【短編小説】最後のデートに、レモンティーと嘘ひとつ ‐第4章‐ #創作大賞2025
タクシーの後部座席に身を沈めながら、恭介は名刺を握ったまま視線を落としていた。『中央総合病院 消化器外科 川端宏文』。 名刺の角が、指先の汗でわずかに反っている。その裏に手書きされた日付と時間が、何かの暗号のように脳裏に焼きついて離れなかった。
窓の外を、オレンジ色に染まる街並みが流れていく。ビルの谷間に差し込む西日が、時折フロントガラスに反射して車内を照らすたび、恭介の瞳がわずかに細まった。
「……なんで教えてくれなかったんだろう」
思わず漏れた声に、運転手がルームミラー越しにちらりと彼を見たが、すぐに視線を前へ戻した。
不安と焦燥が、じわじわと喉元まで満ちてきていた。紗季が何を隠していたのか。なぜ自分には一言も相談してくれなかったのか。それでも、あの日の別れ際に見せた微笑みの奥に、強がりと悲しみが同居していたことを、今なら理解できる。
彼女の真意を、少しでも知りたかった。後悔は、いつだって遅れてやってくる。
タクシーが病院の前に停車した。見上げた建物は、想像よりもずっと大きく、威圧感すら覚えるほどだった。灰色の壁面に刻まれた病院名が、冷たく光っている。
支払いを済ませると、恭介は名刺をポケットにしまい、深呼吸をひとつして自動ドアへと歩みを進めた。
入り口をくぐると、エントランスの空気はひんやりと澄んでいた。無機質な白い光、消毒液の匂い。数人の人がベンチに腰掛けており、誰もがどこか沈んだ顔をしている。
受付に立つと、対応した若い女性スタッフが優しく微笑んだ。
「こんにちは。ご用件をお伺いします」
恭介は一瞬、言葉を探した末に名刺を取り出し、差し出した。
「この先生の診察を受けている知人のことで、どうしても確認したいことがあって……」
受付の女性は名刺に視線を落とし、それから恭介の表情を読み取るように見つめた。
「恐れ入りますが、患者様のご家族、または代理人でなければ、診療情報をお伝えすることはできない決まりとなっておりまして……」
その一言に、恭介の心臓が軽く沈んだ。当然だ。病院にとっては、見知らぬ一人の男に過ぎないのだから。
「……自分は、その人の恋人でした。いえ、恋人、だったんです……。でも、どうしても知りたいんです。何が起きているのか」
口から出た言葉が震えていた。それでも、その言葉の熱だけは、受付の女性の表情をわずかに動かしたように見えた。
「少々、お待ちいただけますか」
彼女は小さく会釈すると、奥へと姿を消した。恭介はその場に立ち尽くしながら、自動販売機の横にある長椅子に視線を送った。その椅子に、もし紗季が今も座っていたら。自分は、何を言うだろうか。――言葉なんて、きっと意味を成さない。
ただ、彼女が無事なのか、元気でいるのか知りたい——。その一心だった。
「申し訳ありません、ご家族以外の方に患者様の情報をお伝えすることはできません」
その返答は想定の範囲だった。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「……どうかお願いします。彼女の安否だけでも、知りたいんです……」
その言葉に、奥のほうで控えていた事務員がこちらへ歩み寄ってくる。
「家族の方ではないので、詳細は申し上げられません。ただし、岸本紗季様が一週間ほど前から当院へ入院されたことは、記録上確認できます」
心臓が跳ねる。やはり彼女はここにいた。
これ以上は、情報は出せません——そう言いたげな視線。
「……ありがとうございます。それだけで、十分です」
深く頭を下げ、恭介はカウンターから離れた。
彼女の痕跡を、ようやく掴んだ気がした。何もできない。何もわからない。たったそれだけのことが、これほど無力に感じたのは初めてだった。
時間はすでに午後四時を回っていた。通行人の数が徐々に増え、白衣の看護師や私服の医師らしき人々が足早にロビーを通り過ぎていく。
恭介はロビーの端にある自販機に向かった。気持ちを切り替えたかった。缶コーヒーのボタンを押すと、鈍い音とともに温かい缶が転がり出てくる。
そのときだった。自動ドアの開く音。反射的にそちらを振り向いた瞬間、恭介の全身が凍りついた。
——岸本由紀子。紗季の母親だった。
小柄な体に淡いグレーのカーディガン。髪には白いものが少し混じっている。化粧っ気はなく、表情も疲れているように見えたが、それでもどこか凛とした雰囲気を保っていた。
きっと紗季の母も自分らが別れたことは知っているだろうし、恭介は迷った。声をかけるべきか、それともこのまま見送るべきか。だが、自分がここにいる意味を思い出し、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「……岸本さん」
その名を呼ぶと、彼女は足を止めた。目を見開き、こちらを見つめる。それは、驚きと、戸惑いと、そしてどこかで“覚悟していた”ような目だった。
「朝井くん……?」
「お久しぶりです。……突然で、すみません」
由紀子は一瞬だけ視線を伏せた。そしてゆっくりと頷く。
「こんなところに……どうしたの?」
恭介は黙って名刺を差し出した。由紀子はそれを見て、眉をわずかに寄せる。
「紗季が、急に別れを切り出して……それがどうしても不可解で。なぜ僕の前から消えたのか……それが少しずつ繋がってきて、この病院に。何かあったんだろうけど……せめて紗季の安否だけでも知りたいと思って」
由紀子は深く息をついた。
「紗季に会わせる前に話をしたいことがあるの……場所を変えましょう」
彼女は無言のまま、病院ロビーの奥にある小さな相談室へと恭介を案内した。
誰もいない個室。木目のテーブルと、簡素な椅子が二脚。窓もなく、外の気配は一切届かない。
ドアが静かに閉まると、空間は急に音を失った。由紀子は膝の上に紙袋をそっと置き、その上に両手を重ねた。
「恭介君。——あなたは、紗季のことをどこまで知っているのかしら?」
静かだが、真っ直ぐに刺さってくる問いだった。
恭介は一瞬、返答に詰まる。だが、すぐに自分を奮い立たせたように口を開いた。
「……どこまでって……五年も一緒にいました。だから、何でもわかっているつもりです」
「そう、つもりね」
由紀子の返しは、どこか優しく、しかし確かな重さを孕んでいた。
思わず、恭介の眉が動く。
「……どういうことですか?」
由紀子はゆっくりと視線を紙袋に落としながら、穏やかな口調で続けた。
「先週、紗季は手術を受けたの。肝臓の一部を摘出する手術よ」
“摘出”——その響きに、空気が一瞬凍りついた。
恭介は無意識に息を飲んだ。
「……紗季が? そんな……体調が悪そうになんて、全然見えなかったのに」
「そうよ。紗季は、ずっと健康そのものだった。……悪かったのは、私のほうなの」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
だが、由紀子の次の一言で、すべてが明確になる。
「紗季はね、私に——肝臓の一部を提供するために、手術を受けたのよ……医師から“成功です”と告げられたとき、正直、ほっとしたわ。……でも、喜びより先に湧いてきたのは、胸の奥に染みつくような罪悪感だったの。私は、娘の身体を削って、生かされている。そう思うとね……心のどこかで、息をするたびに申し訳なくなってしまうのよ」
頭の中で、音が弾けるようだった。
椅子の背もたれに寄りかかっていた体が前に傾き、恭介は小さく声を漏らした。
「……そんな……他に、ドナーを待つとか、方法は……」
「やっぱり、紗季はあなたに何も言わなかったのね」
由紀子の声が少しだけ震えていた。
彼女はそっと紙袋の口を閉じるように、手を添えた。
「——あの子は、小学生のときに重い腎臓の病気を患ったの。ある日、突然意識を失って、病院に運ばれて……そのとき、私が自分の腎臓を提供したのよ」
恭介は、瞬きもできずに黙っていた。血の気が引いていくのが、自分でも分かる。
「母として、他の選択肢なんてなかった。……それは、あの子だって同じだったのね。今度は自分が“助ける番”だって。そう言って、聞かなかったのよ。——肝臓の一部を、私にあげるんだって」
由紀子は声を詰まらせ、そっと目元に指を添えた。
それは涙ではなく、耐えるための仕草だった。
その言葉一つ一つが、恭介の胸の奥に突き刺さる。
あの日、紗季が「少し距離を置きたい」と言ったあの表情。
未来を怖がるように目を伏せた理由。
——すべてが、そこに繋がっていた。
「どうして……なぜ、そんなに大きなことを、僕に隠したんですか……」
恭介の声は震えていた。
それは怒りでも悲しみでもなく、言葉にならない混乱と、自分への苛立ちだった。
「紗季はね……あなたには知られたくなかったのよ。あなたとの未来を思うと、手術を受けるのが怖いって」
恭介は目を伏せ、膝の上で拳を握り締めた。
本当は気づいていた。
あの日の紗季の、あまりにも優しすぎる微笑み。
でも、自分が正面からそれを受け止めることを、どこかで恐れていたのかもしれない。
——彼女は、命を賭してまで、誰にも悲しませたくなかったのだ。
相談室の壁越しには、病院の機械音がかすかに響いていた。
一定のリズムで繰り返されるその音が、かえって空間の静けさを際立たせていた。
「……紗季は、今……どこにいるんですか」
由紀子が放った言葉に、恭介の目が大きく揺れた。恭介は、言葉にならない感情を胸に押し込めながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……会わせてもらえますか」
静かな問いかけに、由紀子は穏やかに微笑んだ。
その微笑みには、言葉にできない想いが、確かに宿っていた。
