桃の女③
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響は私のTシャツの上からぎこちなく胸の膨らみを撫でる。そして、手がTシャツの下に潜り込み、私のおっぱいに直に触れる。響がその柔らかさを感じ、興奮しているのが伝わってきて私も興奮する。乳首は硬くなる。自分の身体が反応していることが、自分が女であること、そして響の女であることを教えてくれているようで、嬉しかった。響の手は私の湿った部分に伸びる。快感の熱はこの部分に集まっていて、また、快感を敏感に察知する。響の骨張った細い指を私は長い間愛してきたが、割れ目に指が入り込む瞬間、最も愛した。指は、傷つけないように、ゆっくりと、深みに入りすぎないように動いた。恥ずかしくて、気持ちよくて、脚が動く。
快感に身を委ねてしばらくすると、響の手が止まった。私は何をすれば良いのかわからなかった。響が私の左手を取り、ズボンの上から響の股間に当てさせた。そこで、初めて響の顔を見た。
眼が、黒々としていて、光も、物体も、何も映っているようには見えない。読み取れる感情はなく、野生の炎が燃えているだけだ。
その時、響が全く知らない動物に見えた。
響はズボンとパンツを下ろす。そこには、意思を持ったかのようにビンと身を反らす、くすんだピンク色のものがあった。太く、肉々しく、じっと何かを待っていた。生物でも無生物でもないそれは、あらゆる世界からの嫌われ者だった。
何も言葉を発さず、禍々しい欲望のみを発露するペニスを、私は、瞬時に忌むべき存在として認識した。そして、これは好きな人の付属物であることを思い出した。しかし、ペニスを辿って顔に行き着いても、そこにあるのは私の大好きな響ではなく、雄の動物だ。
私は非文明の世界に迷い込んでしまったようで、わけがわからなくなって、目をぎゅっと閉じた。
初めての夜は、私の様子を心配した響がペニスを萎えさせて終わった。その後も何回かしてみたが、触れるところまではできても、挿入までに私はペニスに耐えられなくなり、ペニスは萎えた。響は私が行為を不安がっていると思っているようで、無理しなくていいよ、ゆっくりでいいなどと声をかけてくれた。響の私に対する言葉はいつも優しかった。
響のことは好きだが、ペニスのことは好きになれなかった。それは、私にとって衝撃的なことだった。私は、響と純な恋愛をしてきたと思うし、それらと共にする私の生活も、私も、響も、純なものであると信じ切っていた。それらを否定し、私たちが肉欲にまみれた動物であると、認めろ、とそれは伝えてきた。
響は、この夏をどう過ごすのだろうか。他の女の子と、セックスするのだろうか。その時は、私のことを思い出してほしい。一番好きだった女の子のことを。
今日は、ゼミの男女6人で熱海に行くことになっていた。大学の中では、一番仲良くしているグループだ。レンタカーを借りて、一時間半程かけて向かう。道中、私たちはビールを飲み、音楽に乗って大学生らしく騒いだ。
8月の初めの熱海は、人でごった返していた。どこにいても海が見える土地。空と、海と、リゾート地の色はどれもきらきらとしていて、できる限り素肌を見せて、街の色と一体になるのが一番良いように思えた。
「桃、日焼け止め貸してくれない?こんなに日差しやばそうなのに私忘れちゃって」
沙里が栗色のポニーテールを揺らしながらこちらに来て言う。沙里の肌は既に小麦色で、それがよく似合っているのに、やはり日焼け止めは塗っておきたいものなのだろう。日焼け止めを渡し、海の方を見る。一緒にきた男の子たちが、いつの間にか海パン姿になって海に向かって元気いっぱい駆け込んでいた。
「夏がきたって感じ。いいね。楽しいね」
私はわくわくする気持ちが自分から迸っているのを感じていた。
「桃って意外と素直に話すよね。かわいい」
沙里は私の顔を見て、歯を見せて笑う。この子は出会った時から夏の子っぽいなと思っていたが、案の定夏が似合いすぎている。夏のものは、冷えていて、重たすぎず、フルーティーなものがおいしいが、沙里はそんな感じの女の子なのだ。よく笑い、健康で、明快な性格の沙里には、皆が好感を持っていた。
「意外かな? かわいいのなら嬉しい。ありがとう」
「うん。桃ってあんまり多くの人に心を開きそうなタイプじゃないじゃん。だから素直な言葉が聞けると嬉しくなっちゃう」
そう言ってまた笑う。
確かに私が心を開いている人は少ないが、沙里には開いているつもりだ。それを、知ってほしいと思う。
「沙里は心が優しくて、人に気を遣わせなくて。心も身体も健康に見えるところがとっても素敵だと思う。そういうところ、大好き」
「えっ、どうしたの突然、嬉しい」
沙里はぱっちりと上がったまつ毛がたくさんついたくるんと丸い目を、大きく輝かせて言った。確かに突然だったなと急に恥ずかしくなる。つい好きな気持ちが溢れてしまった。
「えー、どうしたの桃! 桃、私のことそんなに好きだったんだね、嬉しいよ。これからも仲良くしようね」
沙里は顔いっぱいを笑顔にして、私の背中をさする。夏の彩りを詰め込んだかのような笑顔だ。この子一人で夏が成り立ってしまう。大変だ。
じりじりと肌を焦がしていく太陽は、力を緩めない。空は、太陽の眩しさに負けないように精一杯明るい水色をつくるが、太陽に勝てるわけがない。海は、どこまでも穏やかで、競争心の強い太陽と海と観光客に不釣り合いだ。そう、ビーチの人々は自らが体現する夏を、互いに押し付け合っている。ただでさえ暑いのに、よけいに暑苦しい。そして、私はこの暑苦しい空間に身を任せるのが好きだ。素肌を砂だらけにして、海を眺める。私たちがどんなに一生懸命考えようが、働こうが、運命に逆らおうとしようが、海は、すべてを飲み込んでしまうことができる。すべてが嫌になったら、海に包まれよう。それがいい。などと、浮かれたビーチに似合わないようなことを半ば暴走しながら考えていた。
ぼんやりが解けると、隣に瀧くんが座っていて、こちらをにこにこしながら見ていた。
「ごめん、ぼーっとしてた。いつからいたの? 声かけてよ、恥ずかしいなあ」
「ちょっと前から。何か考えてたの? このビーチの中で一人だけぼんやりしてて。なんかおもしろかったよ」
「やだ、恥ずかしい。たまにそうなっちゃうんだよね」
私は頬に手を当てる。赤くはなってないはずだ。
瀧くんは少し笑って、よく冷えたビールを手渡してくれた。私たちは缶を開け、小さくカンパイをした。
ビールの冷たさと美味しさが全身に広がる。
「うま!」
二人で顔を見合わせて笑う。
「昼に外で飲むのやっぱ最高だわ」
瀧くんは濡れた髪をかき上げながら言う。私は、かっこよくて、どきっとする。
この人は、きっとモテる。顔がかっこいいもん。気が利くし。一度フットサルをやっているのを観に行ったのだが、小学生の時、クラス一人気のサッカー男子を好きだったことを思い出した。
「最高だね」
私は冷たいビールの缶を両手で包みながら、アルコールが体に広がるのを楽しむ。
「桃はさ、海入らないの?」
「ちょっと入ったけど、もういいかなー。体力奪われちゃうから」
「確かに疲れるね。俺もうへとへとだもん」
瀧くんは、先週会った時よりも、少し日焼けしたようだ。彼みたいな人は、大学生の夏を仲間と共に後悔ないくらいに思い切り楽しんで、将来、子どもに夏の楽しさを教えてあげてほしい。そういう人生が似合う。
「ちょっと桃と一緒に休むわ」
「そうしよ」
私は、またビールを飲んだ。瀧くんも飲んだ。雲が太陽を隠し、少し暗くなった。
一口ずつ、ゆっくり飲んだ。瀧くんも飲んだ。
雲が太陽を通過し、再び太陽の明るさがビーチに戻った。
「夏だね」
瀧くんが呟いた。
「夏だねえ」
私はゆったりした気持ちになって答えた。
「桃、夏休み何か予定あるの?」
「特に大きなものはないなー。帰省くらい」
「おお、地元どこだっけ?」
「静岡」
「近い、ってかここじゃん」
瀧くんは砂浜に足を投げ出して、私を見る。
「うん、ここから電車で一時間くらい」
「すぐ帰れそうでいいね、今度連れてってよ」
「え、いいよ」
「やった」
と言って瀧くんは片手で小さくガッツポーズをする。
あれ、瀧くんってこんな軽い調子だったっけ。もっと誠実に話すイメージがあった。でも、夏の海のイケメンである瀧くんは、軽いくらいだともっとかっこよく見えるなあ、と思った。なんだか私の気持ちはうきうきした。
男の子たちが海から瀧くんを呼び、瀧くんはあと飲んでいいよと言って、私にビールを半分以上残して走っていった。私のビールもまだかなりあるというのに、これでは一人で長い時間海を見つめながら飲むことになってしまう。きっと私はにやにやし始めるだろう。まあそれも楽しそうなので、一人で飲み続けることにした。
海と人を眺めながらゆっくりと飲み、たまに仲間がやってきて声をかけてくれて、去っていってまた一人で飲む。海は、見飽きることがない。
二本のビールは、空になった。私はいい気持ちで、スマホから夏用のプレイリストを流して、小さく揺れていた。水着にパーカーを羽織った格好で、楽な体制をとった私は、だんだんと眠くなってきた。海を前にして眠りに落ちることができるなんて。なんて素晴らしいんだろう。
目が覚めると、海で遊び疲れた皆が周りで好きに喋っていた。私が起きたのに気づいた瀧くんが笑いかける。私は少し照れて微笑み返す。灼けた肌がひりひりとしてきていた。
夜ご飯は海鮮丼を皆でおいしいおいしいと言って食べて、花火を見て、車に乗り込んだ。疲れて眠っている人もいた。隣同士の席の私と沙里は、今日撮った写真を見せ合ってくすくすと笑った。
帰りの車の中の暗闇と倦怠感と充足感には、幸福が満ちている。私の他にそれを感じている人がいるといいなと、高速道路を走る車の窓から思った。
雨の日だ。私はあまり天気予報を見ないで行動してしまうのだが、喫茶店に行く日は雨が降ることが多い。それも、着いてから降り始める。当然傘を持っていない私は、店から出られなくなる。
一学期の授業の復習をしなければと思い、パソコンを持ってきてカタカタする日にしようと決めていた。コーヒーとアップルパイを注文し、のんびりしてから勉強に取り掛かる。後でゆっくり理解しようと思って時間が経ってしまったところを、わかるまで丁寧に考える。本や教科書をもっと多めに持ってくるべきだったと、いつも後悔する。
隣のテーブルに、サラリーマンが3人、席に着いた。そして、大きな声で、仕事の話をしはじめた。耳障りの良いカタカナを組み合わせて、自分が一番知識、能力、地位が優れているということを互いに示そうとしているようだ。ぎらついていてとても見ていられない。ビジネスに対する貪欲さは時に生々しく、人間が動物であることを私に突きつけるので、同じ人間である私は目を背けたくなるのだ。男が持つ、肉が剥き出しで、血がどくどくと通っているその欲望が、苦手なのだ。それらの対象は、仕事だけではない。あらゆるものに対してだ。それなのだ。私が苦手な男の性質というものは。
ペニスが頭に浮かんでくる。
振り払おうとしたが、彼らの声が聞こえる限り、無理なようだ。さすがにペニスを頭に思い浮かべながら、質の高い勉強はできない。喫茶店を後にした。
雨足は弱まっていたので、傘は買わずに歩いて帰ることにする。勉強の邪魔をされたような気がして腹立たしいが、これは私の問題なので仕方がない。いや、声が大きいサラリーマンたちのせいか。
雨は私を濡らしていく。大丈夫だと思っていたが、数分歩いていると髪が額に張り付くくらいには、濡れてきた。水は、私の体力や思考力を奪う力が強い。早くシャワーを浴びて、洗い流そう。靴下の中に雨が入り込んだから、今すぐに家で脱ぎたい。濡れたトートバッグは、家に着いたら乾かさなければ。
歩くたびに自分が重くなっていく感覚がするが、歩き続けなければ家には着かない。
傘をさして歩く人や、車に乗っている人たちは皆私を惨めだと思っているんじゃないか。恥ずかしい。濡れて、メイクや髪型が崩れ、表情は疲れ、自分が露わになっていく。雨の匂いは、生臭い。
私は、汚いのだろうか。
自分は、自分の嫌悪の対象になるんじゃないか。
涙がこぼれそうになってきたところで。家に着いた。
危ない、気が変になっていた。雨のせいだ。正気を取り戻したと言い聞かせながら、シャワーを浴び、濡れたものを洗濯したり乾かしたりした。一人暮らし三年目。慣れてきたぞ。一通り綺麗になったと思ったところで、ベッドに横になる。
正気は、取り戻せていなかったようだ。
涙が溢れてくる。
たまにあるのだ。こういう時が。自分は生きていていいのだと、胸を張って言えなくなるような時が。そして、なぜそう思うのかをはっきりと説明できないような時が。
誰かに、抱きつきたくてたまらない時が。
私は、恋人がいる安心感を知ってしまっている。私がどんなにだめになってしまっていても、変わらず抱きしめてくれる安心感を知ってしまっている。
少しでも、それに近い感覚がほしい。
助けてほしい。
スマホに手を伸ばしていた。
一時間後、玄関のチャイムが鳴った。
開けると、傘を差した瀧くんが、コンビニの袋を楽しそうに掲げながら立っていた。
「雨の中来てもらって悪いね。ありがとう」
「いや、俺も暇してたから助かったよ。じゃあお邪魔しまーす」
一時間前、瀧くんと連絡を取り、私の家に来てくれることになったのだ。瀧くんには一度、飲み会の帰りに送ってもらったことがあったので、私の家は知っていた。
女の子が男の子を夜に自宅に招くこと。それがどんなことになる可能性を含むかはもちろんわかっている。瀧くんもそうだろう。しかし、私はそれを期待しているわけじゃない。いや、もしかしたら期待しているのかもしれない。とにかく、あまり考えずに、誰かに、より詳細に言うと、男の子に、会いたかったのだ。その先はわからない。
「コンビニで適当に買ってきた、食べよ」
瀧くんの袋からはビールや酎ハイ、スナックやコンビニスイーツまでどんどん出てくる。
「こんなに買ってきてくれたの? ありがとう。いくらだった?」
「いいよそんなの、お邪魔させてもらうわけだし」
瀧くんは本当に面倒臭そうに片手をひらひらと振る。そういえば彼は飲み会でもいつも、多めに払ったり、奢ったりしている。お金のやり取りや計算が好きじゃないんだろうなとは思っていた。
「ありがとう、今度お礼させて。じゃあ今日はパーティーしよっか」
人に会えたのと、いっぱいの食べものを見たのと、パーティーという単語を口にしたことで、私の気分はかなり愉快になっていた。
私たちは飲んで、食べて、テレビを見て笑って、話して、過ごした。瀧くんはやっぱりかっこよくて、一緒にいるのが楽しかった。
三つ目の缶を開けて少しした時、瀧くんが口を開いた。
「そういえばさ、なんで俺と飲みたくなったの? なんかあった?」
〝そういえば〟という言葉を使っているが、ずっと聞きたかったことなのかもしれない。少し空々しい口調と、いつもまっすぐに私を見つめる彼が、私から目線を外していたことから、そう思った。普段は幼い部分や、失敗するところを見せない瀧くんのその様子は、なんだかかわいらしかった。
「雨のせいなのかなんなのかわかんないけど、メンタルのバランス崩しちゃったみたいで。誰かに会わなきゃ死にそうだったの」
酔ってきた私は、正直に答える。
「そっか、そういう時あるよな。まあ俺でよかったらいつでも声かけてよ」
瀧くんの言葉は、何のクセやひっかりもなくて、私の中に入り込むのが簡単だった。この人は私のことが嫌いではない、どちらかというと好きなんだ、という気持ちは、数時間前の私が一番欲していたものだった。
目的を達成した気分になった私は嬉しくなって、お酒をもっと飲んだ。お酒が好きで、強い瀧くんも、もっと飲んだ。へらへらしゃべりながら飲んでいると、甘い気持ちになる。
私は、瀧くんの肩にもたれかかりながらチューハイを飲むことを選んでいた。瀧くんは、私が倒れ込まないように支えてくれる。
「桃大丈夫? お水いる?」
「全然大丈夫! おいしい!」
と言いながら、私の体重は瀧くんにどんどんかかっていった。
お、やば、酔ってた、と気がついた。
瀧くんの顔を見ると、やっぱりかっこいい。
「瀧くん、かっこいいね」
「桃も、かわいいよ」
その言葉は、言われて嬉しい言葉なのだ。当然なのだ。私は、私の可愛さを認められたいのだ。メイクが落ちていても、酔っ払っていても、可愛いって言ってほしいのだ。
胸がぎゅっとする幸福感に襲われ、私は瀧くんに抱き付いた。瀧くんは私を抱きとめた。
顔を上げると、笑みが消えた瀧くんの顔が目の前にあった。
あの、黒々とした眼だった。
そして、唇が強く重なった。
カーテンの隙間から白い光が差し込む。寝返りを打つと、眠っている男の子の顔があった。彼は裸で、もちろん私も裸だった。
そうだった。
頭も少し痛むし、二人で寝ているこの状況を変えようとするのも面倒だし、もっと眠ることにする。裸で寝るのって心地良いな。
そこは、花が咲き乱れ、熟れた果実が木に実をつけ、暖かく香しい空気で充たされていた。遠くに大きな木が二本、どっしりと構えていた。私はそこで背を曲げて歩いた。虫が体についたり、体が泥で汚れたりしたが、気にならなかった。なんの感覚もなかった。言葉もなかった。感情もなかった。私はただ歩いた。そこには、すべてがあった。私はけむくじゃらで、とても汚れていた。視界は低く、狭かった。私は、ただ歩くだけだった。
誰かが動いている気配で目を覚ます。瀧くんがトイレから戻ってきたところだった。
「起こしてごめん、おはよう」
「んーん、おはよう」
私はタオルケットで体を隠し、ゆっくりと起き上がる。今さら恥ずかしがっているのもおかしな話だが、シラフの時に裸やすっぴんを見られることと、行為をしたと認めることは、やや抵抗がある。
しかし、私と瀧くんの間に、以前よりも親密な空気が流れていることをお互いに感じていた。互いの匂いや液体をたっぷりと浴び、自分のものと混じったからだろう。部屋は、二人の匂いで充満しているようだ。
「桃、水のむ? 大丈夫?」
瀧くんは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、コップに注いで渡してくれる。お礼を言って受け取り、ゆっくりと口をつけた。瀧くんはもう一つのコップに注ぎ、勢いよく飲み干した。冷たくて、すっきりと甘い。
静かな、気持ちの良い朝だった。
「瀧くん、朝ごはん食べる? トーストとスープくらいならできるけど」
「食べる。昨日あんな食べたのになんかお腹すいてる」
「オッケー、準備する。テレビでも見てて」
タオルケットで隠しながら急いで下着と服を探し、身につける。Tシャツから首を通す。視界が開けると、いつの間にか瀧くんが私の前に来ていた。
瀧くんは、見たことのない、優しい眼で私を見つめていた。私が首を傾げると、両手で私を強く抱きしめた。顔が大きな胸に押し付けられて、少し痛くて、匂いをいっぱいに吸い込んだ。もう、好きな匂いになっていた。
「ごめん」
瀧くんが私から手を離して言う。
「準備してくるね」
と私は言って、キッチンに向かった。
朝ごはんを誰かと一緒に食べるのは久しぶりだったので、準備をするのは楽しかった。
トーストはいつもより慎重に焼き、多めにバターを塗る。インスタントのスープはほんの少しだけ贅沢なものを選んだ。
キッチンから部屋を見ると、瀧くんは着替えて、スマホを見ていた。だいぶくつろいでいる様子だ。
コーヒーを淹れて、できたものをテーブルに運ぶ。瀧くんはありがとうと言って、姿勢を正した。一緒に「いただきます」をして、ささやかな朝食に手をつける。
「桃はさ、今日何か予定あるの?」
瀧くんがトーストにかぶりつきながら言う。
「特にないよ。瀧くんは?」
「俺もない。ちょっとのんびりしてってもいい?」
いいよと言うと、瀧くんは笑ってありがとうと言った。
私たちは天気の話や、大学の授業の話などをしながら、ゆっくりとした朝食をとった。
食後にはコーヒーを淹れ直し、ソファに座って情報番組をだらだらと観た。
響と付き合っていた時に、幾度となく経験した朝の過ごし方だった。
お昼過ぎに瀧くんは帰った。また二人で飲もう、という約束をして。
蝉が、一日の中で最も元気に鳴いていた。ベッドの上で横になる。早く、シーツを洗わなければ。
体が求める欲望が満たされている状態。とても、快適だ。
空白がないので、何も考えられない。
私の背は曲がり、ただ横になっていた。汚いものにまみれて。
私が眠れない夜、母はいつも甘いホットミルクを作ってくれた。
中学に入るまでは両親と同じ部屋で寝ていたのだが、何故か母は眠っていても、私が眠れないことには必ず気がついた。私は母を起こしたくなくて、身動きを取らずに天井を見つめ、永い夜を過ごす覚悟を決めるのだが、ふと横を見ると母と目が合い、母は微笑むのだ。一人の夜ではなくなったことがその時にわかり、安堵が胸に広がる。
おいで、と口パクで言って起き上がる母に続いて、寝室を出る。
母は眠さを感じさせない動きでホットミルクを作ってくれた。
差し出されたカップをてのひらで包むとじんとして、その感覚が気持ちよかった。私はしばらく口をつけずに、白い表面を見ていた。
母は私の横に座り、たいていは何も言わなかった。私の方も見ていなかった。
そんな時、たまに母の方を見た。
母は、笑っていない時でも、人が笑っている時特有の幸福の優しさを、見た目に感じさせる人だ。柔らかさが綺麗な人だ。
暗がりでも、肌や、髪や、指などの細部に光が宿っているように見えた。不思議だった。そして、その不思議さは、母と生きてきた上で、当たり前にいつもあるものだった。
言葉や、仕草にも、どこかに必ず光があった。その光は、娘の私も近づけないほどに、まばゆかった。
母が作る、甘く温かいミルクは、いつも神聖だった。その夜の深さは、異常だった。
カップが空になると、母と私は手を繋いで寝室に戻る。
私たちは見つめ合い、抱き合った。
母は私が眠るまで、いつまでも背中をさすってくれる。
母の手からは、限りない優しさと、愛情が私に流れ込んできた。
その温かさの中に身を預け、私は現実世界から離れる。
