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【#映画感想文】 ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち 奇妙さは守られるべきか byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】

Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。

毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。

なお番組の最新エピソードご聴取はこちらよりどうぞ↓


序章 守られた檻という名の楽園

映画は、海辺の朽ちた屋敷へと向かう少年の足取りを、やや低い視線で追いかける。崩れた壁、風に揺れるカーテン、埃の舞う室内。演出はまず「失われた場所」として屋敷を提示する。だが次の瞬間、映画は同じ屋敷を、1943年9月3日の朝へと巻き戻す。時計の針が戻り、爆撃機の影が空を横切る。構図は変わらない。だが時間だけが閉じる。ここで映画は、空間を“保護”の容器として描き始める。

演出は、同じ一日を繰り返す「ループ」という構造を選択する。屋敷は外界の戦争から切り離され、子供たちは異能によって互いを支えながら暮らしている。空中に浮かぶ少女、火を操る少年、透明になる子供。異能は脅威ではなく、屋敷の内部では秩序を保つ要素として配置される。構図は常に対称的で、食卓は円形、子供たちは中心に向かって整然と並ぶ。演出は「安定」を視覚化する。

しかし映画は、その安定を常に爆撃機の影で縁取る。空を横切る黒い機影は、ループの外にある現実を示し続ける。屋敷の中では時間が停止しているが、屋敷の外では戦争が進行している。この二重構造は、心理学でいう“回避的適応”を思わせる。外界の脅威から距離を取り、安全な環境に閉じこもることで自己を守るあり方だ。だが映画はそれを肯定も否定もしない。ただ、ループという形式で提示する。

映画の序盤において、屋敷は明るい自然光で満たされる。色彩は柔らかく、木目の質感が強調される。だがその明るさは、爆撃という一瞬の死と隣り合わせであることが、観客には繰り返し示される。つまり映画は、「保護」と「破壊」を同一のフレームに収める。ループは子供たちを守る装置であると同時に、彼らを時間の外へと固定する檻にも見える。

異能は屋敷の内部では称賛されるが、外界では“奇妙”として扱われる。その語りはまだ直接的には語られない。ただ、主人公が外から来る存在であるという構図が、隔絶を可視化する。映画は、異能を持つ子供たちを「守るべき存在」として配置しながら、その守りがどこまで主体的で、どこからが管理なのかを曖昧にする。

ループという形式は、時間を止めることで安全を確保する。だが時間を止めるとは、成長を止めることでもある。発達心理学でいう「発達課題」は時間の経過とともに更新される。映画はその更新を意図的に拒否する空間を作る。ここで提示されるのは、守られた共同体の静かな美しさと、その静止の不気味さだ。

映画は、屋敷を楽園のように描きながら、その楽園が爆撃という死を毎日受け止めることで成立していることを隠さない。守るために、同じ死を繰り返す。この逆説的な構造が、物語の読み方を決定づける。

第1章 反復する爆撃と整列

映画は、ループの内部を単なる避難所としてではなく、精密に設計された共同体として描く。演出は一日の流れを几帳面に反復する。朝食の時間、庭での遊戯、授業のような時間。構図は常に整理され、子供たちは食卓を囲み、廊下を整然と歩き、視線は屋敷の中心へと収束する。映画は“秩序だった生活”を、繰り返しのリズムで可視化する。

とりわけ象徴的なのは、爆撃の直前に整列する身体である。サイレンが鳴り、外に出て、そして時間を巻き戻す。爆風に吹き飛ばされる瞬間までを、何度も体験する。その反復は、恐怖を薄めるための儀式のように見える。行動心理学でいう“系統的脱感作”を思わせる。恐怖刺激に段階的に曝露することで反応を弱める手法だ。映画は、爆撃という極限の出来事を日課に組み込むことで、恐怖を生活化する。

演出は異能の使い方にも一貫した規則性を持たせる。空中に浮く少女は重りをつけて地面に繋がれ、透明な少年は必要な時だけ姿を現す。火を操る力は制御され、怪力は家具の運搬に用いられる。映画は、異能を“逸脱”ではなく“機能”として再配置する。共同体の内部では、異能は役割となる。そこでは「奇妙さ」は問題にならない。むしろ、均衡を保つ部品として整えられている。

構図はしばしば対称性を強調する。階段の中央に立つミス・ペレグリン、左右に並ぶ子供たち。中心と周縁が明確に分かれ、カメラは低い位置からそれを見上げる。この視点は、共同体の重心がどこにあるかを明示する。統率者は中央に立ち、時間を管理する。社会学でいう“パターナリズム”に近い構造だ。保護の名の下に、管理が行われるあり方である。だが映画はそれを強圧的には描かない。むしろ穏やかな母性的統制として提示する。

爆撃の反復は、屋敷の外の歴史を切断する装置でもある。1943年という年号は固定され、第二次世界大戦という現実は永遠に進行しない。映画は歴史を停止させ、内部だけを循環させる。この停止は、子供たちを守る一方で、彼らを“現在”から排除する。時間の外に置くことは、安全と引き換えに成長の機会を奪う可能性を孕む。

反復される生活は、安定を生む。しかし同時に、変化への感受性を鈍らせる。演出は微細な違和感を混ぜ込む。外から来た主人公の視線が、整列の隙間を映す。彼の存在だけが、反復のリズムをわずかにずらす。映画は、完璧に見える秩序の中に、外部の揺らぎを挿入する。

爆撃と食卓、異能と役割、統率と安心。映画はそれらを繰り返し提示することで、共同体を“自然なもの”のように見せる。しかしその自然さは、反復によって作られている。

第2章 語られない外部

映画は、屋敷の内部を丁寧に描く一方で、外部については驚くほど語らない。戦争は爆撃機の影として現れるだけで、兵士の顔も、戦場の惨状も示されない。演出は意図的に“外”を抽象化する。空を横切る黒い機影と、爆風の衝撃だけが、外界の存在を告げる。この省略は、外部を単なる脅威として固定する装置に見える。

構図は屋敷の内側を柔らかな光で包み、外側を霧や曇天で覆う。境界線は明確だが、越境のプロセスは曖昧である。主人公がループに入る瞬間も、扉をくぐるだけで説明は最小限に留められる。映画は「なぜこの子供たちが選ばれたのか」「他に同じような存在はいないのか」といった問いを深掘りしない。この語られなさが、逆に隔絶の強度を浮かび上がらせる。

とりわけ象徴的なのは、“ホローガスト”と呼ばれる存在の描き方だ。彼らは目を持たず、口だけが裂けたように描かれる。演出は彼らの視線を奪う。視線の不在は、社会心理学でいう“脱個人化”を思わせる。個別の人格が剥奪され、単なる脅威として処理される状態だ。映画は敵を抽象化し、子供たちとの対比を強める。

しかし映画は、ホローガストの成り立ちを詳細には語らない。彼らもまた、かつては異能者であった可能性が示唆されるが、その経緯は断片的だ。ここで映画は、“逸脱した異能”が怪物化するという図式を提示しながら、その過程を隠す。語られない過程は、共同体の内側にいる子供たちとの紙一重の差異を暗示する。

また、屋敷の外で暮らす一般社会の描写も限定的だ。主人公の父は祖父の語る物語を否定し、現実的で合理的な態度を取る。だがその社会がどのように異能を扱うのかは、ほとんど示されない。映画は「奇妙なものは隠される」という前提だけを残す。排除の制度や具体的な迫害の歴史は、あえて映さない。

この欠落は、屋敷を安全地帯として強調するための演出であると同時に、保護の根拠を曖昧にする。なぜ隔絶が必要なのか。その問いに対する具体的証拠は提示されない。映画は、脅威の存在を抽象的に示すことで、隔絶を自明化する。

語られない外部は、見えないまなざしとして屋敷を取り囲む。目を持たない怪物と、姿を見せない社会。その二重の不可視性が、子供たちの閉じた生活を正当化するかのように機能する。だが同時に、その不可視性は、保護がどこまで現実に根ざしているのかを不確かにする。

映画は、説明を削ぎ落とすことで、隔絶の構造だけを浮かび上がらせる。語られないものがあるからこそ、屋敷は強固に見える。

第3章 保護者の微笑と檻の鍵

映画は、ミス・ペレグリンを常に穏やかな微笑とともに配置する。構図は彼女を中央に置き、子供たちはその周囲に円環を描く。カメラはしばしば彼女をやや下から捉え、包容と威厳を同時に示す。演出は彼女を「守る者」として明確に位置づける。時間を巻き戻す能力は、爆撃の死から子供たちを救い続ける。ここで映画は、保護の正当性を視覚的に強調する。

しかし映画は同時に、鍵を握る手元を強調する。ループの維持は彼女の決断に依存し、外に出るかどうかも彼女の裁量に委ねられる。子供たちは安全だが、選択の自由は限定されている。演出はその制限を直接批判しない。ただ、主人公が屋敷の外に出る動きを挿入することで、円環の外側を示す。

この分岐点は、主人公が屋敷に残るか否かを選ぶ場面にある。映画はここで、保護を“恩恵”として描きながら、それが永続するとは限らないことを示す。発達心理学でいう「自立」の過程を思わせる。安全基地から離れることで、自己が確立されるという概念だ。だが映画はそれを理論として語らない。あくまで構図の変化として提示する。屋敷の内側から、外へと歩き出すフレームの移動。それが意味を担う。

一方で、映画はホローガストへと変貌した存在を、制御不能な逸脱として描く。彼らはかつてループを破ろうとした者たちであり、結果として怪物化した。ここに、保護を離れることへの警告が潜む。外へ出ることは成長であると同時に、崩壊の可能性を孕む。映画は両義性を保ったまま、どちらにも傾き切らない。

構図の違いが、この分岐を際立たせる。屋敷内部は左右対称で、色調は温かい。外界の場面は非対称で、色は寒色寄りになる。秩序と不均衡。保護と曝露。映画は視覚的対比によって、二つの読みを併存させる。

また、子供たち自身がループの中で役割を持ち続ける様子は、共同体の安定を示すと同時に、固定化の危うさも示す。役割が変わらないことは安心だが、更新の機会を奪う。社会学でいう“制度化”に近い。制度は安定を生むが、逸脱を許容しない傾向を持つ。映画は制度そのものを否定しない。ただ、制度が閉じたままであるときの静かな停滞を映す。

保護は確かに子供たちを救っている。だがその救済は、時間を止めることで成立している。外へ出ることは危険だが、止まり続けることもまた、別種の危険である。映画はその均衡点を示さない。むしろ、観る者に選択の余白を残す。

終章 時間が動き出したあと

映画は、ループの崩壊とともに構図を変える。屋敷はもはや固定された円環ではなく、移動を前提とした空間へと変わる。ミス・ペレグリンは鳥へと変身し、子供たちは新たな場所へ向かう。演出はここで初めて、反復を手放す。爆撃の瞬間は繰り返されず、時間は前へ進む。映画は“守られた一日”という形式を解体する。

終盤の構図は流動的だ。列車、港、異なるループを渡り歩く移動の連続。カメラは水平移動を多用し、円環ではなく直線的な運動を強調する。屋敷という静的なフレームから、世界を横断するフレームへ。映画は、隔絶された共同体をそのまま保存するのではなく、動的な状態へと置き換える。

だが映画は、完全な解放を描かない。子供たちは依然としてループの内部で生きる。時間は動き出したが、それは別のループへの移動である。構造自体は温存される。ここに、保護と排除の構図が反復される。映画は制度を壊さない。形を変えて持続させる。

主人公が現代へ戻るラストのシーンは、二つの時間軸を並置する。過去と現在が交差し、異能の存在は日常へとにじむ。演出は、奇妙さを完全に隠さない。むしろ現実の中に微細な裂け目として残す。この処理は、精神分析でいう「抑圧の回帰」を思わせる。一度封じ込められたものは、別の形で戻るという考えだ。映画は異能を消し去らない。世界の隙間に置く。

終幕の静けさは、明確な結論を拒む。屋敷の生活は理想郷だったのか、それとも停滞だったのか。映画はどちらとも言わない。ただ、時間が動き出した後の空気を映す。そこには、守られた記憶と、外へ出た痕跡が同時に残る。

構図は最後まで人物を中央に固定しない。移動の途中でフレームが切れる。完結よりも継続を選ぶ編集だ。物語は閉じず、ループも完全には終わらない。保護は形を変え、排除もまた別の姿を取る。

映画は、異能を持つ子供たちの未来を具体的に示さない。成長した姿も、社会との摩擦も描かれない。語られなかった未来が、画面の外に広がる。その余白が、この物語の本体であるかのように。

守られた世界は、確かに温かい。しかし温かさは、境界線によって保たれている。境界が揺らいだとき、何が残るのか。映画は答えを提示しない。ただ、時間だけが進む。


podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#ポケ沼⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

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