【#映画感想文】 海の上のピアニスト なぜ帽子を捨てたのか byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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【序章 降りかけて、帽子を捨てた男】
タラップの途中で立ち止まる男がいる。船を降りると決め、外套に袖を通し、階段を半分まで下りる。目の前には陸が広がっている。高い建物が並び、無数の道がどこまでも伸びている。彼はそこで足を止め、しばらく街を見つめ、やがてかぶっていた帽子を海へ投げ捨て、船へと引き返す。
彼——1900は、生まれてから一度も陸に足をつけたことがない。航海の途中で拾われ、船の上で育ち、船の上でピアノを覚えた。そして物語の最後には、解体される船とともに消えることを選ぶ。陸へ渡る最後の機会を、彼は自分の手で手放している。
この選択を、多くの人は悲劇として受け取る。あるいは、世界を知らない男の頑なさとして。外へ出る勇気を持てなかったのだ、と。確かにそう読むこともできる。けれど彼の振る舞いを順に追っていくと、その読み方はどこかで引っかかる。あのタラップの上で、彼は震えてはいなかった。手すりにしがみついて後ずさったのでもない。自分の足で下り、街を見て、自分の意思で帽子を投げ、戻ってきた。怯えた人間の動きではない。何かを見極めた人間の動きだ。
1900にとって、生きることと音楽を奏でることは、はじめから切り離せなかった。彼は楽譜を読んで演奏を覚えたのではない。船に乗り込む客の顔つき、歩き方、その人が抱えていそうな来歴を眺め、そこから旋律を立ち上げる。目の前の誰かが、そのまま音になる。彼の演奏は、生活の外にある特別な技芸ではなく、彼が世界を受け取る仕方そのものだった。だから彼にとって、船を降りるかどうかという問いは、住む場所を変えるかどうかという問いではない。自分がこれまで生きてきたやり方を、そのまま続けられるかどうかという問いだった。
興味深いのは、あのタラップの場面で、彼が理由を一言も口にしないことだ。なぜ戻るのかを、彼は誰にも説明しない。帽子が海に落ちる、その動作だけが残る。理由が語られるのは、もっと後になってからだ。だからこの映画は、「降りなかった男」の理由を、観る側が彼の後ろ姿を追いながら少しずつ拾っていく構造になっている。
この序章で確かめておきたいのは、1900が「陸を怖がった臆病な男」ではない、ということだ。彼が最後まで手放さなかったものは何で、逆に手放したものは何だったのか。それは、彼のセリフや、鍵盤に向かうときの手つき、船の上で交わした数少ない関係を、一つずつ見ていくことでしか分からない。降りかけて帽子を捨てたあの一瞬に、彼という人間のほとんどが畳み込まれている。まずはそこから、彼を追っていきたい。
【第1章 目の前の人が、そのまま曲になる】
船の一等サロンで、1900はピアノに向かっている。隣にはマックスがいる。にぎわう客たちを眺めながら、彼はふいに演奏を始め、小声でマックスに説明する。あの女性は、若い頃に道ならぬ恋をして、それを今も悔いている。だからこういう音になる、と。視線を別の客へ移すと、旋律も変わる。ある男には軽やかで落ち着かない調子を、別の誰かにはどこか湿った音をあてがう。目の前の人間が入れ替わるたび、彼の指の下で曲が入れ替わっていく。
ここで起きているのは、ただの余興ではない。1900は、その場にいる人間を一人ずつ見て、その人の来歴や気配を旋律に翻訳している。彼にとって作曲とは、頭の中から音を取り出す作業ではなく、目の前の誰かを読み取る作業に近い。人がいなければ、彼の音楽は始まらない。即興というより、観察に近いと言ってもいい。
彼がどこでこの手つきを身につけたのかは、生い立ちを見ると腑に落ちる。1900は、船の機関室で働くダニーに拾われ、甲板の下で育った。楽譜を与えられたわけでも、教師についたわけでもない。ダニーが事故で世を去ったあと、幼い彼はある夜、一等サロンのピアノを勝手に弾いている姿を見つかる。規則違反だと咎める船長に、彼はためらいなく言い返す。規則なんか知るものか、と。誰かに習った音楽ではない。船の中で見聞きした人間たちが、そのまま彼の音になっていた。
だから彼の演奏は、聴かせる相手によって温度が変わる。着飾った一等客の前では洒落た音を鳴らすが、二等船室では、彼はまるで別人のように奔放に弾きはじめる。誰に評価されるかではなく、いま目の前に誰がいるか。それだけが、彼の音を決めている。彼の音楽は、地位や名声のために積み上げるものではなく、その場に居合わせた人と一緒にいるための、いわば身のこなしのようなものだった。
こうして見ていくと、1900にとって船が特別だった理由が、少しずつ形をとってくる。船は、彼が世界を受け取るための、ちょうどよい大きさの器だった。決まった数の乗客が乗り込み、顔があり、来歴があり、やがて降りていく。その一人ひとりを彼は見て、音にできる。読み取れる範囲の人間と、読み取れる範囲の別れ。彼の音楽が成り立つ条件は、実はかなり具体的で、限られていた。この「限られていること」が、後に陸との関係を考えるうえで効いてくる。
【第2章 友が差し出した「外」を、彼は受け取らない】
マックスは、船の楽団に加わったトランペット吹きだ。嵐の夜、固定を外れて船内を滑るピアノに二人で乗り、弾きながら笑い転げる——その場面から関係が始まる。以後マックスは、1900にとってほとんど唯一の友人になる。そして同時に、彼を「外の世界」へつなごうとする、ただ一本の糸にもなる。
マックスがしていることは、はっきりしている。彼は1900に、船を降りろと言い続ける。お前の才能は本物だ、陸に上がればレコードが売れる、有名になれる、人生が開ける、と。善意だ。目の前に途方もない才能があって、それが船の中だけで消えていくのを、彼は友人として惜しむ。願いそのものは、まっとうだ。
だが1900は、その糸を一本ずつ、静かにほどいていく。象徴的なのはレコードの場面だ。技師がやってきて、彼の演奏が初めて録音される。窓の外に若い女性の姿を見つけた1900は、その人を見つめながら、これまでで最もやわらかい曲を弾く。演奏は見事に刻まれる。ところが盤ができあがると、彼はそれを手放そうとしない。自分が行けない場所へ、自分の音楽だけを行かせるわけにはいかない——そう言って盤を抱え込む。彼にとって音楽は、自分と切り離して売り物にできるものではない。
そのレコードには、もう一つの意味が重なる。彼はそれを、窓の外にいたあの女性に渡そうとする。彼女を追って、彼は初めて本気で陸を意識する。人を好きになるという、いちばん分かりやすい形で、外の世界が彼を呼ぶ。序章で触れたタラップの場面は、この延長線上にある。彼は外套を着て、階段を下りかけた。動機はちゃんとあった。それでも彼は、街を見て、帽子を投げ、戻ってくる。
ここで見落としてはならないのは、彼が誘いを拒むとき、マックスを拒んでいるわけではない、ということだ。友情は最後まで壊れない。むしろ物語全体が、マックスが1900を探し、彼のことを語り続ける形で進んでいく。1900が断っているのは、友人ではなく、「音楽と自分を引き離して、外で成立させる生き方」のほうだ。名声も、レコードも、陸の暮らしも、彼にとっては、自分の音楽が成り立つ条件の外側にある。差し出された「外」は、たとえ善き友の手からのものであっても、受け取れない。受け取った瞬間に、彼が彼でなくなるからだ。
【第3章 弾ける鍵盤の数だけが、彼の世界だった】
解体を待つ古い船の中で、マックスは1900を探し当てる。船はもう使い物にならず、大量のダイナマイトで爆破されることが決まっている。マックスは必死に説得する。船と一緒に消えるつもりか、外へ出ればまだやり直せる、と。そのときようやく、1900は自分がなぜ降りなかったのかを、初めて自分の言葉で語る。
彼はピアノの鍵盤を引き合いに出す。鍵盤は88しかない。数は決まっている。有限だ。けれどもその88の上でなら、無限の音楽を奏でられる。鍵盤は有限で、弾き手のほうが無限なのだ、と。ところが、と彼は続ける。あのタラップの上から街を見たとき、目に入ったのは終わりのない鍵盤だった。道は数えきれず、どこまでも伸びていて、端がない。無限に並んだ鍵盤の上では、曲は弾けない。それは人間のための鍵盤ではない、と。
ここで、序章で保留にしたあの帽子の意味が回収される。彼は怖くて戻ったのではなかった。弾けないと分かったから戻ったのだ。第1章で見たとおり、彼の音楽は、目の前の人間を一人ずつ見て、読み取り、音にするものだった。読み取れる範囲の顔、読み取れる範囲の別れ。船という器は、まさにその「読み取れる大きさ」に区切られていた。陸には、その区切りがない。無限の顔、無限の道、終わらない選択。彼の音楽が成り立つ条件そのものが、そこには存在しない。
彼は陸を、自分には大きすぎる船、長すぎる航海、といった言い方で語る。広すぎて、美しすぎて、自分にはどう弾けばいいか分からないもの。注意したいのは、彼がここで「陸などくだらない」と外の世界を否定しているわけではない、ということだ。彼はあくまで、それが自分の弾ける鍵盤ではないと見極めている。世界の側の問題ではなく、自分と世界の噛み合い方の問題として語っている。
そして彼は降りない。友の説得を受け入れず、船とともに消えることを選ぶ。この選択を、負けや逃げと読むこともできる。じっさい、そう受け取る人は多い。だが第1章から彼の手つきを追ってきた目には、別の像が浮かぶ。彼は最後まで、自分が音楽でいられる場所に留まった。弾ける鍵盤の数が、そのまま彼の生きられる世界の大きさだった。その大きさを、彼は無理に広げようとしなかった。広げれば、彼はもう音楽ではいられなかったからだ。彼にとって、生きることと弾くことは、最初から同じ一つのことだった——だから、弾けない場所では、生きることもできなかった。
【終章 消える間際まで、彼は困っていなかった】
マックスは説得に失敗する。1900は船を降りず、船とともに爆破される側に残る。友を見送ったあと、彼は一人になる。もう外に出ることも、生き延びることもない。それでも彼の表情に、悲壮なものはない。
最後の場面で、1900は死後の世界の話を、まるで軽口のように語る。天国に着いたら少し困ったことになりそうだ、というような調子で。それから彼は、ありもしないピアノに向かうように、宙で両手を広げてみせる。鍵盤はそこにない。それでも指は、弾く形をなぞる。目の前に楽器がなくても、彼はやはり弾いている。冗談めかしたその仕草に、怯えも後悔もない。彼は、自分の消え方に納得している。
この落ち着きは、ここまで彼を追ってきた者には、唐突に見えない。第1章で、彼の音楽は目の前の人間を読み取ることから始まると確かめた。第2章で、彼は音楽と自分を切り離して外で売ることを拒んだ。第3章で、彼は陸を「弾けない鍵盤」として見極め、船に留まった。その一つひとつが、この最期に畳み込まれている。彼は最後まで、自分が音楽でいられる場所から動かなかった。だから消える瞬間まで、困っていない。
彼にとって、生きられる世界の大きさは、弾ける鍵盤の数と同じだった。88という有限の中でなら、無限に音を鳴らせる。だが端のない鍵盤の上では、一音も置けない。彼は世界を狭く生きたのではなく、自分が音楽でいられるちょうどの広さを、最後まで手放さなかった。広い世界を捨てたというより、自分の弾ける世界を選び切った、と言うほうが近い。
もちろん、この選び方を肯定する必要はない。降りていれば別の音楽があったかもしれない、と惜しむ見方も成り立つ。じっさいマックスは、最後までそう思い続ける。この映画が彼の死をまっすぐ美談にしないのは、その惜しみを、マックスという友の目を通してちゃんと残しているからだ。降りなかったことが正しかったのかどうかを、映画は決めない。ただ、降りなかった男が、最後まで自分の音楽の中にいた、という事実だけを、静かに置いていく。
タラップの途中で帽子を捨てたあの一瞬から、宙で両手を広げるこの一瞬まで。1900という人間は、終始一貫して、弾ける鍵盤の内側にいた。その内側で、彼はたしかに、無限を弾いていた。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
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