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空っぽになるほどに充ちる不思議〜形而上も形而下も問わずして自然は真空を嫌う〜

自分の内側へと深く深く潜っていくと、次第に外側の世界とつながっていくというか、自分を取り囲む物事が自然に自分の内側に流れ込んでいく、引き寄せられてゆく感覚を覚える。

言葉も思考も手放して、眺める景色の美しさに時間の流れを忘れるように。

本を読みながら、いつしか自分が本を読んでいることを忘れて、言葉が紡ぐ情景が心に映し出されるように。

空間を満たす美しい音楽にふれながら、いつしか音楽を「聴いている」感覚が薄れて、音楽と一つになるように。

今ここに在る私を手放して、空っぽになればなるほどに充ちてゆくのはなぜだろう。

自然界では何も存在しない状態は存在しない、空が埋められることを求めて何かがそこを埋めようとする様子を、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と表現した。

心も物質も、形而上も形而下も関係なく、あらゆるもの充ちるためには「空」が必要であり、同時に充ちた瞬間から次の「空」に向けて手放すことが必要だとするするならば、「ししおどし(鹿威し)」のような円環運動が、循環的な流れこそ大切だということに他ならないように思えてくる。

古典物理学でいう固体も、原子のレベルになると確率の形態に分解してしまう。ただし、ここでいう確率とはものごとの可能性ではなく、相互の結びつきの確率を表している。量子論は、われわれに万物を物体の集まりとしてではなく、結合されたさまざまな部分が織りなす複雑な織物としてみることを余儀なくするのである。そしてこれこそが東洋の神秘思想家の体験してきた世界であり、事実、原子物理学者の言葉とほとんど同じ言葉で自らの体験を表現する神秘思想家がいるのだ。例をふたつほどあげてみよう。

フリッチョフ・カプラ『タオ自然学 - 現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』

物質的な対象は、われわれがいま見ているのとは異なったものとなる。それは世界をひとつの背景としていたり、それにとり囲まれて独立しているものではなく、われわれの目にうつるすべてを統合する統一体の不可分な部分であり、それらの一体性をそれとなくほのめかすものでさえある。
                            オーロビンド

フリッチョフ・カプラ『タオ自然学 - 現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』

物は相互に依存することによってその存在と性質を獲得するのであって、物それ自体に意味はない。                ナーガルジュナ

フリッチョフ・カプラ『タオ自然学 - 現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』

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