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第二章 先生みたいになりたい

 扉を開けると、そこには大きな声がなかった。

 葵は、最初にそれを思った。

 集団塾の教室にあった、ホワイトボードを叩く音も、先生の声も、生徒たちが一斉に椅子を引く音も、ここにはなかった。

 あるのは、鉛筆が紙の上を動く小さな音と、誰かがページをめくる音と、少し低い声で説明する先生の声だった。

 教室は、思っていたより狭かった。

 長机がいくつか並び、その一つ一つに先生と生徒が隣り合って座っている。壁には大きな合格実績のポスターは貼られていなかった。代わりに、手書きの予定表や、少し色あせた学校案内のチラシが、まっすぐではない角度で貼られていた。

 完璧ではない感じがした。

 葵は、それに少しだけ安心した。

 入口の近くにいた丸眼鏡の男の先生が、葵と母を見て立ち上がった。

「森下さんですね。お待ちしていました」

 母が、すぐにきちんと頭を下げた。

「今日からよろしくお願いします」

 葵もあわてて頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 声が小さくなった。

 でも、その先生は聞き返さなかった。

「はい。じゃあ、今日は最初なので、担当の先生と少し話して、それから英語を見ていきましょう」

 葵は、英語、という言葉に少しだけ体を固くした。

 英語が特別嫌いなわけではない。けれど、最近は何を聞いても、受験、成績、志望校、という言葉につながっていく気がしていた。

 丸眼鏡の先生が、教室の奥に声をかけた。

「加奈先生」

 長机の一つで生徒のノートを見ていた女の人が、顔を上げた。

 白いブラウスに、薄いグレーのカーディガンを羽織っている。髪は肩より少し長く、後ろでゆるくまとめていた。大学生、と聞いていたけれど、葵には大人に見えた。

 加奈先生は、生徒に何かを短く伝えてから、静かに立ち上がった。

「森下葵さん?」

 呼ばれた声は、思っていたよりずっとやわらかかった。

「はい」

「今日から担当する加奈先生です。大学三年生。よろしくね」

 加奈は、先生です、と強く言わなかった。

 それなのに、ちゃんと先生に見えた。

 葵はもう一度、頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「じゃあ、こっちに座ろうか」

 加奈先生は、教室の端にある長机へ案内した。母は、丸眼鏡の先生と少し話をすることになり、葵だけが席に座った。

 椅子に座ると、机の表面に細かな傷があるのが見えた。

 誰かが消しゴムでこすった跡。

 シャープペンシルの先でついたような小さなへこみ。

 端の方には、うっすらと鉛筆の黒ずみが残っている。

 たくさんの人が、ここで問題を解いたのだと思った。

 加奈先生が、葵の横に座った。

「緊張してる?」

 葵は、どう答えればいいかわからなかった。

 大丈夫です、と言うのが普通だと思った。でも、大丈夫ではなかった。

 少し迷ってから、葵は小さくうなずいた。

「はい」

 加奈先生は、笑わなかった。

「そっか。じゃあ、今日はゆっくりやろう」

 ゆっくり。

 その言葉が、胸の中に落ちた。

 葵は、ここ最近、ずっと急いでいた気がした。

 早く慣れなきゃ。
 早く頑張らなきゃ。
 早く普通に戻らなきゃ。
 早く教室に入らなきゃ。
 早く塾に行かなきゃ。

 でも、加奈先生は、ゆっくり、と言った。

「最初だから、何ができるか見る日ね。できないところを探す日じゃなくて、今どこにいるか見る日」

「今、どこにいるか……」

「うん。地図みたいなもの。今いる場所がわからないと、どっちに行けばいいかわからないでしょ」

 葵は少しだけ顔を上げた。

 受験の話なのに、怒られている感じがしなかった。

 加奈先生は英語の問題集を開き、最初のページを指で押さえた。

「じゃあ、ここを一緒に見てみようか。わからなかったら止まっていいからね」

 止まっていい。

 それも、葵には不思議な言葉だった。

 塾では、止まったら置いていかれると思っていた。学校でも、みんながわかっている顔をしている中で、自分だけ止まるのは怖かった。

 けれど加奈先生は、止まっていいと言った。

 葵は問題を読んだ。

 英文は短かった。単語も、ほとんど見たことがあるものだった。けれど、並び方がわからなくなると、急に全部が遠くなった。

 葵の手が止まった。

 また止まってしまった、と思った。

 加奈先生がノートをのぞきこんだ。

「ここまで考えたのは合ってるよ」

「え」

「主語はちゃんと見つけられてる。動詞もこれで合ってる。今止まったのは、その後ろのかたまりのところだね」

 葵は、ノートを見た。

 自分では、全部わからなくなったと思っていた。でも加奈先生は、できているところを先に言った。

「ここ、全部間違いじゃないんですか」

「ううん。全部間違いじゃないよ。途中まで合ってる」

 途中まで合っている。

 それだけで、少し息がしやすくなった。

 加奈先生は赤ペンを持ったが、すぐには書きこまなかった。

「葵さん、まず自分で線を引いてみる? この中で、一つの意味のかたまりだと思うところ」

「はい」

 葵は、少し迷いながら線を引いた。

 加奈先生はうなずいた。

「うん、いいね。今の引き方、かなり近い」

 かなり近い。

 葵は、答えが丸かバツかだけではないことを久しぶりに思い出した。

 授業は、静かに進んだ。

 加奈先生は急がなかった。葵が黙って考えている時間にも、すぐに答えを言わなかった。けれど、放っておかれている感じもしなかった。

 わからないところで止まると、加奈先生は少し待ってから、

「今、どこで迷った?」
と聞いた。

 葵が答えられない時は、

「単語?」
「並び方?」
「日本語にするところ?」
と選べるようにしてくれた。

 葵は、久しぶりに問題だけを見ていた。

 先生の顔色でも、周りの音でも、怒られるかどうかでもなく、目の前の英文だけを見ていた。

 授業の終わりに近づいたころ、加奈先生が問題集を閉じた。

「今日はここまでにしようか」

「はい」

「疲れた?」

 葵は少し迷った。

 疲れていた。でも、嫌な疲れではなかった。

「少し」

「そっか。最初の日にここまでできたら十分だよ」

 十分。

 それも、久しぶりに聞く言葉だった。

 母はいつも、葵ならもっとできる、と言った。

 学校では、みんなやっている、と言われた。

 集団塾では、受験生なんだから、と言われた。

 十分、と言われることは、ほとんどなかった。

 加奈先生が、ふと思い出したように聞いた。

「葵さん、好きなものってある?」

「好きなもの、ですか」

「うん。勉強以外で」

 勉強以外。

 葵は、答えていいのか少し迷った。

 好きなものを言うのは、少し怖い。前に学校で、植物の話を少しだけしたことがあった。すると、あとから別の子が、「なんかおばあちゃんみたい」と笑っていた。

 直接言われたわけではない。

 でも聞こえてしまった。

 それから葵は、植物の話を学校でしなくなった。

 けれど、加奈先生の声は急かしていなかった。

「植物、です」

 小さく言うと、加奈先生の目が少し明るくなった。

「え、私も花好きだよ」

「本当ですか」

「うん。見るのが好き。春はネモフィラ見に行ったり、バラ園行ったり」

 葵の胸の奥が、少しだけ跳ねた。

「ネモフィラ、いいですよね。横浜だと少し遠いけど、広いところで見ると空みたいで。でも、鉢でも育てられるんです。徒長しやすいから、日当たりが大事で、あと水をあげすぎると根が弱くなって……」

 そこまで言ってから、葵は止まれなくなった。

「ラナンキュラスも好きです。今ベランダで育てていて、本当は春の花なんですけど、暑さに弱いから夏越しが難しくて。花が終わった後に葉っぱが黄色くなってきたら、水を切って、塊根を掘り上げるか、そのまま乾かすか迷うんです。でも塊根って球根みたいに見えるけど、本当は根が太ったものだから、チューリップとは違って……」

 加奈先生が、少しだけ目を丸くした。

 葵は続けてしまった。

「あと、クレマチスも種類で剪定が違うんです。新枝咲きと旧枝咲きと新旧両枝咲きがあって、間違えて切ると次の花が咲かないことがあるから、タグをなくしちゃだめで。ミニトマトも脇芽を取るタイミングがあって、でも取りすぎると寂しくなるし、バジルと一緒に植えると見た目もかわいくて……」

 話しながら、葵は自分の声が少し大きくなっていることに気づいた。

 加奈先生は笑っていた。

 でも、それが困っている笑いなのか、面白がっている笑いなのか、わからなかった。

 急に、葵の胸が冷えた。

 またやってしまった。

 相手が少し花を好きだと言っただけなのに、自分だけが一気に話してしまった。

「すみません」

 葵は、うつむいた。

「え?」

「変ですよね」

 加奈先生が首をかしげた。

「変?」

「こういうの、いっぱい話すと……変だと思うので」

 葵は、机の傷を見た。

 言わなければよかった、と思った。

 好きなものは、心の奥にしまっておけば傷つかない。自分だけでベランダに出て、植物に話しかけていればよかった。

 加奈先生は、少しだけ考えるように間を置いた。

 その間が、葵には長く感じた。

「変じゃないよ」

 葵は顔を上げなかった。

「ただ、私、見るのは好きだけど、育てたことはほとんどないから」

「……はい」

「だから、今の話、半分くらいわからなかった」

 葵の肩が小さく下がった。

 やっぱり、と思った。

 でも加奈先生は続けた。

「でも、葵さんがすごく好きなのはわかった」

 葵は、少しだけ目を上げた。

 加奈先生は笑っていた。

 今度は、困っているようには見えなかった。

「花って、見るだけでもきれいだけど、育てる人はそんなことまで考えてるんだね」

「……考えます」

「そっか。すごいね」

 すごい。

 その言葉を聞いても、葵はすぐには受け取れなかった。

 すごい、ではなく、変、の方が近い気がした。

 加奈先生は時計を見た。

「じゃあ、今日はここまで。次は来週の同じ時間ね」

「はい」

 葵は教材をしまった。

     ◇

 母が迎えに来て、丸眼鏡の先生と少し話をしていた。加奈先生が母に、今日の授業のことを短く説明する。

「英文の読み方は、途中まではかなり見えていました。焦ると全部わからなくなった感じがするみたいなので、まずは区切って読む練習をしていきます」

 母は、安心したようにうなずいた。

「そうですか。よろしくお願いします」

 葵は、母の横で黙っていた。

 帰り道、母が言った。

「優しそうな先生でよかったじゃない」

「うん」

「ここなら続けられそう?」

 葵は少し考えた。

 続けられるかどうかは、まだわからない。
 でも、今日は教室から逃げ出さなかった。

 誰にも怒鳴られなかった。
 止まってもよかった。

「たぶん」

「たぶん?」

 母が少し笑った。

 葵はあわてて言い直した。

「うん。大丈夫だと思う」

 また大丈夫と言ってしまった。

 でも、今日の大丈夫は、前の大丈夫とは少し違っていた。

 家に帰ると、葵は着替える前にベランダに出た。

 五月の風は、四月より少し湿っていた。ラナンキュラスは、花びらの端が少し疲れ始めていた。きれいに咲いている花もあれば、もう中心がほどけて、形が崩れかけている花もある。

 葵はしゃがんだ。

「今日、加奈先生っていう先生だった」

 ラナンキュラスは、何も答えなかった。

「ゆっくりやろうって言ってくれた」

 葵は、指で鉢の縁をなぞった。

「でも、植物の話しすぎちゃった」

 風が吹いて、花びらが少し揺れた。

 やっぱり、話しすぎたと思った。

 加奈先生は優しかった。

 でも、本当は少し引いたかもしれない。

 次からは、あまり話さないようにしよう。

 葵はそう決めて、ベランダの床に置いていた小さなジョウロを見た。

 水をあげるには、少し遅い時間だった。夕方以降の水やりは、鉢の中が冷えたり、湿りすぎたりすることがある。

 だから今日は、水をあげなかった。

 土の表面だけを見て、まだ大丈夫、と確認した。

 植物は、見ればわかることがある。

 葉の色。

 茎の張り。

 土の乾き方。

 新芽の向き。

 でも人は、見てもわからない。

 加奈先生が本当はどう思ったのか、葵にはわからなかった。

     ◇

 次の授業の日まで、葵は何度か学校の保健室へ行った。

 教室に入れない日が、まだあった。

 朝、制服に着替えて家を出るところまではできる。校門を通ることもできる。廊下を歩くこともできる。

 でも、教室の前まで行くと、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 中から聞こえる笑い声。

 机を動かす音。

 誰かが大きな声で先生に話しかける声。

 それだけで、足が止まる。

 保健室の先生は、葵に無理に理由を聞かなかった。

「今日はここで少し休む?」

 そう言ってくれるだけだった。

 葵はうなずいて、保健室の端の椅子に座った。

 窓際に、小さな観葉植物が置いてあった。

 ポトスだった。

 少し葉が黄色くなっている。たぶん、水が多すぎるか、光が足りない。

 葵は言いかけて、やめた。

 また、変だと思われるかもしれない。

 植物のことになると、葵は余計なことを言いたくなる。

 でも、言わなければ安全だった。

 その日の夕方、ステップバイステップへ向かう時も、葵は少し緊張していた。

 今日は、植物の話をしない。

 聞かれても、少しだけにする。

 そう思いながら、古いビルの階段を上がった。

 ガラス扉の「ステップバイステップ」の文字は、やはり少し曲がっていた。

 葵は、その曲がり方を見て、ほんの少し息を吐いた。

 完璧ではなくても、ここにあっていい。

 そんなふうに見えた。

 教室に入ると、加奈先生が先に机に座っていた。

「葵さん、こんにちは」

「こんにちは」

 加奈先生の前には、英語の問題集と、ノートが置かれていた。

 その隣に、もう一枚、何か紙があった。

 葵は椅子に座った。

「先にちょっとだけ聞いていい?」

「はい」

 加奈先生は、その紙を葵の方へ向けた。

 そこには、プリントアウトされた植物の写真がいくつか並んでいた。

 丸く重なった花びらの花。

 細い茎に咲く紫の花。

 青い小さな花が広がる風景。

 葵は、すぐにわかった。

「ラナンキュラス……」

「うん。この前のラナンキュラスなんだけど」

 加奈先生は少し照れたように笑った。

「調べてみた」

 葵は、言葉が出なかった。

「夏越しって難しいんだね。暑さと湿気に弱いって書いてあった。横浜だとけっこう大変?」

「……大変です」

「あと、塊根って、球根じゃないんだね」

 加奈先生は、紙の端に自分で書いたらしいメモを見た。

「根が太ったもの、って書いてあった。チューリップみたいな球根とは違うって。これ、合ってる?」

 葵は、加奈先生を見た。

「調べたんですか?」

「うん」

「なんで……」

 加奈先生は少し首をかしげた。

「なんで、って」

 葵は、プリントの写真を見た。

 ラナンキュラス。
 クレマチス。
 ネモフィラ。

 葵がこの前、勢いで話してしまった花たちだった。

「私が、話したからですか」

「そうだよ」

 加奈先生は、当たり前みたいに言った。

「好きなこと話してる時の葵さん、楽しそうだったから」

 胸の奥で、何かが小さく音を立てた気がした。

 葵は、プリントから目を離せなかった。

 誰かが、自分の好きなものを覚えていてくれた。

 誰かが、それを家に持ち帰って、調べてくれた。

 それは、葵にとって、思っていたよりずっと大きなことだった。

 加奈先生は、紙を指で押さえながら言った。

「でも、私、本当に見る専門だったから、育てる話は全然わからなくて。間違ってたら教えて」

「……はい」

「クレマチスの剪定も見たんだけど、難しすぎない?」

 加奈先生が少し困った顔をした。

「新枝咲き、旧枝咲き、新旧両枝咲きって、名前からしてもう難しい」

 葵は、思わず笑いそうになった。

「難しいです。でも、慣れるとわかります」

「葵さん、わかるの?」

「少しだけです」

「少しだけで、それ?」

 加奈先生が目を丸くした。

 葵は、今度は少しだけ笑った。

「タグをなくさなければ、大丈夫です。あと、花が終わった後にどこで切るかが違って……」

 そこまで言って、葵はまた止まった。

 話しすぎてはいけない。

 けれど加奈先生は、ペンを持った。

「待って。今の、書く」

「え」

「タグをなくさない。花が終わった後、どこで切るかが違う」

 加奈先生はノートの端に、本当に書いた。

 葵は、それを見ていた。

 先生が、生徒の言葉をメモしている。

 そのことが、不思議だった。

「すごいね」

 加奈先生が言った。

「植物って、ただ水をあげればいいわけじゃないんだ」

「はい」

「葵さん、いつから育ててるの?」

「小学校の時からです。最初は朝顔で、そのあとミニトマトを育てて。学校のは夏休みに持って帰ったら枯れちゃったんですけど、悔しくて、家でまた育てました」

「悔しかったんだ」

「はい」

 葵は、少しだけ考えた。

「枯れると、かわいそうなので」

 加奈先生は、何も言わずに聞いていた。

「でも、枯らさないようにしようと思って水をあげすぎても、根腐れするんです。日が強すぎても弱るし、日が足りなくても花が少なくなるし。優しくするだけじゃだめで、ちゃんと見ないといけなくて」

 言いながら、葵は自分で驚いた。

 植物の話をしているのに、少しだけ、自分の話をしている気がした。

 加奈先生は静かにうなずいた。

「ちゃんと見る、か」

「はい」

「それ、勉強も少し似てるかもね」

 葵は顔を上げた。

「勉強もですか」

「うん。頑張れって言うだけだと、真夏の陽に当てすぎるみたいになることがあるし、守りすぎても弱っちゃうし。今どこが苦しいのか、ちゃんと見ないといけないのかもね」

 葵は黙った。

 加奈先生の言葉は、母の言葉とは違っていた。

 頑張れ、ではなかった。

 逃げるな、でもなかった。

 ちゃんと見る、だった。

「じゃあ、今日は英語もちゃんと見ようか」

 加奈先生が問題集を開いた。

「ラナンキュラスの続きは、最後にまた聞かせて」

 葵は、はい、と答えた。

 その日の授業は、前より少しだけ早く進んだ。

 でも、急がされている感じはしなかった。

 加奈先生は、問題を解く前に、

「今日はここが目標」
と小さく区切ってくれた。

 葵が途中で止まると、

「今、頭の中で何が引っかかった?」
と聞いた。

 葵は、少しずつ答えられるようになった。

「このthatが、何なのかわからないです」

「いいね。そこに気づけたら大事」

「いいんですか」

「うん。わからない場所が言えるのは、かなりいい」

 わからないことを言ってもいい。

 それがわかるだけで、問題は少し小さくなった。

 授業の最後、加奈先生はまたプリントを出した。

「で、ラナンキュラスは、花が終わったらどうするの?」

 葵は、今度は少しだけ迷ってから話した。

「葉っぱが黄色くなってきたら、水を減らします。完全に地上部が枯れたら、掘り上げる人もいます。私は去年、掘り上げたら小さい塊根が折れちゃって……だから今年は鉢のまま乾かそうか迷ってます」

「折れるんだ」

「折れます。けっこう繊細なので」

「そっか」

 加奈先生は、ラナンキュラスの写真を見た。

「こんなに花びらが多いのに、根っこは繊細なんだね」

 葵は、その言葉を聞いて、少し胸が痛くなった。

 加奈先生は、たぶん何気なく言っただけだった。

 でも葵には、その言葉がしばらく残った。

 花びらが多いのに、根っこは繊細。

 きれいに咲いているように見えても、土の中では弱いところがある。

「葵さん?」

 加奈先生に呼ばれて、葵は我に返った。

「大丈夫?」

 葵は少しだけ笑った。

「大丈夫です」

 今度の大丈夫は、前より少し本当だった。

     ◇

 その帰り道、葵はいつもより少しだけ歩くのが速かった。

 母は仕事が長引いていて、今日は一人で帰ることになっていた。駅までの道には、夕方の人の流れがあった。会社員、高校生、買い物袋を持った人、スマートフォンを見ながら歩く人。

 その中で、葵は鞄の中に入れたプリントのことを考えていた。

 加奈先生が調べてきてくれたラナンキュラス。

 クレマチス。

 ネモフィラ。

 ただのプリントだった。

 インターネットで調べれば、誰でも出せるものだった。

 でも、葵には宝物みたいに思えた。

 家に帰ると、母はまだ帰っていなかった。

 葵は制服のままベランダに出た。

 ラナンキュラスは、夕方の光を受けていた。花びらの端は少し乾いて、色も少し薄くなってきている。それでも、中心の方にはまだ濃い色が残っていた。

 葵はしゃがんだ。

「加奈先生、塊根のこと、調べてくれたんだよ」

 声に出すと、胸の奥が少し熱くなった。

「球根じゃないって、ちゃんと覚えてた」

 ラナンキュラスは、何も答えなかった。

 けれど、花びらが風で少し揺れた。

 葵は、鉢の横に置いていた小さなスコップを手に取った。土の表面を、ほんの少しだけ整える。

 水は、まだいらない。

 あげすぎないことも、世話だった。

「先生、すごいんだよ」

 葵は、小さく言った。

「優しくて、頭がよくて、ちゃんと見てくれる」

 自分の好きなものを笑わずに聞いてくれる。

 わからないことを、わからないままにしないで、調べてくれる。

 問題が解けない時も、できているところを見つけてくれる。

 葵は、ラナンキュラスの少し開きすぎた花を見た。

「私も、加奈先生みたいになれたらいいな」

 その言葉は、思っていたより自然に出た。

 誰かみたいになりたいと思うのは、久しぶりだった。

 普通になりたい、ではなく。

 ちゃんとしなきゃ、でもなく。

 加奈先生みたいになりたい。

 葵は、その違いをまだうまく言葉にできなかった。

 ただ、胸の奥に、小さな芽のようなものが出た気がした。

 まだ、花ではない。

 葉でもない。

 土の中で、何かが少し動いただけ。

 葵はそれを、そっと見つめていた。

 葵はまだ知らなかった。

 加奈先生もまた、自分の先に何があるのかわからずに、立ち止まり始めていることを。

 先生に見えたその人も、本当はまだ、自分の春を探している途中なのだということを。

 ベランダのラナンキュラスは、夕方の風に揺れていた。

 咲き終わりに近づいた花の下で、次の季節のための小さな根が、土の中に静かに残っていた。


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