自己紹介|小学生の頃の私|2つの顔
そういえば、私はどんな人間なのだろうか。小学生まで記憶を戻してみる。
埼玉県三郷市に生まれる
私は1991年5月15日に埼玉県三郷市に生まれた。現在、新三郷駅にららぽーとやコストコ、イケヤなどもあるので賑わっているイメージがあるが、1990年代は何もなかった。
信じられないだろうが、新三郷の1番線と2番線は1キロほど離れていた。

しかし、小学生の時の私にとってはそこがすべてであり、世界であり、何の疑問も不便も感じなかった。
1つ目の顔:三郷市立立花小学校
私は小学生時代、2つの顔を持っていた。学校にいる私と、サッカーチームの私。
学校の私は、勉強はそれなりに出来る人だったと思う。そして嫌なやつだったのも事実だ。

私はとにかく凝り性だった。小学1年生の時に出された「あいうえお」を書く宿題では、何度も紙の字を消し込みで消して、書き直していた。綺麗に書けないことが、どうしても許せなかった。
ペンだこができても、それは誇りだった。「ここまで書いたからこそ」と、どこか胸を張っていた。
勉強もそれなりにできた方だと思うが、本当は図画工作の方が好きだった。きっと、工作好きの父の影響だろう。
器械体操がとにかく苦手だったが、足はそれなりに早い方だったと思うので、自分の中で優越感の様なものがあったのに違いない。
そのようなこともあり、小学生の時の私は天狗のような感じだったかもしれない。あんまり努力をしなくてもそれなりに勉強もできるし、運動もそれなりにできた。作文や書道コンクールなどでも金賞をよく取っていた。
小学生の時の友達で今でも連絡をしているのは2人しかいない。つまり、そういうことだ。今振り返ると、本当に嫌なやつだったと思う。
2つ目の顔:立花キッカーズ
一方で、私は地域のサッカーチームに所属していた。立花小学校を拠点にしている立花キッカーズに所属していた。
先輩たちはサッカーがとても強く、県大会でも常連だった。
そういう影響もあったと思うが、私たちも6年生の時に関東大会まで行くことができた。ちなみに、私たち91年代の埼玉の星と言えば、元日本代表の原口 元気選手である。
そんなチームに所属していた。
しかし、私自身はサッカーがうまくなんてなかった。周りの子たちは、サッカーが好きでやっていた。きっと、毎日ボールを蹴ったり、ミニゲームをすることが楽しかったのだろう。

でも私は違った。
幼稚園の友達がサッカーを始めたから、なんとなく私も始めただけだった。サッカーなんて全く知らなかったし、埼玉県にどのようなJリーグのチームがあるのかも知らなかった。スポーツウエアなんて持ってなかったので、最初は普段着の様なものを着てサッカーをしていたと思う。
サッカーにのめり込んでいたわけではなかった。ただ、皆に見放されたくなかっただけだと思うが、それ故に「金魚の糞」みたいなやつだった。つまり、自分から主体的に動くわけでも、練習をするわけでもなく、ただ皆についていくだけの人だった。
練習でも試合でもいつも怒られていた。試合ではボールに触りたくなかった。どうせ怒られるだけだから。
監督やコーチからしたら、いつもびくびくしていて、主体的に練習もしない人なんて、チームにとってお荷物でしかなかったのだろう。コミュニケーションは「怒られる」以外ほとんど記憶にはない。肉離れをして足が痛かったので、「休んでもいいか」と聞きに行っても、コーチには無視をされていた記憶もある。
タイムマシンがあるのであれば、当時の監督やコーチに「そのマネジメント、完全に間違ってますよ」と激詰めしてやりたいと思ってもいるのも事実である。
しかし、当時の私にとっては、そんな監督やコーチであったとしても、「見放されたら嫌だ」と思っていた。
それでも、ベンチにいる自分はいつもチームでのけ者だった。練習にも行きたくない。試合にも行きたくない。それでも、チームから離れたら、自分の居場所がなくなってしまう気がしていた。あとはダサいと思っていた。
2つの顔
小学生の時のは私は、学校の私と、サッカーチームの私、全く違う自分が、いつもそこにいた。
天狗になっている自分と、いつもびくびく過ごしていた自分。
その二面性を、ずっと抱えたまま小学生を過ごしていた。
