【#映画感想文】 9.11前夜に生まれた、最後の無邪気なスパイ——『スパイキッズ』トゥイーン映画説、全力展開 映画『スパイキッズ』 少年時代企画その2 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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では記事②を生成します。
9.11前夜に生まれた、最後の無邪気なスパイ——『スパイキッズ』トゥイーン映画説、全力展開
映画『スパイキッズ』少年時代企画その2
作品概要は記事その1を参照。今回はまこによる本論編。底抜けに明るいスパイ映画がなぜ2001年にしか生まれえなかったのか。「トゥイーン」という概念、通過儀礼論、フロイトのファミリーロマンスを経由しながら、この一見シンプルなファミリー映画の構造を読み解いていく。
第1章 2001年という臨界点
[1.1] 底抜けに明るいスパイ映画が生まれたギリギリのタイミング
まこが今回の分析で真っ先に押さえたのは、この映画が作られた時代の文脈だった。
『スパイキッズ』が公開されたのは2001年3月。そしてその半年後、世界は9.11を経験する。
まこ談:「本作って本当に重要な作品だなと思うのは、底抜けに明るいスパイ映画というものを子供向けに展開できたっていうのが、本当にギリギリのスライディングだったなって思うんですね」
この指摘は鋭い。スパイという職業をめぐる表象は、9.11を境に劇的に変化する。それ以降に作られたスパイ映画を見ると、そのトーンの変化は歴然としている。
まこ談:「ボーン・アイデンティティとかさ、結構シリアスがっつり路線だよね。まあやっぱり後ろ暗い印象で描かれることのほうがおそらくは増えていって、それは一つ安全保障のために先んじてリスクを取り除いていくみたいな。そういうリスクを伴う仕事みたいな形にやっぱり切り替わっていって」
ジェイソン・ボーンシリーズ(2002〜)に代表される2000年代以降のスパイ映画は、スパイという存在の暴力性・孤独・倫理的曖昧さを正面から描くものが増えていく。国家に使い捨てられる個人、消えない過去、信頼できない組織——そういうトーンが主流になっていった背景には、9.11以降の世界における「安全保障」の意味の変容がある。
まこ談:「ある種だから子供たちがスパイグッズみたいなものを——存在するのかわからないような、とんでもないスパイグッズで無双してわーいみたいな——なんかこうそういう面白さのおもちゃ化してスパイを見ることができたのは、本当にこの作品はギリギリのラインだったんだろうなという気がしてますね。ちょっとでも時機が伸びていたら、ひょっとしたらこのビッグタイトルは世に出ていなかったかもしれないとすら思います」
"History doesn't repeat itself, but it often rhymes."(翻訳:歴史は繰り返さないが、しばしば韻を踏む) ―― マーク・トウェイン(諸説あり)
スパイキッズが体現した「スパイのおもちゃ化」は、2001年という瞬間にしか成立しなかった表象だったのかもしれない。時代の空気が半年ずれていれば、あの無邪気さは許容されなかったかもしれない——そういう意味で、この映画は時代の縫い目に滑り込んだ作品だとまこは言う。
[1.2] ボーン・アイデンティティ以後の世界と、スパイ表象の変容
スパイ映画の歴史を少し整理しておくと、007シリーズに代表される冷戦期のスパイ映画は、ガジェットと色気と痛快な勝利に満ちた娯楽だった。スパイは超人であり、国家の英雄であり、観客が憧れる存在だった。
スパイキッズはこの系譜の末端に位置する。スパイをおもちゃ化し、子供向けに翻訳し、家族の絆の物語に落とし込んだ。ある意味では007的なスパイ表象の「最終形態」とも言える。
それが9.11以降、スパイという存在は別の意味を帯びていく。ボーン・アイデンティティのジェイソン・ボーンは、記憶を失い、自分が何者なのかもわからないまま国家機関に追われる。スパイは英雄ではなく、システムの被害者として描かれるようになる。
まこ談:「そういうリスクを伴う仕事みたいな形にやっぱり切り替わっていって」
この変化は映画表象の問題にとどまらない。実際に9.11以降、CIAやNSAの活動に対する世論の目は複雑化し、エドワード・スノーデンの告発(2013年)に至るまで、「スパイ機関」という存在への信頼と不信が社会的なテーマになっていった。スパイキッズが描いた「スパイ=かっこいい冒険」という等式は、現実の側から解体されていったのだ。
だからこそ、2001年3月に公開されたこの映画の無邪気さは、今見ると一種の輝きを放っている。それは時代の無垢さそのものの輝きでもある。
第2章 トゥイーンという名の中間地帯
[2.1] 「トゥイーン」とは何か——ティーンでもキッズでもない8〜12歳
本論の核心に入る前に、まこはひとつの概念を導入した。「トゥイーン(Tween)」である。
まこ談:「もうね、死語ですね、トゥイーンは」
すでに死語になりつつある言葉だが、概念としての有効性は失われていない。
まこ談:「ティーネイジャーとは呼ばれないけれどもかといっていわゆるキッズではないと。その間にいるよっていう、BetweenのTweenです。TeenとKidsの間のBetweenだからそれをTweenと呼ぶという感じですね」
8歳から12歳ごろ、思春期の入口に立ちながらもまだ大人にはなりきれていない年齢層。この時期の子供は、子供文化にも大人文化にも完全には属せない宙づりの状態に置かれる。
まこ談:「まあその間の時期ですよ、社会に出る前の。まあそういうこう一番どっちつかずな年齢、それでいてもやっぱりどっちつかずだからこそちょっと自信がないような、そんな年齢、これをTweenというふうに呼んだそうです」
マーケティングの世界では1990年代以降にこの層が注目されはじめ、彼らの消費行動や文化的趣味が独自のカテゴリとして分析されるようになった。映画産業もこの流れと無縁ではなく、トゥイーン向けのコンテンツは「子供向け」とも「青春映画」とも異なる独自の文法を持つようになっていく。
[2.2] どっちつかずの年齢が生む不安と成長のエネルギー
トゥイーンという時期の本質は「どっちつかず」の不安にある。
子供のままでいることへの居心地の悪さ。かといって大人になることへの準備も覚悟もまだない。カルメンが弟のジュニーを「子供くさい」と感じるのも、ジュニーが姉の目を意識しながら自分の趣味を隠そうとするのも、このトゥイーン特有の心理から来ている。
まこ談:「本作は結構重要な作品だなと思うのは……本作で重要だったのはやっぱり親が不在になるということですよね。親がいない中でその子供たちがいろいろ頑張っていくっていうことによって、なんかこう主体性であったりだとか協調性だったりだとか……そういうものが伸びていって。でだんだんと客観視もできるようになっていくと。そこで初めてこう自分の兄弟を通して改めて自己を見つめ直すみたいな」
興味深いのは、本作がトゥイーンを主人公に据えながら、物語の推進力として「親の不在」を選んだことだ。大人の保護なしに世界と向き合わなければならない状況——これはトゥイーンが心理的に抱えている問題の、物語的な外在化だとまこは読む。
心理的には親離れしたいが、現実にはまだ親なしでは生きられない。その矛盾をスパイアクションという形式で可視化したのが『スパイキッズ』だという見立てだ。
第3章 通過儀礼としてのスパイミッション
[3.1] ファン・ヘネップの三段階——分離・過渡・統合
「親が連れ去られ、子供たちだけで世界を救いに行く」というプロット。これをまこは文化人類学の概念と接続する。
まこ談:「本作ですごく重要なのはその両親がさらわれて2人がまあ頑張っていくっていうストーリーが、要は通過儀礼ですよね。通過儀礼を通して子供たちが成長していくと」
通過儀礼(rites of passage)という概念を整理したのは、フランスの民族学者アルノルト・ファン・ヘネップ(1873〜1957)だ。1909年に発表した著作『通過儀礼』の中で、彼は世界中の成人式や儀式を比較検討し、文化圏を超えた共通構造を発見した。
まこ談:「世の中世界中にいろんな成人の儀式みたいなものってやっぱり存在していて。でいろいろ比較していくと、異なる文化圏で全く背景が違っても基本構造は同じ。どんな通過儀礼でも。その段階は分離と過渡と統合によってなっていると」
三段階の構造は以下の通りだ。まず「分離」——それまでの自分や共同体から引き離される。次に「過渡」——どこにも属さない中ぶらりんの状態に置かれる。そして「統合」——新しい自分として共同体に戻っていく。
まこ談:「それでいうとスパイキッズも結局両親が連れ去られて子供たちだけでセーフハウスにこもらなければならない。でもそれじゃいけないぞ。じゃあどこに行けばいいんだ。じゃあどこに行けば両親を救えるのかというところで旅に出ていく。これが過渡期ですよね。で最終的には家族のもとへ帰還していくっていう」
スパイミッションというフォーマットが、通過儀礼の三段階に見事に対応している。カルメンとジュニーは親に守られた日常から強制的に切り離され、どこにも頼れない状態で世界と向き合い、そして家族のもとへ新しい自分として帰還する。スパイ映画の文法が、成長物語の文法と完全に一致しているのだ。
[3.2] 親の不在が強制するイニシエーション
ファン・ヘネップの枠組みで見たとき、本作において特に重要なのは「親の不在」という設定の必然性だ。
多くの子供向け映画において、親は序盤に退場する。ディズニー映画を思い浮かべるだけでも、その傾向は明らかだ。シンデレラ、白雪姫、バンビ、ライオンキング——親の死や不在が物語の出発点になっているケースは枚挙にいとまがない。
これは物語の都合だけではない。親が存在する限り、子供は庇護される側にとどまり、主体的な行動を起こしにくい。子供を物語の主体として機能させるためには、保護者を取り除く必要がある。それが「親の不在」という装置の本質だ。
スパイキッズの場合、親の不在はさらに一歩踏み込んだ意味を持つ。両親はただ「いなくなる」のではなく、「救出される必要がある」存在として描かれる。子供たちが親を守る立場に逆転するのだ。これはトゥイーンという年齢層に対して特に有効なメッセージになっている——「あなたたちはもう、守られるだけの存在ではない」という宣言として機能するからだ。
"It takes courage to grow up and become who you really are."(翻訳:成長して本当の自分になるには、勇気がいる) ―― E.E.カミングス
カルメンとジュニーがスパイとして世界を救いに行くとき、彼らは単に両親を取り戻しに行っているのではない。「自分が何者であるか」を初めて自分の力で確かめに行っているのだ。
第4章 フロイトのファミリーロマンスと「本当の親」
[4.1] 親への幻滅と理想化——ファミリーロマンスとは何か
まこの分析はここからさらに深みに入っていく。通過儀礼論に続いて持ち出されたのが、ジークムント・フロイト(1856〜1939)の「ファミリーロマンス」という概念だ。
まこ談:「やっぱりね、ここで面白かったのはその両親の正体が実はスパイっていうのが、フロイトのファミリーロマンスにもうだだかぶりするんじゃないのかっていう」
ファミリーロマンス(Familienroman)とは、子供が成長の過程で自分の親に幻滅していく心理現象と、そこから生まれる空想のことをフロイトが名付けたものだ。
まこ談:「フロイトがやったファミリーロマンスっていうのは子供が成長の過程において両親に対して幻滅していくわけですよ。小さい頃は特に親なんていうのは全てを知っている、常に自分を愛してくれる、とかもろもろ感じているわけなんだけれども、結局大人になってくるとだんだんわかってくるわけですね。所詮ただの一人の人間に過ぎないわけですから」
親はかつて、全知全能の存在だった。しかし子供が成長するにつれ、親も失敗し、弱く、矛盾した人間であることが見えてくる。この「幻滅」は成長の証だが、同時に痛みを伴う。
まこ談:「その中で両親への幻滅がいよいよ高まってくるとファミリーロマンスって言ってこんな親は自分の本当の親じゃないんだと。本当の親はきっとどこかで高貴な立場にありながら自分を待ってくれてるんじゃないのかみたいな、そういうロマンスを頭に思い描く」
「本当の親はもっとすごい人のはずだ」という空想。これは子供が親を一度精神的に降格させることで、自分自身の理想像や独立した自我を見出すための心理的なプロセスだとフロイトは分析した。
[4.2] スパイキッズが「空想をガチにした」という逆転の発想
ここでまこの論は鮮やかな逆転を見せる。
ファミリーロマンスは通常、子供の空想に過ぎない。「本当の親はどこかで自分を待っている」という物語は、現実には成立しない願望だ。しかし——。
まこ談:「スパイキッズはその空想がガチだったらっていう切り口でコメディに落とし込んで描いてるということなのかなっていうふうに思いました」
現実には空想にすぎないファミリーロマンスを、そのまま物語の事実として提示する。それがスパイキッズの構造だというわけだ。両親は本当に「ただの普通の親」ではなかった。世界でも指折りのスパイだった。子供たちのファミリーロマンス的な空想——「本当の親はもっとすごい人のはずだ」——が、文字通り現実のものとして描かれる。
まこ談:「ジュニーからすると、絡んでくる自分のいじめっ子に対して何も言えずに引き下がる父親しか見てないわけだから、でもそんなことないよっていう。親も頑張ってるんだよねっていうのを子供たちに見せられるっていう点においては」
いじめっ子の前で何もできなかった父親が、実は世界を救うスパイだった。この「種明かし」は、ジュニーにとって父親の再評価であり、同時に自分自身の再評価でもある。父親にそれだけの力があるなら、その血を引く自分にも何かできるはずだ——という自己肯定の契機になる。
まこ談:「子供たちが自分の親っていうものを改めて見つめ直して、親は親だし自分は自分だけど相互に絆があるよねっていうふうに確かめ合う。だからファミリーロマンスって本当は空想でしかないんだけど……本当はね。スパイキッズはその空想がガチだったらっていう切り口でコメディに落とし込んで描いてるということなのかな」
[4.3] フループというピーター・パン——成長しなかった大人の末路
ここまでの分析はカルメンとジュニーの成長物語を軸にしていた。しかしまこはここで、もう一人の「子供」に注目する。悪役のフループだ。
まこ談:「今回スパイキッズって基本主軸は2人なんだよね、カルメンとジュニーなんだけれども。でもそれだけだったら本当にほっこりスパイ映画で終わっちゃうんだけど、ひとつ大事なのはそこにもう一人子供としてフループを置いたっていうこと」
フループというキャラクターをよく見ると、彼は大人の体を持ちながら、心理的には非常に子供に近い存在として描かれている。
まこ談:「フループのキャラクターを見ていくと、彼は明らかにいわゆる大人的なキャラクターとして描かれてないよね。そう、あくまで彼ってすごく体は大人なんだけれども、心理的には非常にちょっとガキんちょくさくて、子供らしく想像性は豊かなんだけれども、衝動性もすごくて。子供のように感情をむき出しで、言葉や動きで表現したい。それが当たり前だと思って生きてる」
想像力は豊かで、アイデアも奇抜だ。しかしその衝動性と感情の制御のなさが、部下に利用されて捨てられるという結末を招く。フループは「成長しなかった大人」の末路を体現している。
まこ談:「これはある意味ではカルメンとジュニーの対象として、比較対象として置かれているキャラクターだったんじゃないかと。彼女、彼らは2人は順当にこのイニシエーションを通して少しずつ自分だったり相手の解像度を高めていったんだけれども、一方でフループはそんな子供のような自分っていうもののまま大人になってしまっている。だから深く考えてないからすぐ部下に利用されて捨てられるっていう」
ピーター・パン症候群という言葉がある。大人になることを拒否し、子供のままでいようとする心理傾向を指す概念で、心理学者ダン・カイリーが1983年に著作で広めた。フループはまさにこの「映画的なピーター・パン」として機能している。
まこ談:「もしも子供の間にそういう自分たちの身に危険が迫ってくるだとか、両親に危険が迫っている、きょうだいで助け合わなければみたいな、そういう経験がないまま大人になってしまうと、結局人に利用されて捨てられちゃってもおかしくないよねみたいな。そういうイメージでフループという、いわゆるピーター・パン症候群的な男を置いてみたんじゃないのかなという気がします」
カルメンとジュニーが乗り越えていくものを、フループは乗り越えられなかった。この対比構造によって、子供たちの成長の意味がより際立つ仕組みになっている。
"The day you stop growing is the day you start dying."(翻訳:成長をやめた日が、死に向かい始める日だ) ―― ウィリアム・S・バロウズ
[4.4] 繰り返し見たいとは思わないけれど——まこの総括
本論を展開し終えたまこは、最後に率直な感想を述べた。
まこ談:「本当に子供たちが大人になっていく過程っていうのは結構時間をかけてじっくり描いてくれてると思うんですよ。特に第一作。だからなんかこう見ていると、それこそ昔を思い出してくるわけ。こうやって学んだなとか、こういう気持ちになったなとか、そういうことを思い起こさせてくれる映画という意味では非常に意味があったなというふうに思いました」
しかし続けてこうも言う。
まこ談:「ただ、もう一度見ろと言われたら多分僕は見ないですね。そのぐらいの出来でしたねっていう。非常に面白かったです。テーマソングも完璧でした。とても良かったんですけど。繰り返し見たい作品ではないなっていうのを改めて見て感じてしまったということですね」
これはある意味で誠実な評価だ。分析として面白い映画と、繰り返し見たい映画は必ずしも一致しない。構造を解いてしまった映画は、再視聴のたびに発見が減っていく。なんせ子供映画ともなると、ストーリーの深みと言うのはあえて削ぎ落としているケースが殆んどだ。子供に理解して楽しんでもらえなければ子供映画を名乘れない。
『スパイキッズ』はその意味で、一度丁寧に見れば十分な映画かもしれない。
だからこそ、子供の頃に見た記憶のまま大切にしておくという選択肢も、決して悪くはないとも思える。ノスタルジーリユースの醍醐味は、そこにあるのかもしれない。
次回、記事その3ではオーマによる本論——「スパイキッズ・ハリボテ映画説」——を展開します。表面だけ先進的に見えるジェンダー描写が、最終的にどこへ着地してしまうのか。まこ論との対比を意識しながら、より批判的な視点から本作を読み解きます。
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podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
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