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戦前の二大政党制を読み解く ── 規律か、成長か

公認会計士の三浦真です。

現代の日本政治を見ていると、野党の存在感があまりにも弱いと感じます。

野党には、もっと頑張っていただきたいと思います。

このままでは、何度選挙を繰り返しても、実質賃金の停滞、出生数の減少、GAFAのような世界的企業を生み出せない日本経済、そして地方の衰退といった、長年にわたる政策上の課題が十分に検証されません。

その結果、政治の方向性もなかなか修正されないままです。

本来、民主主義においては、政権交代を通じて政策を見直し、社会におけるさまざまな利害を再調整していくことが重要です。

しかし現在の日本では、そうした機能が十分に働いていないように思います。

アメリカには共和党(現政権)と民主党があり、イギリスには保守党と労働党(現政権)があります。

いずれも、政権を担う能力を持つ政党が競い合い、選挙の結果によって政権が交代する仕組みです。

一方、令和の日本において、現実に、政権を担当する能力を持つ政党は、事実上、自由民主党の一党に限られているように見えます。

そのため、自由民主党の内部で、例えば「高市さんに象徴される政治」と「石破さんに象徴される政治」が入れ替わることで、あたかも、政権交代に近い変化が起きているようにも見えます。

しかし、同じ政党の内部における路線変更だけでは、本来の意味での政権交代とはいえません。

政策の失敗を検証し、責任の所在を明らかにしたうえで、異なる理念、考え方に基づいて国の方向性を転換する仕組みが、十分に機能していないのではないでしょうか。

いわゆる失われた30年が長期化した背景の一つには、政権交代が機能しにくい日本政治の構造があるのではないかと、私は考えています。

子育てと親の介護を担う責任世代として、また、一人の納税者、有権者として、私は以前から、戦前の日本に、二大政党制の時代があったことに関心を持っていました。

五百旗頭薫先生との出会い

先日、政治史をご専門とされる東京大学大学院法学政治学研究科教授の五百旗頭薫先生とお話しする機会に恵まれ、戦前の二大政党制について、多くの知見をいただきました。

以下は、その対話を通じて学んだことをもとに、私なりに調べて整理したものです。内容に誤りがある場合、その責任はすべて私自身にあります。

歴史の本を読むとき、私はどうしても公認会計士の目で読んでしまいます。

戦争の勝敗や政治家の駆け引きよりも、その裏で動いていたお金の流れ、財政の判断、そして数字に表れた結果のほうが気になります。

戦前日本の二大政党制も、その目で眺めると、まったく違った景色が見えてきます。

突き詰めれば、お金とどう向き合うかという、二つの哲学の対立でした。そしてその対立の構造は、形を変えて、今の政治にも、そして会社経営にも、そのまま生きています。

今日は、公認会計士の視点から、戦前の二大政党制を読み解いてみたいと思います。

二つの政党は、二つの系譜から生まれた

戦前の二大政党は、突き詰めると、二本の系譜に集約されます。自由党系(のちの立憲政友会)と、改進党系(のちの立憲民政党)です。

両者はいずれも、明治の自由民権運動を母体としていました。しかし、思想も、支持基盤も、そして財政の体質も、大きく異なっていたようです。

自由党系は、フランス流の急進的な自由主義を背景に、在野の運動体として出発しました。地方組織を全国に置き、国会開設を求める請願運動を展開した、いわば「街頭から生まれた政党」です。早く国会を開けと運動します。おおよそ、支持基盤は、地方の豪農や地主層。地方の利益を背負っていたため、財政の体質は自然と「積極財政」になります。地方に道路や鉄道を引き、お金を回し、景気を動かすことを重視しました。鉄道を自らの地元に誘致しようとする姿勢は、当時「我田引鉄」とも呼ばれたほどです。

一方の改進党系は、イギリス流の漸進的な立憲主義を背景に、大隈重信を中心とする、より穏健な政党として展開しました。過激な運動とは距離を置き、議会制度をいかに設計するかを論じる路線をとります。国会の開設まで、しっかりと準備して臨もうとします。おおよそ、支持基盤は都市の実業家や金融界、そして知識人。お金の規律を重んじる人々を背負っていたため、財政の体質は「健全財政」となり、国際協調を重んじました。もし、私が大正時代、昭和初期に生きていたら、改進党系の立憲民政党を支持したと思います。

皆さんはどちらでしょうか?

なお、財閥との関係でいえば、政友会(自由党系)は三井財閥に、民政党(改進党系)は三菱財閥に、緩やかに結びついていたとされます。ただし、これは厳密な系列関係ではなく、あくまで傾向的な整理として理解しておくものです。

ここで公認会計士として注目したいのは、両党の財政哲学が、抽象的な思想ではなく、誰の利益を代表しているかによって、半ば自動的に決まっていたという点です。

これは今の会社にも、そのまま当てはまります。

財務の方針は、社長個人の好みで決まっているように見えて、実は、その会社が誰のために存在しているかによって、半ば、自動的に方向づけられています。

地域に根ざした会社と、投資家を意識する会社とでは、自ずと財務の姿勢が変わります。

未上場中堅企業と、グローバル上場企業では、誰の利益を重視するか、当然に、異なります。

財政哲学は、思想である前に、立場の表現です。

「憲政の常道」── 二大政党が交互に政権を担った時代

この二つの系譜は、大正の終わりから昭和の初めにかけて、本格的な二大政党制を築き上げます。

1924年(大正13年)の護憲三派内閣を起点に、政友会(自由党系)と民政党(改進党系)が交互に政権を担う慣行が生まれました。

これを「憲政の常道」と呼びます。翌1925年(大正14年)には普通選挙法が成立し、有権者の基盤が大きく広がりました。

日本にも、選挙によって政権が移る本格的な政党政治が根づいたかに見えた時代です。

しかし、この体制は驚くほど短命に終わります。

その崩壊の引き金を引いたものこそ、これからお話しする財政をめぐる対立でした。

金解禁論争 ── 規律を取るか、景気を取るか

両党の哲学の違いが、最も激しくぶつかったのが、昭和初期の金解禁論争でした。

少し前提を説明します。

日本は日清戦争の賠償金をロンドンに置き、それを準備として、1897年(明治30年)に金本位制を採用しました。

金本位制とは、簡単に言えば、自国の通貨を一定量の金と結びつけ、国際的な信用の枠組みに参加することです。金の保有量までしか日本円を発行できない仕組み。これによって為替は安定し、海外からの信用も得やすくなります。信用される日本円は、海外で借入がしやすくなります。

その代わり、国内の都合だけで、自由にお金を増やすことができなくなります。規律を受け入れることと引き換えに、安定と信用を得る仕組みです。

ところが第一次大戦の混乱の中で、日本を含む多くの国が、いったんこの金本位制を停止していました。

そこで昭和の初め、もう一度、金本位制に戻るべきか。

戻るなら、どのレートで戻るかが、国家的な大問題となったのです。

ここで、健全財政派の民政党(改進党系)が動きます。

浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は、1930年(昭和5年)1月、旧平価での金解禁を断行しました。井上は横浜正金銀行や日本銀行の総裁を務めた、国際金融に深く通じた人物です。

彼の狙いは明確でした。

為替を安定させて国際金本位の秩序に復帰し、日本の対外的な信用を回復すること。そして緊縮財政によって、非効率な企業をあえて淘汰し、日本経済全体を筋肉質に鍛え直すことでした。

会計の言葉に置き換えれば、井上が最優先したのはバランスシートの健全性と対外的な信用です。借入の基盤を守り、国際社会からの信頼を保つ。財務規律を何よりも重んじる、典型的な守りの判断でした。

ところが、このタイミングが、よくありませんでした。

旧平価での金解禁は、世界恐慌のまさに直撃と重なってしまったのです。為替を安定させるための緊縮が、世界的な需要の縮小と同時に襲いかかりました。

結果は深刻なデフレ、いわゆる昭和恐慌。物価は下がり続け、企業は倒れ、とりわけ農村は極度の困窮に陥りました。

そこで今度は、積極財政派の政友会(自由党系)が動きます。

犬養毅内閣の高橋是清蔵相は、1931年(昭和6年)12月、金輸出の再禁止を断行しました。金本位制から離脱し、円安を促し、低金利と、日銀が引き受ける赤字国債と、公共事業によって、内需を一気に反転させたのです。

これは後に高橋財政と呼ばれます。

高橋が最優先したのはキャッシュフローと景気の回復でした。国際的な金の規律よりも、まず、目の前の国内経済を立て直す攻めの判断です。

そして、日本は、主要国の中でいち早く恐慌から抜け出したと言われます。

どちらが正しかったのか ── そして、どちらも代償を払った

では、井上が間違っていて、高橋が正しかったのでしょうか。

私は、そう単純には言えないと考えます。

ここで注目したいのが、高橋是清という人物の経歴です。

彼はもともと、日露戦争の戦費を、ロンドンやニューヨークで外貨建ての公債として調達した、国際金融の達人でした。決して国際的な信用を軽んじていた人物ではありません。

私見となりますが、高橋は国際信用の重みを誰よりも知っていたうえで、国際信用と、国内景気が衝突したとき、あえて後者を優先したのです。これが正確なところではないでしょうか。

そう考えると、井上の緊縮も、高橋の積極財政も、それぞれの哲学としては筋が通っていました。

井上の失敗は緊縮そのものではなく、世界恐慌という最悪のタイミングで緊縮を選んでしまったことにあります。

正しい哲学であっても、局面を読み違えれば、会社を、そして国を傷つける。これは経営においても、まったく同じことが言えます。

そして、この物語には、重い結末が待っていました。

金解禁を断行した浜口雄幸首相は、1930年に東京駅で狙撃され、翌年に亡くなりました。

金本位制からの離脱を主導した犬養毅首相も、1932年の五・一五事件で暗殺されます。

さらに高橋是清もまた、1936年の二・二六事件で、膨張する軍事費を抑えようとするまさにその最中に、殺害されました。

財政をめぐる二人の蔵相、そして二人の首相が、いずれも凶弾に斃れたのです。

財政の選択が、これほどまでに重い代償を伴った時代がありました。やがて、政党政治そのものが力を失っていきます。

1940年(昭和15年)、すべての政党は大政翼賛会へと解消され、二大政党制は完全に姿を消しました。そして日本は、敗戦へと向かっていきます。

二つの哲学が競い合う仕組みこそが、価値だった

ここで、冒頭の問題意識に立ち返りたいと思います。

戦前の二大政党制の本当の価値は、井上と高橋の、どちらの哲学が正しかったかにあるのではないと思います。

むしろ、規律という哲学と、成長という哲学が、選挙を通じて、交互に政権を担い、互いの政策を検証し、行き過ぎを修正し合えたことにこそ、価値がありました。

井上の緊縮が世界恐慌の中で行き詰まれば、高橋の積極財政がそれを引き受ける。国民は、その都度、どちらの哲学を選ぶかを問われました。

政権交代とは、まさにこの「検証と修正の仕組み」だったのです。

その仕組みが暴力によって断ち切られたとき、日本は一つの方向へ突き進み、誰も止められなくなりました。お金の規律をめぐる対話が失われたとき、政治は健全さを失ったのだと、私は思います。

冒頭で私が申し上げた現代政治への懸念も、結局はここにつながります。

異なる哲学が競い合い、政策が検証され、方向が修正される。その仕組みが弱まっているのではないか。

私が戦前の二大政党制に関心を持つのは、過去を懐かしむためではなく、この「検証と修正の仕組み」の大切さを、改めて確かめたいからです。

さて、令和の日本、毎年のように赤字国債を発行して、今や、国の連結貸借対照表は以下になっています。

https://www.mof.go.jp/policy/budget/report/public_finance_fact_sheet/fy2024/national/fy2024renketsu.pdf

2025年3月31日現在
資産1,044.9兆円、負債1,574.7兆円、資産・負債差額△529.7兆円

つまり、資産よりも負債が約530兆円多い状態です。

もっとも、国の財務状況は企業の貸借対照表と全く同じようには評価できません。

国には徴税権があり、資産の中には道路や河川など、売却を前提としない公共用財産も多く含まれているからです。

それでも、巨額の政府債務を抱え、毎年の財政赤字を国債発行で補い続けていることは、軽視できません。

財政に対する信認が低下すれば、国債金利の上昇や、円に対する信認の低下を招くリスクがあります。

円安は、海外売上高の大きい企業などにはプラスに働く一方、原油や小麦など、多くの資源や食料を輸入に頼る日本にとっては、輸入価格を押し上げ、物価高をもたらす、という大きなデメリットがあります。

経営者は、自社の財政を二つの目で見なければならない

そして実は、まったく同じことが、一つの会社の中にも言えます。

会社の財務には、つねに二つの目が必要です。一つは、井上準之助に代表される「規律の目」です。自己資本を厚くし、手元資金を確保し、借入を抑え、財務の健全性を守る視点です。

もう一つは、高橋是清に代表される「成長の目」です。ときに借入を活用し、攻めの投資でキャッシュを動かし、事業を大きく伸ばしていく視点です。

どちらか一方だけが正しいわけではありません。好況のときと不況のとき、攻めるべき局面と守るべき局面とで、取るべき哲学は変わります。健全なときに守りに入りすぎれば成長の機会を逃しますし、危機のときに攻め続ければ資金が尽きます。

危ういのは、社内に一つの哲学しかなく、それを検証し、修正する声がどこにもない状態です。

国に健全な政権交代が必要なのと同じように、会社にも、規律と成長の両方の視点が競い合い、互いを点検し合う仕組みが要るのです。

まとめ

戦前の二大政党は、健全財政の民政党(改進党系)と、積極財政の政友会(自由党系)という、二つのお金の哲学の対立でした。

金解禁論争はその頂点であり、規律を取った井上も、景気を取った高橋も、それぞれの局面で考え、彼らなりの納得解だったと思います。

正解は一つではありません。

だからこそ、大切なのは、二つの異なる哲学が競い合い、検証し合い、局面に応じて修正される仕組みだと思います。

それは、国の政治においても、一つの会社の経営においても、変わりません。

その仕組みが失われたとき、戦前の日本がどこへ向かったかを、私たちは知っています。

歴史は、過去の出来事の記録であると同時に、経営の教科書でもあります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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