岡田尊司著『マインド・コントロール 増補改訂版』より抜粋
マインド・コントロールの技術には、二つの側面がある。一つは、他人の心理状態を操作することにより、他人を支配したり搾取したりする面である。一般にマインド・コントロールという言葉は、こちらの意味に用いられることが多い。その最たるものが「洗脳」と呼ばれる一連の操作である。一人の人間に対して行われる場合もあるが、集団に対して行われる場合もある。
マインド・コントロールは、独裁体制の専売特許のように思われがちだが、実際には、民主政治においても、マインド・コントロールは重要な意味を持つ。大衆の投票行動を意思決定の基盤とする民主政体にあっては、流布される情報が政治を動かすことになる。プロパガンダやマスコミ操作もまた、大衆レベルのマインド・コントロールにおいて極めて重要な意味を帯びている。
その意味でマスコミは、意識的であるかどうかはともかく、大衆のマインド・コントロールに加担していると言える。
一方、マーケティングの分野でも、マインド・コントロールの重要性は高まるばかりである。商品そのものの価値ではなく、コマーシャルや広告によって、購買行動や売り上げが左右されるという現実がある。同じ商品でも、売り出し方によって大ヒットすることもあれば、まったく売れないこともある。顧客のハートをつかむことができるかどうかは、商品の技術的価値よりも魅力的なイメージを喚起できるかどうかに左右される。(3ページ)
マインド・コントロールには、このように、他人を操作するというネガティブな側面がある一方で、非常にポジティブな側面もある。自分の心理状態をコントロールすることで能力を発揮したり、より高いパフォーマンスを実現したりする効用の部分である。(4ページ)
個人のレベルで行われるマインド・コントロールも、集団のレベルで行われるそれも、使われ方一つで、人間を操り人形に変えてしまう非人道的な搾取技術にもなれば、生活や人生のクオリティを高め、可能性の限界を広げる極めて有用な手段にもなり得る。毒にも薬にもなる劇薬なのである。(4ページ)
テロリストたちは、生きることが困難で将来にも期待のもてない貧困層の出身者よりも、むしろ裕福で恵まれたエリート階級の出身者に多く、高学歴で、医師やエンジニアなどの専門技能を必要とする職業に就いていた。社会の少数派に属し、疎外感を味わっていたというケースもあるが、実際にひどい迫害や屈辱的な体験を受け、復讐を望んでいたケースはむしろ稀であった。(13ページ)
マインド・コントロールを受けたものは、自らが主体的に決意して自己責任で行動したと思うことが、むしろ普通(15ページ)
安っぽいマインド・コントロールの場合には、コントロールする側の作為が正体を現し、欺瞞の痕跡を残してしまう。そうした場合、いつか不信が芽生えた時、それが破れ目にもつながり、マインド・コントロールが解けてしまうことにもなる。
だが、完璧な形でマインド・コントロールが行われた場合には、すべては必然性をもったことであり、それに出会う幸運をもったのだと感じ、喜び勇んでその行動を「主体的に」選択する。(16ページ)
社会において自分の価値を認められず、アイデンティティを見出せないものは、社会の一般的な価値観に刃向うことで、自己の価値を保とうとする。こうしたカウンター・アイデンティティは、社会から見捨てられたものにとって、自分の人生を逆転させ、自分の価値を取り戻すような歓喜と救いの源泉ともなるのである。誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる。(17ページ)
外部の世界からの遮断と、視野を小さな一点に集中させるということだ。トンネルの中を潜り抜けている間、そこを進んでいく者は、外部の刺激から遮断されると同時に、出口という一点に向かって進んでいるうちに、いつのまにか視野狭窄に陥る。
普通の理性的な若者が、何百人もの命を容赦なく奪うことも平然と行えるテロリストに生まれ変わるための鍵を握るのも、この二つの点にあるとされる。外部から遮断された小さな世界。そして、ひとつの目的に向けて、視野狭窄を生じさせること。(18ページ)
属している小さな集団の他のメンバーがどう考え、どう行動するかということも、意思決定を大きく左右する。小さな集団がトンネルの役目をして、彼らの視野を、他の選択肢などないところまで狭めていく。トンネルの中にいる者にとっては、トンネルの中が世界のすべてとなる。もう自分たちが狭いトンネルの中にいるとは思わなくなる。それが、すべてだと思考が単純化されていく。(19ページ)
もはや後に退くことは仲間を裏切ることであり、前に進むことしか許されないのだ。(20ページ)
愛する集団のために自らの命を捧げることによって、英雄となることでしか、自分の存在を証明する道は残されていない。もしそこから逃げれば、彼は愛する仲間を裏切るだけでなく、自分の存在を卑しめてしまう。(21ページ)
こうした「トンネル」は、危険な目的に利用されるだけでなく、実は、世間的には健全と思われている目的にも頻用されている。たとえば、スポーツチームやクラブに所属することも、ある種のトンネルに入ることだ。難関校を目指して、受験のための進学クラスに入ったり、優秀な子どもたちを集めた塾に通うことにも、トンネルの要素がある。(22ページ)
実際、トンネルの中で過ごした時間は、人生経験としては単調で、情味に乏しく、空疎さを免れない。外の景色が見えないところで、もっとも感性の豊かな時期を過ごすのだから無理はない。反動が生じて、トンネルの中で過ごしたのと同じくらいかもっと長い時間を、ぶらぶらしたり、目的もなく無為に過ごすことで、何かを取り戻そうとすることも多い。
「トンネル」は、教育や訓練の方法として、効率的で強力なものであるが、それはほかの多くのものを犠牲にするということを知っておくべきだろう。(23ページ)
道草し、回り道するようでも、結局はそれが一番近道ということが多いのだ。(23ページ)
ことは、子どもだけとは限らない。大学といった象牙の塔や企業をはじめとする縦社会の組織も、そこで認められたいと頑張れば頑張るほど、トンネルの様相を帯びてくる。(24ページ)
与えられた職責を果たし、上から認められるということに価値をおく人ほど、知らずしらずその組織を支配する空気に呑み込まれてしまうのだ。(25ページ)
誰もが心の奥底には、自分が特別な存在であり、人類や社会に対して、普週的な価値ある貢献をし、生きた意味を残したいという願望をもっている。理想主義的で純粋な人ほど、そうした願望が強い。(28ページ)
純粋な理想主義者が抱えやすい一つの危うさは、潔癖になり過ぎて、全か無かの二分法的な思考に陥りやすいということである。二分法的思考においては、完全な善か、さもなくば完全な悪かという両極端な認知に陥ってしまう。(29ページ)
強い集団のプレッシャーのもとでは、「裏切り者」となることは、命を失うことよりも恐ろしいことなのだ。(30ページ)
騙しやすい相手をいかに効率よく見つけ出すかということが、マインド・コントロールにしても、商品の勧誘においても、相手の意思決定を支配するためには、極めて重要なことになる。(40ページ)
悩みを打ち明け、それを相手が知ることは、その人にとっての、もっとも弱点の部分が知られることになる。通常は打ち明けられないことを打ち明けることによって、そこには、もう特な関係が成立する。打ち明けるのは、助けてほしいという無意識の心理が働いているからである。助けを求めるということは、相手を救い手という優位な立場に立たせるということにほならない。(41ページ)
本人の情報をあらかじめ手に入れた上で、急所をついた働きかけを行うということも、マインド・コントロールにおいて、重要な原理だと言えるだろう。
いわゆるイエス・セットと呼ばれる心理操作が知られている。相手がイエスと答えるように、こちらが質問をすることで、相手はいつのまにか、自分がとても理解されていると感じ、こちらの言いなりになりやすく、こちらの言うことに、何でもイエスと答えてしまうようになる。
つまり、相手がイエスと答える質問をすることが、成功のポイントということになる。相手がどういう好みや関心をもっているかを、あらかじめ知っていると、容易にイエスと答える質問をすることができ、このイエス・セットの技法を使うことができる。
また、中立的な善意の相談役となることで、意思決定に強い影響を及ぼすことができるという原理も駆使されている。(43ページ)
カウンセリングなどでも、それが効力を発揮するためには、中立性が重視される。熱が入り過ぎて一つの立場に偏り、本人を説得しようとすると、かえって本人は抵抗したり、引いてしまう。善意の存在ではあるが、意思決定や利害に関しては、あくまで中立的な立場をとった方が、その言葉は説得力を持つのである。
チームワークで意思決定を導こうとする場合には、正論を説いて真っ向から本人を説得しようとする人だけでなく、中立的に本人の気持ちに寄り添い、本人の不安や迷いを受け止める役の人がいることで、むしろ意思決定がスムーズに行われる。
中立的な役割の人は、本人の迷う気持ちや正反対の気持ちも受け止めながら、そうすることで、本人とのより深い言頼関係を築き上げ、その上で、最終的には同じ方向に導いていく。
父親的役割と母親的役割の連携と言ってもいいだろう。ボスとメンター(相談役)という役割の使い分けとしても、この二つの組み合わせは、さまざまな場面で応用される。両者がバラバラに働きかけたのでは、かえって意思決定を妨げてしまうが、互いの意図を汲みながら、うまく連携することで、スムーズに意思決定を促すことができる。(44ページ)
マインド・コントロール(心理的操作)とは、人の思考や感情に影響を及ぼすことにより、思い通りに行動を支配することだ。そこには、コントロールする側とされる側が必ずおり、両者の間には、対等とは言えない関係が存在するのが重要な特徴である。(46ページ)
マインド・コントロールは、もっとも本質的な意味で「騙す」「敷く」ということに等価なのである。
騙すとは、高等な動物にだけ見られる行動である。ことに、その能力はヒトで特異的に発達している。(47ページ)
人類の知能は、さらに高度な「騙す」方法を進化させた。騙したと気づかれずに相手を騙す方法である。マインド・コントロールとは、まさにそうした方法のことである。
この方法ならば、騙す側は、むしろ「味方」や「善意の第三者」に収まることができる。騙された人は、騙されたとは思わず、むしろ良いことを教えてくれたとか、助けてもらったとか、目を開かされたと感じ、感謝や尊敬を捧げる。
人類の知能の本質が「騙す」能力にあるとすると、この世界でもっとも成功し、支配力をもつ存在は、「騙す」ということにおいて、もっとも成功を収めた存在だということになるだろう。「騙された」とは思わず、喜んで現金や体や命さえも差し出し、そのことに喜びを覚える。(48ページ)
皮肉なことに、人間は、相手をじる生き物であるがゆえに、マインド・コントロールが成立してしまうのである。
その意味で、人に対して親しみを感じることも、愛情や信頼をもつこともない人は、マインド・コントロールを受けにくいと言える。相手との倍頼関係を必要とする人ほど、マインド・コントロールされやすい。
ただ、実際には、前者のように見えた人が、重度のマインド・コントロールを受けるということも起きる。実はそう振る舞っていただけで、心の奥底では人の愛情や信頼を求めていたということになるだろう。(49ページ)
社会的動物において、互いの信頼関係は、生存にかかわる重要な基盤である。つまり仲間同士が、相手を欺くということは、もっとも唾棄すべき裏切り行為とみなされてきた。(50ページ)
マインド・コントロールにもさまざまな形態や段階がある。いわゆるマインド・コントロールとして知られている典型的なものは、独裁者やカルトの指導者が、配下やメンバーに及ぼす心理的支配であったり、情報機関が洗脳したエージェントを操る場合であるが、もっと身近な段階のものまで範囲を広げると、悪質な勧誘や詐欺まがいの営業活動から、横暴で自己中心的な上司や力的な夫が、部下や妻を思い通りに支配したり、親が子どもを過度に支配すること、さらには悪口や仲間外れによって、心理的に相手を追い詰めるイジメも、そこに含められるだろう。(52ページ)
第一は、閉鎖的集団の中で、優位な立場にいることだ。その優位性は、相手の安全感を左右できるという点にもっとも関わっており、「生殺与奪の権利をもつ」とも言える。市民に対する独裁者も、子どもに対する親も、その気になれば、支配する者の生命や安全を脅かし得るという点で、よく似た立場にある。その立場を乱用した瞬間に、一方では「虐殺」が起き、一方では「虐待」や「イジメ」が起きる。
むしろそうはならないケースも多く存在するとすれば、そうした弊害を抑止する別の力が働いているからだ。それは、弱い立場の者に対する、思いやりや愛情であり、倫理的責任である。
そこから、マインド・コントロールを行う側に共通する第二の問題が浮上する。弱者に対する思いやりや倫理感の欠如である。弱っている相手や騙しやすい相手を前にしたとき、それを保護しなければという人間としての感覚が乏しいのだ。むしろ、目の前に差し出された支配の快楽や欲望に溺れてしまう。
そこに第三の問題を指摘することができる。マインド・コントロールを行う者にとって、支配することが快楽になっているということだ。「支配は中毒になる」と、よく言われるが、それは言い換えると、支配には病みつきになる快感が伴うということだ。その快楽の誘惑に負けてしまう人間が、操ることのできる相手を思いのままにすることにのめり込んでしまう。それが、マインド・コントロールであり、ハラスメントであり、虐待であり、イジメなのである。それは力への快感への耽溺であり暴走なのである。(53ページ)
蔑まれ、辱めを受けた存在は、躁的防衛によって、自信のない男ではなく、神のような確信にみちた存在に生まれ変わろうとする。それによって、実際に人々から崇められる存在となる。得度に至る前の苦難の時期は、躁的防衛を生じさせるために必要な極限状態だと言える。
しかし、真理を手に入れた聖者だと言っても、グル自身、精神的な脆弱さを克服したわけではなく、ただ躁的防衛によって誤魔化しているだけである。したがって、万能感を傷つけられるような事態に出会うと、自己愛的な怒りにとらわれ、さらには被害妄想的になったり、神経養弱や自己断片化を起こして、崩壊していく。(56ページ)
万能感の肥大した誇大自己を抱えた人は、自分が死ぬときには、世界を道連れにしたいという思いを抱きやすい。その人にとっては、自分が世界より重要なので、自分が滅んだのちも世界が存在するということが許せないのだ。(57ページ)
理想郷を目指したはずが、「強制収容所」が生み出されてしまう。それは嫌と言うほど歴史が繰り返した真実である。
これらの特徴は、宗教的グルに限らず、政治的なグルである独裁者の特徴ともぴたりと合致することに気づかれるだろう。(58ページ)
結局、宗教的カリスマも政治的カリスマも、自らが聖者や神となる以外には救われないほどに、歪に膨らんだ自己愛を抱えた存在だと言える。(58ページ)
自分が特別な存在でありたいという願望が、グルを信じ続けるしかないという状況に、その人を追い込んでいく。それを疑うことは、自分が生きてきた人生の意味を否定するようなものだからだ。(59ページ)
そうした構造は、妄想性の精神疾患でも、しばしばみられる。何年にもわたって、自分が特別な存在だという妄想とともに生きてきた人は、薬物療法によって妄想が、妄想だとわかったとき、危機を迎える。それは、長年自分を支えてきた世界の崩壊に等しい。もう何も頼りにするものも、自分を支えてくれるものもない。ただ、自分が何年も妄想にとらわれて人生を無駄にしたという事実しか残らない。それはあまりにも残酷な現実と向き合うことだ。妄想がとれたとき、自殺してしまう人もいるのは、そうした理由からだ。(59ページ)
「支配は中毒する」の言葉通り、マインド・コントロールは、中毒的な快感をもつのである。(63ページ)
共感性が欠如し、他者との温もりのある絆をもたないものが他者と生活を共にするとき、支配か利用かというあり方になりがちである。なぜなら、共感的な絆をもたない人にとって、一人の人間も、冷蔵庫やベッドとさして変わらない存在だからだ。思い通りに操作して、利用する以外に何があるだろう。(63ページ)
マインド・コントロールされた状態にある人の最大の特徴は、依存性である。カルトにはまった場合も、反社会的な仲間や男性にコントロールされている場合も、イジメや虐待や、ときには過保護な親によって支配されている場合も、そこで起きている状態は共通している。彼らは、自分で主体的に考え、判断し、行動するという力を大幅に低下させてしまっているということだ。(64ページ)
会社や研究機関、学校といった組織においてさえ、それが閉鎖的な硬直化に陥っていればいるほど、同じ傾向がみられる。カルトでは、通常各メンバーの相談相手となる先輩信者がいて、その人に何から何まで打ち明け、判断を仰ぐということが多い。その人が些細なことにも一々指示を与え、本人が自分で判断し、行動することを防いでいる。(65ページ)
主体的に考えることを許さず、絶対的な受動状態を作り出すことが、マインド・コントロールの基本なのである。(65ページ)
マインド・コントロールされやすい要因(66ページ〜91ページ)
①依存的なパーソナリティ
・主体性の乏しさと過度な周囲への気遣いを特徴とする
・相手に嫌われたり、ぶつかったりすることを避けようとする
・相手にノーということができず、相手に合わせてしまう
・日本人に多いタイプ
・優柔不断で、相手任せになりやすい
②高い被暗示性
・被暗示性が高い状態は、いわば、入ってくる情報に対して信じていいか、信じるべきでないかを批判的に判断する能力が低下した状態
・被暗示性の高い人の特徴
1.人の言葉を真に受けやすく影響されやすい
2.信心深く、迷信や超常現象のようなことを信じていることも多い
3.大げさな話をしたり、虚言の傾向がある
4.催眠にかかりやすい
③バランスの悪い自己愛
儒教的社会や伝統的なイスラム社会もそうであったが、忍耐と従属を重視する旧来の社会においては、自己というものは、それほど大きな存在感をもたなかった。日本を含めた東洋の封建的社会や伝統的なカトリック社会と同様、イスラム社会でも、定められた運命という考え方が大きな支配力をもつ。個人は、神や天が定めた運命に従うべきものであった。
ところが、プロテスタンティズムと結びついた個人主義では、個人の意思や主体性に重きを置く。運命さえも、その人の意思と努力によって左右できるものという考え方が生まれたのだ。こうした個人主義が、伝統的社会にも波及するにつれて、いわゆる「社会の近代化」と呼ばれる状況がもたらされた。かくして、自己に重きを置く価値観が、伝統的社会をも侵食し始めたのである。
二つの価値観のギャップを、もっとも強烈な形で味わうことになったのは、両方の社会の狭間に身を置いた者たちだ。田舎から大都会に出てきた若者も、移民のイスラム教徒も、伝統的な価値観を背負いながら、同時に、個人主義的な価値観と接触することで、痛みを伴った自己の目覚めを味わうこととなった。
④現在及び過去のストレス、葛藤
元々しっかりしているとみられていた人でも、挫折や病気、離別や経済的苦境といったことによって心が弱っているときには、マインド・コントロールを受けやすくなる。
現時点のストレスだけでなく、過去に受けたストレスも影響する。ことに幼い頃や子ども時代に、安心できない環境で育った人では、不安が強い性格になりやすいだけでなく、人の顔色を気にする傾向や他人に依存しようとする傾向も強まり、人から支配されやすくなる。
それだけではない。ストレスや不遇な環境にさらされている人は、不満や葛藤、怒りといったネガティブな感情を抱えやすくなる。それはしばしば抑圧され、表面的には目立たない場合もあるが、本人さえも自覚しない不遇感や欲求不満、怒りの感情があると、マインド・コントロールを受けやすくなる。
⑤支持環境の脆弱さ
周囲からの支えがあるときには、不当な支配や搾取をかわすことができる人でも、孤立し、安定した支え手が身近にいないと、相手をよく見極めずに助けを求めたり頼ったりしがちで、マインド・コントロールの餌食になりやすい。
まったくその気がない人をマインド・コントロールすることは難しい。だが、多くの人は心の中に隠れた欲望や恐れや憎しみをもっている。それを刺激されると、びくともしないように見えた岩も転がり出すのだ。(97ページ)
振りをすることの重要性を最初に指摘したのは、「君主論』を著したマキャベリーである。マキャベリーは言う。君主たるものは、信義や誠実さを本当に備える必要はないが、備えている振りをして、そう相手に思わせることが肝心だと。もっとも信頼できる味方の振りをして、相手に心を許させれば、その行動を思いのままに誘導することはたやすい。いつの世も使われる常套手段だと言えるだろう。(98ページ)
恐怖による支配もまた、今も昔も変わらずに続く、マインド・コントロールの一つの形なのだろう。(99ページ)
自分の意志を強く持っている人ほど、他人の意図に左右されることに本能的に抵抗する。それゆえ、正攻法での説得には落ちにくい。
一方、第三者的な仄めかしは、説得する意図をあたかも持っていないように振る舞うことで、そうした抵抗を避けることができる。第三者の目から見た「観察事実」を述べたに過ぎないようにみせかけるのだ。誰も、それを信じてくれとは言っておらず、それゆえ、それを否定することはかえって難しい。(100ページ)
催眠状態において、理性は眠りこんだ状態にある。施術者に対して全面的に依存した状態だとも言える。理性を素通りする方法は、自覚的に問題に向き合わずに済むというメリットをもつが、それは、問題の自覚を避け、施術者任せの依存的な状態を生み出す危険をもつ。(104ページ)
今日も、自己暗示は、さまざまなセラピーや訓練に採り入れられている。
このように、マインド・コントロールの技術は、良い方向にも生かされ得るのである。(108ページ)
治療者の解釈によって、自分の体験を再構築することが精神分析だとすると、そこには、治療者のコントロールという要素が入り込まざるを得なかった(111ページ)
治療が進むにつれて、患者は治療者に対して過度な理想化を示して執着したり、恋愛感情を抱いたり、逆に反発してネガティブな感情を抱いたりするようになったのである。
さらに調べていくと、この現象は、患者にとって重要だった人物に対する感情を、治療者に向けることによって起きていることに、フロイトは気づく。彼は、この現象を「転移」と呼んだ。(112ページ)
精神分析での治療過程では、その人の症状(神経症)が良くなる一方で、転移にともなう状態(転移神経症)が出現する。今度は、この転移感情を扱い、それが自分にとって重要な人物への感情を映し出したものであることを自覚させ、それを克服することで、最終的な回復に至るという治療理論が確立されていくのである。(112ページ)
無防備で善良で親切な人ほど、そんなふうに頼られ、悩みを持ちかけられると、何とか助けたい、力になりたいと入れ込んでいるうちに、いつのまにか恋愛感情に陥り、自分の家族や生活を捨ててまで、その人に尽くそうとすることも珍しくない。それは、冷ややかな見方をすれば、転移のワナに落ちてしまったと言うことができる。
専門家として精神分析や心理療法を業としている人でさえも、この転移のワナに陥ってしまうことがある。(113ページ)
フロイトが目指した自己克服的な道は、ある意味、自力本願によって救われようとする小乗仏教的な路線だと言えるだろう。しかし、もっと弱い多くの人々は、小乗仏教では敷居が高すぎ、他力本願で救われる大乗仏教にすがった。(116ページ)
人々はつながりを求めようとする根源的な欲求を持っている(117ページ)
問題というのは、実は、一つの口実に過ぎなかったのだ。それを口実に、その人は、本当の家族を手に入れたかったのである。問題解決だけを目指す方法が、根本的症状や問題の解決をもたらさないのは、このためである。問題を解決できるかどうかなどは、大して重要ではなく、本当の目的は別だったのだ。ただかかわってくれる存在を、それも半永久的に自分のそばにいてかかわってくれる存在を求めていたのである。
その意味で、カルト教団にしろ、反社会的集団にしろ、それらが疑似家族として機能していることは、必然的なことだと言える。(118ページ)
とにかく、「~する」と答えさせることが重要なのだ。自分から「する」と意思表明をすると、行動への抵抗は突破されたも同然なのである。
ダブルバインドは、インプリケーション(言外の意味)と呼ばれる技法の一つである。人間の心は不思議なもので、何かをするように直接言われると、命令されたと受けとり、心に抵抗を生じてしまう。しかし、間接的に仄めかされたり、それを前提に話されたりすると、抵抗が生じにくい。(146ページ)
潜在意識とは、連想の巣窟のようなものだ。さりげない些細な言葉であれ、その人の琴線をさりげなくかき鳴らすことで、放って置いても、波紋が広がっていく。それが、行動に変化を生むのだ。行動の変化を引き起こしたければ、理詰めで説得するような働きかけ方とは、まるで違う働きかけも必要なのである。(147ページ)
断定を避けた言い方にした方が、感情的な抵抗が生じない分、心に届きやすい(150ページ)
明確に語られた言葉の方が、はっきりとしたメッセージが伝わり、力をもつ場合もあるが、それは、ある程度、問題に向き合って、考えが意識化されている場合である。
しかし、問題に向き合うのを避け、言い訳ばかりを考えているようなときには、問題をズバリ指摘されると、ますます強い抵抗を生じ、それを否認してしまう。(152ページ)
抵抗は、抵抗すると、さらに強化されるが、そのまま受け入れられ、敬意を払われると、逆に弱まる。(154ページ)
中立的な善意の第三者として、相談に乗る中で、相手のニーズを完全に把握するだけでなく、相手の信頼を獲得するという方法は、相手を強引にコントロールしようとしたり、無理やり説得しようとする方法よりも、ずっと成功率が高い。(156ページ)
営業の最終的な目的が、商品を買ってもらうことだとすれば、買うように一言も勧めなくても、是非売ってほしいと言わしめれば、それは目的通りの行動に導いたことになる。つまり、一見何の人心操作もしていないように見えて、結果的に、狙い通りの行動を起こさせている。これは、より高度な人心操作の技術を駆使した結果だと言える。
この方法を忠実に守り、実践すれば、もっとも安全かつスムーズに相手に接近し、相手の行動に影響を及ぼすことで、目的の行動へと動かし、しかも、ニーズをしっかり満たすことで、その後も良好な関係を維持し、関係を発展させることもできる。(157ページ)
社交の場であれ、営業の場であれ、相手に、目先の利益のためではなく、中立的な善意の第三者として、自分の困っていることやニーズをしっかり受け止め、一緒に考えてくれるというスタンスを示されると、そこに信頼が生まれやすい。その場合、もっとも重要な前提となるのは、中立性ということだ。中立であるからこそ、親切は意味を持つ。(158ページ)
条件付けは、連合学習だとも言える。本来は無関係な二つの事象が、何度か同期して起きると、関係づけられるようになり、もともと無関係だった刺激によって同じ反応が引き起こされるようになる。脳に自動的な回路が形成されることによる。(162ページ)
条件刺激はトリガーとなり、ある反応を引き起こす。何がトリガーかがわかれば、悪い反応を防ぐことにつながる。逆に、良い反応が起きるトリガーを活用することで、パフォーマンを向上させることができる。(162ページ)
こうした条件付けをうまく利用することで、気分や意欲をコントロールすることができる。そのためのポイントは、成功や良い結果と結びついた条件を、積極的に生活に取り入れることである。行動の記録を取り、物事がうまくいっていたとき、していたことを特定し、それと同じことをするように心がける。うまくいったときに聞いていた音楽を聴くのもいいし、服装や筆記用具などにこだわるのもいい。
せっかく物事がうまくいっているのに、そのやり方や生活習慣を変えてしまったために、成功パターンを見失ってしまうということもある。
この原理を、他の人の行動や心理状態をコントロールするのに応用することもできる。その基本は、生活や行動をパターン化し、次の行動や思考に切り替わるときには、合図となる刺激を与えるということだ。決まった音楽を流す、ベルを鳴らすといったものは、広く用いられている。(163ページ)
現実に多くの人がやってしまう間違った対応は、物事がうまくいかなくなると、接し方や対応を、うまくいっているときとは、ガラリと変えてしまうということだ。そうすると、ますますその人は拠り所をなくして、悪い反応に陥っていくことになりやすい。
うまくいかないときも、うまくいっていたときと同じ反応を、やり取りの中で行うことで、自分は見捨てられていない、大丈夫だという安心感を与えることができる。(164ページ)
予測された出来事が“安定剤”として作用するのとは逆に、意表をついた出来事は不安を高める。実際、洗脳では、一旦、“安定剤”に依存させておいて、それを急にわざと与えないことで、不安に叩き落とすのだ。
突然そうした状況に陥ると、本人は混乱し、何が悪かったのかと自分を振り返ったり、責めたり、相手の気持ちを推し量ろうと、もっとびくびく相手の顔色をうかがうようになる。
そんな心理状腹をしばらく味わわせ、緊張が高まりきったところで、何が気に入らないかをほのめかす。不安な心理状態におかれているだけに、この不安定な状態を解消できるのなら、喜んで妥協し、相手のいいなりになる。
これは、気まぐれで支配的な人物が、依存的な人を支配する典型的なパターンでもある。(165ページ)
心的外傷体験によって、以前の条件付けが消去されるだけでなく、それとは真逆ともいえる状態が生じる(167ページ)
信じてきたものが壊れたとき、別人のように振る舞いだすということは、しばしば経験すること(168ページ)
極限状態に追い詰められることが、いい意味でも悪い意味でも、振る舞い方を百八十度変えるきっかけとなるのだ。言い方を変えれば、瀬戸際まで追い詰められたとき、既成のプログラムが解除され、プログラムの書き換えが起きやすくなるということだ。
操作的な「洗脳」においても、自発的な「改心」においても、何らかの極限状態が大きなきっかけとなったというケースは非常に多い。逆に言えば、極限状態がなければ、そうした価値観の逆転は起こりえないとも言える。(168ページ)
宗教的修行と洗脳が、紙一重の行為であり、解脱も洗脳も、そこで起きていることは、既成の価値観の消去だという点では共通するのである。(169ページ)
オペラント条件付けは、ナメクジのような単純な神経系しかもたない生き物でも、効果を発揮する。だが、逆に人間のように高い知能をもつ生き物の場合には、うまくいかない場合もある。知的作用や感情的作用が、オペラント条件付けの邪魔をする場合があるのだ。つまり、条件付け操作がうまくいくためには、叱ったり、失敗の原因をあれこれ詮索したりしない方がいいのだ。機械的に淡々とトレーニングを繰り返すことで、行動を自動化し、行動パターンの変化を自然に引き起こす。(170ページ)
マインド・コントロールは、決してゼロか百かというものではなく、境界線上で苦しんでいることがむしろ多いのである。そのことは、彼らが「帰還」できる可能性を示している。(183ページ)
思想改造を推し進める上で大きな役割を果したと考えられる八つの要素(184ページ〜186ページ)
第一の要素・・・環境コントロール
思想改造に水を差すような外部からの情報や人物との接触を遮断するだけでなく、内面的な思考にまで関与し規制を加えてくる。唯一絶対の政治的ドグマだけが真実であり、それ以外は、すべて否定される。
第二の要素・・・神秘的操作
党やその指導者は、特別に選ばれた存在として、ある種の神秘性を帯び、厳粛なオーラをまとって改造される者の前に現れる
第三の要素・・・純粋さの要求
全体主義のイデオロギーにあっては、完全に純粋であるか、不純であるかの二つに一つしかない。絶対的な善か絶対的な悪しか存在しない
第四の要素・・・自己の純化と結びついた「告白熱」
競うように、自分の「罪」を打ち明け、自己暴露、自己批判をすることが、純化を加速すると同時に、仲間同士で告白を共有することにより、連帯感を高めるのにも役立つ。
第五の要素・・・「聖なる科学」としての理念の位置づけ
基本的な前提である理念そのものを疑うことは許されず、畏敬の念を払うべき「神聖」絶対なものとされるが、同時に、それ以外のことには厳密な科学性が求められる。
第六の要素・・・教条主義的な決まり文句の使用
二分法的な決まり文句に、使用される語彙は限定される。それによって、知らずしらず価値観や思考はコントロールされることになる。
第七の要素・・・理念が個人よりも高く位置づけられること
全体主義の大きな特徴でもあると同時に、カルト宗教にも同じ特徴が見出される。理念は絶対的なものとみなされ、個人の経験や人生よりも優先される。個人はその特性に応じた成長が求められるのではなく、画一的な教条に、誰もが完全に合致することが求められる。
第八の要素・・・「生存の免除」という考え方
理念に一致した完全に善なる存在だけが生存することを許され、それ以外の者は生存を「免除」される。つまり、処刑されるのだ。生存を続ける唯一の希望は、理念に完全に合致したものに生まれ変わることである。中国で執行猶予つきの死刑判決が下されるのは、そうした意味においてである。
感覚遮断が、見当識障害や感覚障害だけでなく、幻覚や被害妄想を引き起こす(190ページ)
感覚遮断状態において与えられた刺激は、通常の状態では想像できないほど強い影響力を、人間の精神や脳に及ぼすことを明らかにしたのである。それは同時に、この技術を悪用すれば、その人の思想や考えを、すっかり変えてしまうことも可能だということを示していた。(191ページ)
実験から明らかとなったことは、われわれの脳が正常な働きを維持するためには、適度な量の刺激を必要としているということだ。刺激は情報と言い換えてもいいだろう。入力情報が不足し過ぎると、もはや脳は正常な働きを保てなくなる。
そして、入力情報が極度に不足した状態に置かれると、脳はどんな情報でも取り込み、吸収しようとする。それまで信じていた信念と異なる内容の情報であろうと、抵抗なく吸収しようとする。その結果、それは強く浸透し、それまでの信念に取って代わることも起こる。それは、まさに洗脳の原理を示していた。
洗脳を可能にする原理としては、まったく逆の方法もある。それは情報遮断や感覚遮断とは反対に、過剰とも言える情報や刺激にさらし続けることである。
情報過負荷の状態が続くことによっても、脳は次第に主体的な思考力や判断力を失っていく。
最初は強い反発と抗議を呼び起こすような考えであっても、さらにまた同じことを言われ続けると、最初ほど強い反発や抗議を続けられなくなっていく。過剰な情報にさらされた脳は、次第にそれが正しいか間違っているかを判断しなくなり、それを受動的に受け容れるようになってしまうのだ。
孤独に暮すことが当たり前となり、同時に、メディアからの大量の情報に日夜さらされて暮らす現代人は、感覚進断と情報過負荷という両方の危険に直面していると言える。(192ページ)
電気けいれん楽法は、息者の両側のこめかみに当てた電極に、百ボルト程度の電圧をかけて脳内に通電し、てんかん発作を引き起こすことによって、脳をいわばリセットする治療法である。
これは、てんかん発作が起きると、患者の精神状態が一時的によくなることから思いついたもので、実際、うつ病などの治療に今日も使われている。(194ページ)
サプリミナル効果による方法は、二つの点で革新的だった。一つは、それを被っている人に気づかれにくいという点であり、もう一つは、一度に多数の人に効果を及ぼすことができるということである。マインド・コントロールの新たな手法の登場だと言えた。
サプリミナル効果を露骨に用いた手法は、その後、社会の警戒心が強まるとともに、規制の対象となるが、もっとマイルドな方法で、暗示効果と組み合わせることにより、サブリミナルに影響を及ぼす手法は、現在も広く用いられている。(208ページ)
今日目指されているのは、それよりはるかに高度なもので、電磁波や磁場をかけることで、脳の状態自体を直接的にコントロールする装置である。こうした試みの一部は、すでに臨床応用もなされている。経頭蓋磁気刺激法(TMS)と呼ばれるもので、めまいや耳鳴り、頭痛、脳梗寒の後遺症、バーキンソン症候群、うつ病、幻聴の治療などが試みられ、効果があったとの報告もなされている。(212ページ)
悪しきマインド・コントロールは、人道に対する犯罪行為だと言えるが、これらの原理は、善意のもとに、はるかに穏やかで、社会的にも認められた形で、行われた場合には、教育とか啓発とか鍛錬と呼ばれ、ポジティブな意義をもつ行為となり得る。(214ページ)
マインド・コントロール第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする(216ページ〜)
感覚遮断のような極端な状態は、神経系を混乱させるだけで好ましくないが、ほどよく刺激への暴露を減らすことは、意欲や主体的な関心を高めるのに、非常に効果的なのである。ことに自分で考える力を養い、維持するうえで、情報入力が控えめであることは、とても重要である。(219ページ)
逆に言えば、本人の主体性を奪い、操り人形やロボットに仕立て上げようと思えば、常に情報過剰な状態に置き、脳がそれらの情報処理で手いっぱいになり、何も自分では考えられない状態にしてしまえばいいということになる。(220ページ)
子どもをゾンビ化するには、過剰な情報にさらし続け、自分で考える暇も与えずに、常に何かをやらせるのが、“最善”の環境だからだ。まさに、子どもたちにとって、そうした環境が受動的に実現してしまっていると言えるだろう。(221ページ)
マインド・コントロール第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う(221ページ〜)
過剰な情報を負荷して、処理能力をオーバーした状態を作り出す場合、同時に、脳の処理能力自体を低下させれば、主体的な判断能力を奪うことがいっそう容易になる。
それは、神経生理学的な状態としては、脳の伝達物質を枯渇させることである。疲労困憊、不眠、低栄養、極度のストレスによって、脳の伝達物質が底をつくと、脳はうまく機能しなくなる。(221ページ)
洗脳においては、脳を絶えずビジーな状態に置くとともに疲労困憊させる方法が徹底して取られる。まず頻用されるのは、睡眠時間を奪い、その質を劣悪なものにするということである。(222ページ)
生活のリズムが一定しないと、人間は、通常の何倍も、疲労とストレスを感じやすくなるのだ。(223ページ)
人は予測できることに対しては、ある程度心構えをもつことで対処することができるが、予測不能な状態に置かれると、脆さを見せる。精神を蝕まれ始める人も少なくない。(225ページ)
手荒なことをしなくても、何が起きようとしているのか見通しを与えずに、一切かまわずに長時間待たせるだけで、人は病み始める。(225ページ)
マインド・コントロール第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する(229ページ〜)
第一の原理と第二の原理によって、主体性や判断力を低下させ、不安を高め、喜びや楽しみを奪われた状態を作り出す過程が、いわば下準備の段階だと言える。こうして欠乏と不安の極限状態に置いて、精神的な抵抗力や批判的に考える力を奪ったうえで、いよいよ核心に踏み込んでいく。そこで行われるのは、あなたにも救われる道があると語りかけることだ。我々の仲間になって信念を同じくすれば、すばらしい意味をもつ人生が始まると、希望を約束するのだ。(229ページ)
本当に救う気があるのなら、先のことを約束などせずとも、黙って救ってくれればいいのだが、それでは救世主は成り立たないのだ。最大の前提として、私を信じれば、救われるだろうと、人々が信じることを要求する。ある意味、信じるということを介してしか、“奇跡”も起きないからだ。
キリストや釈迦といった偉大な救世主でさえも、その約束が果たされたかどうかは、議論のあるところだろう。ましてや、元セールスマンやマッサージ師上がりの“救世主”が約束した救いが、どれだけ当てになるかは、かなり危ういと言わざるを得ない。
それでも、多くの人がその“約束”にすがろうとするのは、この世にあまりにも希望がないからだ。(232ページ)
多くの人が、強い確信もって希望を約束されると、その言葉を信じてしまう。なぜなら、多くの人は、現実の世界では満たされない願望やフラストレーションや不安を抱え、希望や救いを求めているからだ。
人に愛されたい、認められたいという思い、有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したいという願い、それは現実の社会では踏みにじられることの方が多い。(233ページ)
われわれは、普遍的な価値や使命を人生に求めようとする願望を秘めている。利益や快適さや瞬間的な快楽ばかりを求めようとする社会のありかたでは満たされないものを抱えているのだ。(233ページ)
われわれ現代人の多くは、普遍的な価値への飢餓という欠乏状態を抱えているがゆえに、そこを攻めてこられると、ぐらっとなりやすいのだ。(234ページ)
信じることは、強力な暗示効果によって“奇跡”を引き起こすこともある。客観的な所見がどうかということよりも、「きみは勉強が得意になるよ」「きみは良くなる気がするな」「もう病気が治りかけているもしれない」といった言葉が、強力な効果を発揮することは、医者や教師なら、しばしば経験することである。そして、優れた臨床家や教育者ほど、この原理を上手く使いこなす。「希望を約束する」ことで、実際にそれを現実にしてしまう。(234ページ)
マインド・コントロール第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる(235ページ〜)
群れで生活するのが基本である人間は、一旦仲間だと認めたものに対して、忠誠を尽くすという本性をもっている。マインド・コントロールしようとする者は、仲間であることを強調したり、親しみを演出しようとする。愛情や共感のポーズを積極的に示そうとする。(235ページ)
社会的生き物である人間の承認欲求は、非常に強力なので、自分を認めてくれたものに対して、肯定的な感情やそれに応えたいという忠誠心を生み出す。その結果、人は自分のことを認めてくれた存在を裏切ることに、強い心理的抵抗を覚える。この心理的抵抗は、すなわちマインド・コントロールの力でもある。(237ページ)
優れた指導者やリーダーは、この原理を熟知して活用し、部下や顧客や交渉相手を動かそうとする。逆にこの原理を軽んじたリーダーには、惨めな末路が待っているだけだ。(238ページ)
マインド・コントロール第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける(242ページ〜)
マインド・コントロールの問題を考えるときに、常に忘れてはならないのは、それはコントロールする者からの一方的な操作や支配ではないということだ。コントロールされてしまうのは、それを求める気持ちをもつからでもある。強い確たる存在に同一化したいという願望が、マインド・コントロールを生むのである。(245ページ)
マインド・コントロールを「解く」ということは、マインド・コントロールする側の非や不正を暴くだけでは不十分だということだ。自分よりも強力な存在に依存したい、そうすることでしか自分を支えられないという気持ちをどうにかしない限り、その試みは失敗に終わる。
結局、そこから見えてくるのは、依存と自立の問題である。自分で自分を支えることが、すぐにはできないまでも、もっと信頼のできる身近な存在の助けを借りながら、本来の自立を取り戻していくことが、マインド・コントロールから回復するということなのである。
そういう手当てが十分されないまま、依存していた存在に対する幻滅だけが起きたとき、非常に不安定で、危険な状態を生じる。うつ状態や自殺という方向に向かうか、妄想的になって現実を否認することで、しがみつき続けようとするか、別の依存対象にすがっていくか、いずれかである。どれも、本当の回復でも自立でもない。(246ページ)
カルト教団の餌食になることを座視するということと、信教の自由を尊重するということは、相容れない部分がある。もう大人だから、どういう人生を歩もうと、本人の責任だと思って放置したために、地下鉄サリン事件のような犯罪にいつのまにか加担させられているということが現実に起きると、やはり介入すべきだったのかという疑問も強まる。
信教の自由も、公共の福祉を損なわない限りにおいて保障されるものであり、公共の福祉に反する教団については、信教の自由も制限を受けるという法律論も成り立つだろう。また、ここの公共の福祉とは、信者本人の健康や福祉を損なわないことも含まれると考えることもできるだろう。そうした観点に立てば、本人の意思に反しようと、公共および本人の福祉を著しく損なう危険から、わが子を守ることが親の義務、社会の義務だという考え方も導き出されよう。(250ページ)
かつては、自由意思というものは、もっと信頼できるものと考えられていたが、自由意思も大して当てになるものではないと、見方が変わってきたということである。
余りにも多くの情報と物質にさらされ、常に欲望や不安を掻き立てられ、さまざまな形でマインド・コントロールを受けながら暮らしているわれわれ現代人には、もはや自由意思などと呼べるようなものは、ほんのわずかしか残っていないのかもしれない。(251ページ)
介入を行う場合にも、本人の主体性や信念・信教の自由という基本的人権の尊重ということが、非常に重要になってくる。
では、すべての場合において強制的介入は許されないかというと、決してそうではない。状況によっては、それが必要な場合がある。今日、強制的な介入が法的にも認められる状況は、次のような場合に限られるだろう。
①自傷他害行為が現に行われていたり、その危険が切迫している場合。
②違法行為を行ったり、それに巻き込まれたり、その危険が切迫している場合。
③本人の基本的人物が損なわれているが、さまざまな心理的圧力によって、本人自身が異議を唱えたり、抵抗することができない場合。
④未成年者や児童の場合で、本人の権利が侵害されたり、本人の福祉や健全な心身の発達に反することが行われた場合。
⑤精神障害や認知機能の低下が存在し、現実的な判断力が低下し、治療や保護が必要と認められる場合。(267ページ)
不思議なことに、一旦それを口にして語り、自分を縛る気持ちの正体がわかってくると、支配する力は衰え始める。人間は、その正体が自覚されていないと、その力に支配されやすい。ところが、正体を知ってしまうと、その力は次第に制御できるものになっていく。
依存する気持ちの根底にあるものは、多くのケースで共通している。大部分のケースでは、愛情やつながりを求める気持ちと自分の存在や価値を認めてもらいたいという思いがかかわっている。つながりと自分の価値に対する欲求。それは、社会的かつ形而上的生き物である人間の二大欲求と言ってもいいだろう。
現実の社会の中で、つながりと自分の価値に対する欲求がうまく満たされないとき、その欲求を手っ取り早く満たしてくれるものに溺れる危険が高まる。
カルト宗教は、大きく二つに分かれる。一つは、家族や愛といった絆を重視したもの。もう一つは、修行や祈禱により常人を超えたパワーを手に入れるといった自己鍛錬に重きを置いたものである。同じ仏教でも、大乗仏教は前者の傾向がみられ、小乗仏教は後者の要素が強い。前者は大衆的、庶民的な宗教であり、後者はエリート的な志向がみられる。
そこには、人間の二大欲求、すなわち「つながりへの欲求」と「自己価値への欲求」が反映しているといえる。(278ページ)
もっとも大きなスケールでマインド・コントロールが起きるのは、大部分の人々が、未来に対して希望を失ったときなのである。(284ページ)
全体主義の亡霊が人々の心をとらえ、排除と戦争へと暴走させるのは、多くの人々が自分の頭で考える余裕をなくし、受動的な受け売りを、自分の意思だと勘違いするようになったときである。そのとき同時に見られる兆候は、白か黒かの決着をつけようとする潔癖性が亢進し、独善的な過剰反応が起きやすくなるということである。
マインド・コントロールの問題が突きつけている問いは、われわれ現代人に、自らの運命を選ぶ主体性はあるのかということに思える。情報の洪水と希薄化するリアルというアンバランスな状況に暮すわれわれが、果して自ら選択したと言える生き方をすることができるのか。外からもたらされる情報や空気を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考え、体験のみならず過去の歴史に照らし合わせて判断し、冷静さを忘れずに行動することはできるのか。こうした状況だからこそ、その問いは、いっそう重要性を帯びているように思える。(285ページ)
以下は、私の個人的な感想です(上の「ブクログ」リンク先で書いた内容です)。
コロナ禍を通して、「不安」「恐怖」が社会経済をコントロールする上で有意に有効であることを
社会心理学は知ってしまった。
さらにAIの発展に伴い、
文章作成や要約から、プログラムそのものの記述、
あるいは絵画や動画などのアートに至るまで、
ありとあらゆる情報とシステムが、
今や生身の人間の手を離れようとしている。
当然ながらフェイクニュースも増え、
情報の氾濫は指数級数的に拡大していく。
それに伴い、
本当に大切で必要な情報が埋もれていく。
私は、Chat GPTが情報源とする2019年まで
の情報のほうが、最新の情報よりも、
上述した意味で全般的に信頼性が高いだろう、
と考えている。
決して、最新刊の本のすべてがデタラメだ、
と思うわけではない。
もはや私には、その真偽を判断できない段階まで
社会システムが複雑化し、
その全貌を捉えきれなくなってしまったからこそ、
多少は内容が古くとも、少なくともその著者がその著者自身の考えを述べているのだと確信を持って読める本の基準として、
2019年以前に出版された本、
と判断しているだけでしかないし、
正直、この判断が妥当なのかもわからない。
私も最新刊の本をまったく読まないわけではない。
自分の経験と感覚に照らしながら内容を吟味できるような内容の本であれば、
最新刊の本を読んでも構わないと思っている。
しかし、
とてもセンシティブな内容を扱った本については、
私自身では、そこに書かれていることを吟味することができない。
その点、本書は増補改訂版だが2016年に出版されているし、著者も愛着障害を提唱する精神医療現場の最先端で活躍されているかたで、
内容についても信頼できると思えた。
当然ながら、コロナ禍のことや生成AIの出現のことにも触れられていないが、
まさに現在の社会における混乱を予言するかのような警鐘が
本書の随所に散りばめられている。
具体例もたくさん挙げられていて、
マインド・コントロールや、サブリミナル効果といった最近のメディアでは目にしなくなった技法も、
むしろ現実社会の奥深く、私たちの身近な日常にまで実用化されているのだ、
ということも本書を読んでよく理解できた。
また、「マインド・コントロール」と聞くと
極端に悪いイメージが付いて回る感があるが、
実際のマインド・コントロール自体には善も悪もなく、
この技術を扱う者の意向次第で善用もされれば悪用もされるし、
私たちが自覚しないまま、程度の差こそあれマインド・コントロールする側にもされる側にもなってしまうのだ、
ということが本書を読んでよく理解できた。
誰にとっても、マインド・コントロールは決して対岸の火事ではないのだ。
余談ですが、
本書の著者名とタイトルだけをChatGPTに伝えて、
要約してみてもらいました(下記リンク)。
ChatGPTからの回答のみに即して、
私の疑問を投げかけてみたところ、
(私がしていることだから当然なのかもしれませんが)概ね、似たような結論に到達しました。
むしろ、ChatGPTとのやりとりのほうが
具体的かつ実践的で、現実的かもしれない、
とさえ感じました。
一人でブレイン・ストーミングするのには、ChatGPTは、とても役に立ってくれると思います。
少なくとも自分一人だけで多角的に検討しようとするよりは、幅広い観点からアプローチした意見出しをしてくれます。
もちろん、私自身が不満に感じたり疑問に思った部分を訊き続けたからこそこうなったのだとも思いますし、
最終的には、ChatGPT利用者の観点やセンスに合わせたやり取りになる傾向があることは否めないでしょう。
そのことを踏まえつつ、軽くチェックしてみる、くらいのつもりで、
誰かの時間を奪ってしまう迷惑を気にすることなく壁打ちしてみるのには最適なツールだと改めて感じました。
以上、余談でした。
