【短編小説】最後のデートに、レモンティーと嘘ひとつ ‐第3章‐ #創作大賞2025
病室の窓から差し込む午後の光が、レースのカーテン越しに淡く揺れていた。岸本紗季は、母・由紀子の横顔を見つめていた。ベッドの上の母は、薄く化粧をしていたが、頬の肉が少し落ち、目の周りの影が濃くなっている。元気なときには決して見せなかった“老い”のようなものが、そこに確かに存在していた。
「……肝不全、なんだって。右葉の萎縮が進んでて、近いうちに移植を考えた方がいいって。でもね、先生に大きな病院で治療するための紹介状も貰ったし、明日行ってくるからきっと大丈夫よ」
そう言って母は、いつものように静かに笑った。
言葉の意味がすぐには理解できなかった。肝臓の右葉。移植。それは、誰かが命の一部を差し出さなければならないという、あまりに重たい響きをもっていた。
「そんな……急に、どうして」 紗季の声が震える。
「疲れやすくなってね。最初は年のせいかと思ってた。でも背中の痛みが抜けなくて、病院で検査したら……」
背中の痛み——それは、母がいつも「寝違えたみたい」と言って笑っていた症状だった。まさか、その奥にこんな現実があったなんて。
紗季は目を伏せた。記憶の底から、鈍く重たい痛みが浮かび上がってくる。
——あのときも、母が私を助けてくれた。
小学校四年の冬、突然倒れて意識を失ったあの日。原因不明の病気に、家族中が動揺した。
緊急入院となり、治療の選択肢は限られていた。
「あなたが生きてくれるなら、私は何でもいい」
母がそう言って手を握ってくれたあの瞬間と、白くぼやけた手術室の天井——。その情景だけが、今でも鮮明に残っている。
数週間の入院の末、奇跡的に回復した。
その出来事は、折りたたまれた布のように、長い間ずっと胸の奥にしまわれていた。
「……お母さん、私にできること、ある?」 紗季は、ほとんど反射的にそう口にしていた。
母は目を閉じ、ゆっくりと首を振った。
「今はまだ、大丈夫よ。検査もあるし、まだ段階的な話だから」
でも紗季は、わかっていた。これは“いつか”ではない。今、動かなければならない。
ふと、母の手に目を落とす。かつて、その手が自分の命をつないでくれた。その温度を思い出しながら、紗季は静かに席を立った。
「お母さん、紹介状見せて」
「私のカバンに封筒入っているでしょ、それよ」
その封筒には『中央総合病院 消化器外科 宛て』と手書きで記されていた。今の紗季にはこれだけの情報で十分だった。
「ちょっと、一件だけ電話してくるね……」
母が何かを言いかけたが、紗季はすでにスマホを手にして、病院の番号を検索していた。 胸の奥が、熱を持っているように、ざわついていた。
***
保険証を握る手に、うっすらと汗が滲んでいた。紗季は中央総合病院の受付で、名前と用件を告げると、案内された椅子に深く腰を下ろした。周囲には高齢の患者が多く、どこか穏やかな空気が流れている。だが、紗季の心臓は落ち着かず、まるで踏切の警報音のように一定の緊張を保ち続けていた。
「次の方どうぞ」
名前を呼ばれ、診察室に入ると、そこには白衣の中年男性が座っていた。名札には『消化器外科・川端宏文』とある。
「岸本紗季さんですね。今日はどうされましたか?」
紗季は息を吸い込み、すぐに答えた。
「実は……母が肝不全と診断され、肝右葉の移植を待っている状態です。私はその……提供者になれるかどうか、相談に来ました」
川端医師は軽く目を見開いた後、落ち着いた声で返した。
「お母さまのお名前は?」
「岸本由紀子です。昨日こちらで診察を受けたと聞いています」
医師はカルテを確認すると、頷いた。
「確かに、昨日いらしてました。由紀子さんですね。状態としては進行性の肝硬変により、今後の肝機能維持が困難となる見込みです。移植を検討する段階ではありますが……ご家族が提供の意思をお持ちなのは心強いことです」
「お願いします。どうしても私に移植させてください」
思わず身を乗り出した紗季に、医師は手のひらをやんわりと上げた。
「まずは、ご本人の健康状態が適応条件を満たすかどうかを確認しなければなりません。肝臓のドナーにはいくつかの厳しい条件があります。体重、血液型、肝機能、精神的な安定性——それらすべてをクリアする必要があります」
「全部、調べてください。問題ないなら……すぐにでも」
言い切る声は震えていたが、その奥に宿る決意は、確かな熱を帯びていた。
「では、必要な検査をいくつか受けていただきます。今日から数日の間に、血液検査、CT、MRI、それから心理カウンセリングを受けていただきます。結果が揃えば、移植チームの会議で適合可否を判断します」
「……わかりました」
紗季はゆっくりと頷いた。
診察室を出た廊下に、外来の案内音が響いていた。どこか遠くから聞こえるその音が、紗季にはまるで運命が自分を次のステージへと導いているように感じられた。
母の命を、守るために。それが自分に与えられた、たった一つの使命だと信じた。
***
診察室の外で渡された結果報告書を、紗季は震える指先でゆっくりとめくった。検査はすべて終わった。血液検査、CTスキャン、肝機能の詳細な数値——すべてに目を通した主治医は、医療用語を交えながらも、慎重に言葉を選んで伝えてくれた。
「岸本さんの肝臓は、医学的にお母様への生体肝移植の提供が可能です。特に右葉は、体格差を考慮しても適切なサイズで、血管構造にも大きな問題はありません。移植を行うとすれば、成功率は、母体の状態も含めて……おおよそ八十パーセントと見込まれます」
八十パーセント。高い数字のようで、低くも思える。その“残りの二割”に、紗季は自分の命が含まれているのだと考えると、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「ご本人の強い意思と、ご家族の同意があれば、速やかに移植準備に入れます。ただし、お母さんの準備にも時間を要するので、移植手術は三か月ないし、四か月後に実施を予定しましょう。手術の数日前にはは紗季さん、あなたの血液を予め採取して、万が一に備える必要もあります。その後は貧血のような症状もあるかと思いますあら、十分に気を付けてください」
「わかりました。日程はいつでも合わせますので」
「繰り返しになりますが、手術のリスク、術後の合併症、そして社会生活への影響は……十分にご理解いただく必要があります」
紗季は静かに頷いた。すでに理解しているつもりだった。命を預けること、その意味。
だが、診察室の外に出た瞬間、その決意が少しだけ揺らいだ。
待合スペースのソファに腰を下ろし、バッグからスマートフォンを取り出す。画面には何件かのメッセージが表示されていた。
《今週末に映画見に行こうぜ》 《あの丘、今日も空がきれいだったよ》
恭介からのものだった。未読のまま、そっと画面を閉じる。
手術までの期間は長くても四か月——。彼に打ち明けるべきか。いや、違う。これは私だけの戦いだ。
彼に話してしまえば、きっと止められるだろうし、何より私の心が揺らぎそう——。
でも、もし逆の立場だったら。私が母の命を受け取っていなければ、今の私は存在していない。そう思うと、誰に止められても、譲れないものがあった。
「……ごめんね、恭介」
そのつぶやきは、誰にも届かない小さな祈りのように空気に溶けていった。紗季は深呼吸をして、椅子の背にもたれた。
病院の窓の外では、秋の雲が静かに流れていた。
***
「お母さん、少しだけ時間、いい?」
病院の中庭に面したベンチに腰かけ、紗季は母・由紀子の隣に座った。蝉の声が途切れなく響き、強い陽射しが木々の隙間からこぼれ、足元にくっきりと影を落としていた。
「どうしたの? 病室でも話せたのに」
「……ここで話したかったの。静かで、落ち着いてて」
由紀子はふと笑みをこぼした。
「あなた、昔からそうだったわね。大事な話の前には、場所から整える」
紗季も少しだけ笑った。けれど、すぐに表情を引き締める。
「お母さん、検査のことだけど——」
その言葉に、由紀子の背筋が微かに伸びた。まるで、覚悟していたものが眼前に現れたように。
「……私、ドナーとして適合してた。肝右葉。移植、できるって」
木々の揺れる音が一瞬止まったような静寂。由紀子はゆっくりと紗季の顔を見た。娘の目には、曇りがなかった。強く、決意に満ちていた。
「……だめよ」
そう言った母の声は、思いのほか早く、そして冷静だった。
「なんで?」
「あなたは、まだ若い。結婚だって、出産だって、これからなのよ。そんなあなたに……身体の一部をもらうなんて、私にはできない」
「でも、お母さん、私は——」
「違うの。これは、親としての“当然の感情”なの。あなたが元気でいてくれるなら、私はそれで十分。命の終わり方は選べなくても、誰かの未来を削って生き延びることはしたくない」
その言葉に、紗季は一瞬だけ、涙をこぼしそうになった。だが、俯いてそれをこらえた。
「お母さん、昔ね、私の腎臓が悪かったとき……言ってくれたよね。“命はつながっていくためにある”って」
由紀子の瞳が揺れる。
「私、あの言葉、今でも覚えてる。——だから、今度は私がつなげたいの」
風が、またそっと吹き抜けた。葉の擦れる音と、遠くで鳴るチャイムの音だけが場を埋める。
「……考えさせて」
それだけを残し、由紀子はそっと目を閉じた。拒絶でも、承諾でもない。その表情は静かで、でもどこか切なさを含んでいた。
紗季は何も言わず、ただ隣に座り続けた。
沈黙がすべてを語っていた。揺れる母の気持ち。決して軽くない選択。
だけどその沈黙の中に、少しだけ希望の予感が混じっているように——紗季は、そう感じていた。
***
窓から差し込む朝の光が、病室のカーテン越しに柔らかく揺れていた。
静かな音で目覚めた紗季は、隣の椅子に置かれた母のセーターをそっと手に取った。昨日の夜、付き添ってくれたまま眠ってしまった母の温もりが、まだそこに残っていた。
ベッドの脇の小さな引き出しを開ける。中には、封筒が一枚。無地の白い便箋に、淡くグレーの縁取りが施されている。紗季はそれを手に取り、一息ついて、ゆっくりとペンを走らせた。
言葉を選ぶたびに、胸の奥に波が立つ。どんな言葉を書いても足りないと思った。
書きながら、涙は流れなかった。ただ、呼吸が少しだけ浅くなる。それは覚悟を固めている証のようでもあった。
「……お願いがあるの。これ、もしものとき、渡してくれる?」
書き終えた手紙を封筒に入れ、母にそっと手渡す。由紀子は口を開きかけて、何も言わなかった。ただ受け取り、胸に抱いた。
紗季は最後に鏡の前に立つ。青い手術着を着た自分が、そこにいた。顔色は少し青白く、頬が心なしかこけて見える。けれど瞳はまっすぐで、どこにも迷いはなかった。
スマホを取り出し、いつものトークアプリを開く。
最上段に表示される「朝井恭介」の名前。そのアイコンを、しばらく見つめる。
けれど、結局メッセージは打たなかった。
いま何かを伝えるよりも、彼が“本当に必要なとき”にだけ、言葉が届けばいい——そう思った。
「準備は整いました」
看護師の声に、紗季は静かに頷いた。
ストレッチャーに仰向けに乗ると、白い天井が視界いっぱいに広がる。無機質な蛍光灯の列が、まるで時を刻むように流れていく。
「きっと、大丈夫」
心の中で自分に言い聞かせる。
この命は、母にもらったもの。そして今度は、母の未来へつなげるもの。
その重みと意味を、彼にも——いつか、ちゃんと伝えたかった。
やがて手術室の扉が音もなく開いた。
眩しい光の中へと、紗季の身体が吸い込まれていく。
そのとき、彼女の目が一瞬だけ閉じた。それは眠りではなく、まるで“祈り”のようだった。
扉が閉まり、世界が静かになる。
もう戻れない場所へと、自分が向かっていることを、紗季ははっきりと知っていた。
だが、心は不思議なほど静かだった。
未来を委ねるように、そっと身を預けた。
