うん。……でも、あんまり頻繁に連絡しないで。そういうの、プレッシャーになっちゃうから」
「……そっか」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「じゃあ、俺はこの丘にいるよ。紗季が戻ってくる場所をなくさないように」
心が、少し痛んだ。やさしさは時に、いちばん残酷だ。
「ありがとう。……じゃあ、今日はそろそろ行くね」
立ち上がろうとした瞬間、視界がふっと暗くなった。体が少し傾いで、足元がぐらついた。
「おい、大丈夫か?」
彼が慌てて支えてくれたけれど、私は笑って誤魔化した。
「大丈夫。ちょっと、寝不足なだけ」
彼の手をそっと振り払う。触れると、泣きそうになるから。
「じゃあ、またね」
そう言って、紗季は歩き出した。
振り返らないと決めていたのに、何度も振り返りそうになるのをこらえながら。
駅までの帰り道、ふと立ち止まって空を見上げた。灰色がかった雲が、午後の陽を覆い隠していた。さっきまであんなに青かった空は、もうそこにはなかった。
明日は、大切な人に“ある贈りもの”を届けに行く。
ほんの少しだけ、自分の中の何かを切り取って。
うまくいくといい。きっと、うまくいく。
でも、だからこそ今は――
「さよなら」を言っておきたかった。
