【短編小説】最後のデートに、レモンティーと嘘ひとつ ‐最終章‐ #創作大賞2025
恭介が病室の前に立ったとき、ドアの向こうからは何の音も聞こえなかった。人の気配すらない。まるでそこだけが時間から切り取られたような静寂が、白く冷たい壁に満ちている。
由紀子がゆっくりと扉を押し開ける。
「……ここよ。紗季がいるのは」
病室の中には、窓から午後の日差しが射し込んでいた。ベッドの上で横たわる紗季は、目を閉じ、まつげの先で光を受け止めている。その顔は穏やかで、まるで深い眠りについているかのようだった。
「手術は成功したの。でも……」
由紀子が言葉を継ぐ。
「術後、脳への血流が一時的に途絶えて……いまは植物状態なの。目覚める可能性もある。でも、医師は『時間が必要だ』って。それが、どれくらいかはわからないの……」
恭介は目を逸らせなかった。目の前にいるのは、あの丘で見た彼女と変わらない顔だった。ただ、その目だけが閉じられている。言葉も、笑顔も、もう届かない場所にいるようで、胸の奥がぎゅうと締めつけられる。
「これを、渡しておくわ」
由紀子が、封のされた便箋を差し出す。淡いラベンダー色の封筒には、丁寧な筆致で「朝井恭介 様」と書かれていた。
「手術の直前にね。『もし何かあったら、これを渡して』って」
恭介は受け取った封筒を見つめる。まるでそこに彼女の命が宿っているかのようだった。でも、すぐに開けることはできなかった。
「ちょっとだけ外の空気を吸ってきます……」
由紀子は、そっと頷いた。
「気を付けてね」
恭介は封筒をポケットにしまい、病室を出た。足が、勝手にあのカフェへと向かっていた。
***
注文したのは、いつものようにレモンティーをふたつ。ひとつは自分のため、もうひとつは、目を閉じたままの彼女のため。
それはもう、ただの習慣じゃなかった。会えなくなっても、これだけは変えたくなかった。
受け取りカウンターにふたつの紙コップが並ぶ。
「……買っちゃったな、またふたつも」
苦笑しながら手に取ったカップ。その冷たさが、むしろ心の奥を刺すようだった。ふと、彼女が言っていた言葉を思い出す。
——「最近はちょっと甘すぎる」
恭介は静かにカップの蓋を開けた。
一口だけ、そっと口をつける。
舌に広がる甘さが、やけに濃く感じられた。
——やっぱり、甘かったな。
その瞬間、ぽたりと何かが落ちた。
カップの中に、小さな水音が生まれる。
それが、自分の涙だったことに気づいたのは、ほんの数秒あとだった。
言葉では届かない何かが、胸の奥から溢れていた。
否応なく、“もう彼女には届かない”という現実を突きつけられたようだった。
恭介は俯いたまま、ただじっと、カップを見つめていた。
彼女が、どれだけのものを抱えていたか、今なら痛いほど分かる。
どうしてもっと、ちゃんと向き合わなかったのか。なぜ、あの“またね”に 込められた意味に気づけなかったのか。
悔いても、時間は戻らない。けれど——。
手の中のカップが、わずかに震えていた。もうぬるくなったレモンティーの冷たさが、指先に滲んでくる。
この手で、何を守れただろう。何を、見逃してきたのだろう。
恭介はゆっくりと立ち上がった。足取りは重く、心はまだ揺れていた。
たとえ戻ってこないとしても——あの人のそばに、今だけはいたいと思った。
そして、静かに歩き出す。
秋の夕暮れ、街のざわめきが遠のいていく中、恭介は再び病室へと向かった。
***
扉の先に広がる空気は、先ほどと何ひとつ変わっていないはずだった。
けれど、恭介の胸には、たしかに違うものが流れていた。
消毒液のかすかな匂い。機械の電子音がリズムを刻み、白く整えられたリネンがわずかに揺れている。
窓の外では、夜の帳がすっかり降りていた。
カーテンの隙間から漏れる月明かりが、ベッドの上の彼女を静かに照らしていた。
白い静寂のなかで、彼は手にしていたレモンティーのカップを、そっと紗季の枕元に置いた。
「俺は……あの丘で待ってるよ、紗季」
その声は喉まで込み上げたが、言葉にはせず、カップにすべてを託した。
その小さな器が、彼女との時間をつなぐ唯一のもののように思えた。
ポケットの中には、いまだ開封されないままの手紙がある。
彼は封筒にそっと触れたが、それ以上、手を動かすことはなかった。
——読めない。読んだら彼女が戻ってこないような気がした。
それでも、彼女の言葉はもう胸の中にある。あの笑顔も、声も、息遣いさえも。全部、ここに。
その夜、病室の窓には静かに満月がかかっていた。
風がそっとカーテンを揺らし、淡い月明かりが、ベッドに横たわる彼女の輪郭を優しく包む。
恭介はふたたび、彼女の顔を見つめた。目を閉じたその表情は、まるで眠っているようだった。
そして、まるでそっと手をほどくように——
彼は、やさしく言った。
「——じゃあ、またね」
