【#映画感想文】 陰陽師 晴明には博雅という呪がかかっている byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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序章 色褪せた画面の、色褪せない呪
【色褪せた画面の、色褪せない呪】
映像が、少し色褪せている。それがまず目につく。映画『陰陽師』を見返したとき、最初に感じたのはそのことだった。CGの合成の継ぎ目が、ときおり表面に浮かびあがる。衣装の布は丁寧に作られているが、どこか舞台衣装のような質感を持っている。平安の都のセットは美しいが、奥行きよりも絵画的な平坦さが勝っていて、ときに書き割りのような印象を与える。映像技術として現代の水準には届かない。そのことは、素直に認めざるをえない。
ところが、それがさほど気にならなくなる瞬間が、確かに来る。
野村萬斎演じる安倍晴明が画面に現れ、あの独特の間と声の質で言葉を発し始めると、映像の「古さ」はいつの間にか背景へと退いていく。代わりに前景に出てくるのは、この映画が本当に描こうとしているもの——人の「想い」という、形のないものの、確かな重さだ。映像の粗が消えるわけではない。ただ、それよりも引力の強い何かが、画面の中心に現れてくる。
この映画の世界観の骨格は、ある意味で非常にシンプルだ。恋も、愛も、憎しみも、すべて「想い」である。そしてその想いが強くなりすぎると、呪になる。怨霊になる。人を縛り、あるいは死に追いやる。感情が、そのまま力として実体化する世界——それがこの映画の前提として、序盤から静かに、しかし確実に提示されていく。
ここで、問いをひとつ置いてみたい。呪は、本当に「悪いもの」なのか。
映画の中で呪として現れる感情のほとんどは、もともと純粋な何かから発している。道尊の深い怨念は、もとをたどれば傷つきだ。執着として現れる愛は、もとは誰かを深く思う気持ちだ。最初から悪意として生まれたものではない。それが時間をかけて、あるいは裏切りという経験を通過することで、呪という形へと変質していく。形が変わっても、その根にあるものは消えていない。
とすれば呪とは、想いが行き場を失ったときに取る「別の姿」なのかもしれない。形を変えることで、なんとか存在し続けようとする、感情の最後の抵抗。呼び名が「愛」から「怨念」に変わったとしても、その重さはむしろ失われないまま、別の方向へ向きを変えただけなのではないか。私はそう読む。
平安という時代設定は、この映画において単なる歴史的な衣ではない。見えないものが見えた時代、霊や式神が現実と地続きだった世界——そこに置かれることで、「想いが形を持つ」という命題が自然に、かつ説得力をもって成立する。現代であれば「執着」や「囚われ」と心理学の言葉で整理されるものが、平安ではそのまま怨霊として実体化する。どちらの記述がより正確なのかと考えると、意外と答えは出ない。形を変えているだけで、私たちはいまも同じものを抱えているのかもしれない。
第1章 晴明には、博雅という呪がかかっている
この映画には、繰り返されるショットがある。
博雅が晴明の屋敷を訪ねてくる。縁側に腰を下ろした晴明が、すでにそこにいる。まるで来ることを知っていたかのように、静かに、少しだけ笑みを含んだ顔で。博雅は何かを抱えてやってくる——困惑か、不安か、誰かへの義憤か——そして晴明はそれを受け取り、飄々と言葉を返す。この構図が、映画の中で何度も繰り返される。
繰り返しは、演出の意図だ。
ただ「二人が会う」という情報を伝えるなら、毎回同じ構図を使う必要はない。にもかかわらずこの映画は、晴明・静・博雅・動という配置を執拗に維持する。これは二人の関係性の「構造」を、映像そのものとして刻みこむ行為だと思う。晴明は常に待つ側にいる。博雅は常に来る側にいる。
野村萬斎の晴明は、感情をほとんど表に出さない。
正確に言えば、感情がないのではなく、感情が「外に出てこない」。それは演技の話であると同時に、この映画における晴明という人物の設定の話でもある。彼は半分、人ではない。鬼の血を引くがゆえに、霊も呪も見えるが、人の想いを「感じる」ことには、どこか距離がある。その距離感が、萬斎の静止した佇まいとして、画面に滲み出ている。
一方の博雅は、感じすぎるほど感じる。
誰かが傷つけば顔に出る。理不尽に怒り、悲しみに揺れ、それでも真っ直ぐに動こうとする。彼は呪を見ることができない。しかし呪によって傷ついた人間の痛みは、誰よりも深く受け取ってしまう。博雅の笛の音は、この映画においてその象徴として機能している。言葉にならない想いが音になる——それが笛だ。そして晴明は、その音に確かに反応する。他の何にも動じない男が、博雅の奏でる音には、微かに揺れる。
ここに、この映画が隠している非対称な関係が見える。
晴明は博雅に、人の感情の「代わり」を求めているのではないか。自分が半分しか持てないものを、博雅が全量で持っている。博雅の存在が、晴明にとって人間世界との接続点になっている。呪を解くためには、その呪の根にある想いを理解しなければならない。晴明は見ることができる。しかし感じることは、博雅を通してしか届かない。
とすれば博雅は、晴明にとってある種の呪ではないか。
切り離せない。離れると何かが欠ける。傍にいることで自分の輪郭が保たれる——それは、この映画が「呪」と呼ぶものと、構造としてほとんど同じだ。愛であれ友情であれ、人と人とが縛り合う関係は、すべて呪の形をしている。善悪ではなく、ただそういうものとして。
晴明は呪を解く男だ。しかし彼自身にも、博雅という名の呪がかかっている。
第2章 呪う者もまた、呪われていた
道尊の顔は、ほとんど動かない、物語の大半において、静かに佇んでいる。声を荒げない。表情を崩さない。感情を表に出すことを、まるで禁じられているかのように。しかし、その静けさの奥に、何かが煮えている——それが画面を通じて、じわりと伝わってくる。静止した顔が怖いのは、その奥に動いているものの存在を、観る者に想像させるからだ。
ここで注目したいのが、道尊と晴明が対峙するシーンの空間構成だ。
晴明はほぼ常に、開けた空間の中に置かれる。空や庭が背景に広がり、光が差し込む。一方の道尊は、暗がりの中か、閉じた空間の奥に位置している。これは単純な「善対悪」の図式ではない。むしろ、開いた存在と閉じた存在という対比として読める。晴明は感情を外に持ちすぎないがゆえに、空間が開いている。道尊は想いを内側に抱え込みすぎたがゆえに、空間が閉じている。
想いが行き場を失うと、内側で腐る——この映画はそのことを、台詞ではなく空間の使い方で語っている。
道尊の怨念の根を辿ると、そこに「認められたかった」という、原初的な欲求が見える。悪意ではない。才能を持ちながら踏みにじられ続けた者の、深い傷つき——それが時間の中で発酵し、怨念という形を取るに至った。これはフランケンシュタインの怪物に近い構造を思わせる。創られ、捨てられ、憎しみを持つに至った存在。悪は外から来るのではなく、その者が「扱われてきた歴史」の中から育つ。
とすれば道尊は、この映画においてもうひとりの「呪をかけられた者」ではないか。
呪をかける者と、呪をかけられる者。その境界は、この映画の中でひどく曖昧だ。道尊は誰かを呪う。しかし彼自身もまた、権力と時代と、自分の消えない想いによって縛られ続けている。呪は一方向には流れない。誰かを縛ることで、縛った者自身もまた縛られる——この映画が提示するのは、そういう呪の相互性だ。晴明が道尊と対峙するとき、彼は「敵」を倒しているのではなく、行き場を失った想いの、最後の着地点を探しているのだと私には見える。
第3章 呪は解けない。形を変えるだけ
映画の終盤、晴明は道尊の怨念と正面から向き合う場面で、ある行動を取る。
退治するのではなく、まず「聞く」のだ。
敵対する存在として排除しようとするのではなく、その怨念が何から来ているのかを、晴明は探ろうとする。式神を使い、空間を制し、圧倒的な力を持ちながら、彼は怨念の「核」に触れることを優先する。この選択は、この映画における呪の定義と直結している。想いが根にある以上、その想いを無視して形だけを消しても、本当の意味では終わらない——晴明はそれを知っているのだ。
ここで印象的なのが、博雅の笛の使われ方だ。
クライマックスへ向かう流れの中で、博雅が笛を吹く。言葉ではなく、音で何かに触れようとする。その音は怨霊に向けられているのか、それとも晴明に向けられているのか、映画は明確にしない。おそらく両方だ。音は論理ではなく、想いそのものとして空間に広がる。呪を言葉と術で解こうとする晴明と、音で触れようとする博雅——この二つのアプローチが交差する瞬間に、この映画の核心がある。想いには、論理だけでは届かない部分がある。そのことを、映画は台詞ではなく演出として静かに示している。
ここから「現代の呪」という問いに踏み込みたい。
この映画における呪の定義——想いが行き場を失い、形を変えて人を縛るもの——は、現代においても消えていない。ただ形が変わっている。誰かへの期待が積み重なって関係を縛るとき。過去の傷が記憶として繰り返し蘇り、今の判断を歪めるとき。感謝と罪悪感が混ざり合い、離れることができなくなるとき。これらは現代語では「執着」や「共依存」と呼ばれるが、構造としては道尊の怨念と変わらない。
呪という言葉が消えても、呪の構造は残る。
さらに言えば、社会的な呪もある。「こうあるべき」という規範の集積が、見えない縄として人を縛る。家族への義務感、職場における役割、年齢や性別に貼り付けられた期待——これらは誰かの強い悪意によって設計されたわけではなく、無数の「想い」の堆積として形成されている。個人の呪ではなく、集合的な呪。平安ならばそれは怨霊として実体化するが、現代ではもっと曖昧な、しかしより広範な形で人の周囲に漂っている。
晴明がこの映画で繰り返し示すのは、呪を「悪いもの」として排除するのではなく、その根にある想いに触れることで、別の形への変化を促すという姿勢だ。消滅ではなく、変容。これは呪への、ひとつの誠実な向き合い方だと思う。
呪は完全には解けない。ただ、形を変えることはできる。その可能性を、晴明の静かな所作の中に、この映画は宿している。
終章 呪とは
映画の最後、晴明は静かに立っている。
事件は終わった。怨念は形を変えた。都に、表面上の平穏が戻ってくる。しかし晴明の表情に、勝利の色はない。安堵もない。ただ、静かに佇んでいる。この終わり方は意味深だと思う。派手な解決を用意せず、余韻だけを残してカメラが引いていく——呪が「終わった」とは、この映画はどこにも言っていない。形が変わっただけで、想いはまだそこにある。晴明はそれを知っているから、勝ち顔をしないのだ。
序章から積み上げてきた問いに、ここで自分の立場を示したい。
呪は、悪いものではない。
少なくとも、この映画の中では。呪は「想いが行き場を失ったときに取る別の姿」だと序章で書いた。それを踏まえるなら、呪が存在するということは、その根に想いがあるということだ。誰かを深く思った。認められたかった。愛したかった。傷ついた。その強度が、形を変えて呪になる。とすれば呪とは、想いが諦めなかった証でもある。消えることを拒んだ感情の、最後の居場所。そう読むと、呪はむしろ、想いの誠実さの痕跡だとさえ言える。
だからこそ晴明は、呪を「退治」しない。
第2章で書いたように、彼はまず根にある想いに触れようとする。形だけを消しても、想いが残れば呪は戻る——それを知っている者の行動として、晴明の静かな所作は一貫している。彼がやっていることは、感情の裁判ではなく、感情の着地を手伝うことだ。怨念を否定するのではなく、その想いが別の形を取れるよう、空間を開いてやること。
この視点から現代を見ると、少し景色が変わる。
私たちが「執着を手放せ」「過去を引きずるな」と言うとき、それは呪を退治しようとしていることに近い。形だけを消そうとしている。しかし形の奥にある想い——認められたかった、愛されたかった、傷つけられた事実を誰かに知ってほしかった——それに触れないまま形だけ消そうとしても、想いは場所を変えて別の呪になる。道尊がそうであったように。
呪と上手く生きるとはどういうことか。この映画は答えを言葉にしない。ただ、博雅の笛の音と、晴明の沈黙の中に、それをそっと置いている。音は論理ではない。想いに想いで触れる行為だ。解決ではなく、共鳴。呪を消すのではなく、その音を聞いてやること——それがこの映画の提示する、唯一の誠実な応答だと私は思う。
映像は古びた。それでもこの映画が残っているのは、語られている問いが古びていないからだ。
人の想いは形を変え続ける。呪もまた、形を変え続ける。『陰陽師』という映画自体が、観た者の記憶の中に、ひとつの呪として静かに居座り続ける。好きだ、という感情も、突き詰めれば呪の一種なのかもしれない。それで構わないと、私は思っている。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
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