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【創作大賞2025 応募作品】 『偶然と螺旋の向こう側で』 (2/3)

第6章 二つの月

些細なやりとりの中で、もうひとつの偶然を見つけた。

彼女が飼っていた愛犬の名前が、僕の名前と同じだった。

「あなたの名前を見たり、タイプするたびに、思い出すんです」

犬にはほとんど関心がなかった。
それでも、その一言で、犬への好奇心が生まれた。
頭に浮かんだのは、足元でじゃれついてくる、小さな犬の姿だった。

「同じ名前だったんですね。どんな犬?」

珍しく、彼女の返信はしばらくしてから届いた。
「とても大切で、愛おしい存在でした」

その言葉を見た瞬間、なぜか、胸の奥が微かに痛んだ。

——それから、いくつもの偶然が重なり始めた。

ある日、彼女が送ってきた詩の一節。
『夢は言葉の奥で、ずっと待っている』

その一文を読んだとき、心が揺れた。

その詩集を、僕も持っている。あのイベントの前、会場近くの本屋で偶然見つけて買ったのだ。

彼女は言った。
「その日、イベントの前に寄った本屋で出会いました」

——同じ日、同じ店で。
僕もあの夜、閉店間際の棚から同じ本を手に取っていた。

同じイベントに参加していたのだから、行く場所や見るものが重なっても不思議はない。

けれど、やりとりを重ねるほどに気づく。
過去の記憶と現在の会話が、静かに重なっていくのを。

別々の時間を歩んできたはずなのに、奇妙に似た景色がいくつも浮かび上がる。

たとえば——
彼女が赤坂のカフェでひとり過ごしていた夜、SNSに投稿した半月の写真があった。

その日、僕もまた、出張帰りの東京駅近くで、同じ月を撮っていた。誰にも見せていない、僕だけの写真だった。

「これも偶然だ」と自分に言い聞かせた。

けれど、心の奥で何かが囁く。
——この偶然は、ただの確率ではなく、見えない糸が震える音に近い。

夜空に二つの月が浮かんでいた。

それは現実を映すものではなく、胸の奥に眠る夢の残像だった。

遠く離れていても、その光はかすかに重なり、静かに響き合っていた。

第7章 天井の螺旋

彼女の飼っていた犬を見たくなり、彼女のSNSを辿っていた。

犬の写真は見つからなかった。

けれど、スクロールする指が止まった。
ふと、一枚の写真に心を奪われた。

友人とのランチ写真。最近のものだ。

窓の向こうには、青く澄んだ海と、遠くに並ぶ都心のビル。そして——天井に描かれた、不思議な螺旋模様。

その瞬間、胸の奥が静かに反応した。
——僕も、この螺旋を僕も見上げたことがある。

一年前、よく似た季節の昼下がり。
まったく同じ場所で、この模様を見ていた。

写真の角度からすれば、写真の角度からして、おそらく隣り合ったテーブルだっただろう。

無数の人々が行き交う都市では、この程度の偶然はありふれているはずだ。

妻を失い、感傷に浸った僕の脳が、都合の良い物語を勝手に紡いでいるだけ。

——でも、わかっていた。
整いすぎた世界の隙間で、何かがそっと芽を出している。

場所と時間の狭間から、透明な糸が伸び、僕たちを結んでいる。

第8章 著者名のない本

忘れていた風景が、誰かの記憶とひとつの棚に並ぶことがある。それは、心の奥にある図書館で、ずっと探していた本をふいに見つけるような感覚。

その感覚に導かれ、冬の夜、手がかじかむ感覚の中、深い夢の中で彼女と再び出会った。

ただ、そこにいた彼女は、あの夜の洗練された雰囲気とは少し違っていた。

声の張り、表情の揺れ、未来への期待。
二十歳前後の、どこか荒削りの輝きがあった。

気づけば、僕自身も十九歳の姿になっていた。
妻と初めて出会った頃の僕だ。

場所は古びた図書館の一角。
初めて訪れたはずなのに、胸の奥に懐かしさが沁みていた。

高い天井。
時間が音もなく沈殿する空間。
木の匂いが微かに香り、擦れた背表紙の本が整然と並んでいる。

月明かりがステンドグラスを透かし、床に静かな色の帯を描いていた。

その光の中で、彼女は一冊の本を抱えていた。

僕に気づくと、彼女は穏やかに笑い、視線を向けてきた。

夢の中では、僕は初めて彼女の瞳をまっすぐに見つめることができた。
現実で固まっていた痛みが、静かにほどけていく。

群青色の表紙には、かすかに螺旋模様が浮かんでいた。
そのすり切れた質感が、本の中に流れる時間の深さを物語っていた。

タイトルはこう記されていた——
『この人生を最大限に生きる』

けれど、そのどこにも著者の名前はなかった。

彼女は微笑みながら、静かにページを捲る。
そのたびに、ふっとインクの香りが立ちのぼった。

「この本を読むとね、夢が現実に近寄ってくるの」

その声には、現実で抱えている葛藤が、かすかに混じっていた。

僕は彼女の隣に腰を下ろし、そっと本に手を添えた。
彼女の細い指がページをめくっていく。

それは時を遡っているのか、進んでいるのか、もうわからなかった。

やがて指先の動きが止まった。

ページの途中に、一枚の紙が挟まれていた。
彼女はそれをチラリと見て、微笑みながら僕に差し出す。

僕はそれを受け取った。
初めて、彼女から手渡されたものだった。
その紙には、彼女の指の体温がかすかに宿っていた。

少し滲んだ文字で、こう書かれていた
——『星降る未来』

その言葉を目にした瞬間、胸の奥で、失われた記憶とまだ見ぬ未来が静かに重なった気がした。

流れ星のように儚い出会い。

けれど、その光は、誰にも気づかれないまま、僕たちの上に降り注いでいる。

——星は、消えることで未来を照らす。
そのことを、僕は初めて理解した気がした。

第9章 夢から滲む言葉

スマートフォンの微かな振動で目が覚めた。
まだ夢の中にいた感覚が、指先に残っている。

図書館の匂い。
彼女の指がめくるページの音。
——そして、『星降る未来』の文字。

ベッドの上でしばらく動けなかった。

それが夢だったのか、記憶が形を変えて現れたものなのか、判別がつかない。

スクリーンには、彼女からのメッセージが届いていた。

『今朝、不思議な夢を見ました。
古い図書館に一緒にいました。
そして——何かを読んでいた気がします。

一枚の紙に書かれた、涙で濡れたような文字。
その言葉は忘れてしまいました。
でも、まだ夢の中に置き去りにされている。
なんとかしたいけど、何もできない。
そんな無力感が残っています』

スクリーンをなぞった指先に、夢の中で紙を受け取った感触がふっと蘇る。

夢が、現実の扉を、少しだけ先に開けている。

その微かな隙間から、これから語られるべき言葉たちが、ゆっくりと現実に染み出してくる。

夢の中で見た本。
ページをめくる指の動き。
群青色の表紙に反射する光。

目を閉じると、胸の奥から鮮やかに浮かび上がる。
——もう、それはただの夢の残像ではない。

けれど、このままでは、夢はかたちをなくし、遠くへ漂っていく。その前に、言葉で、今ここに、縫いとめる。

第10章 生まれたもの

夜の静寂は、自分の呼吸の音まで拾い上げていた。

僕はキーボードではなく、紙とペンを手に取った。
理由はなかった。
ただ、「手で書く」という行為が、この夜にはどうしても必要だった。

誰かに何かを説明するためでも、伝えるためでもない。
ただ、内側に残っている何かが、かたちを求めて疼いていた。

言葉は、夢と記憶のあいだから染み出していく。
彼女の声の温度を帯びながら、静かに輪郭をつくっていく。
やがて、夢から零れた言葉が、紙の上に文字となっていった。

星降る夜に立ち止まり
静かに君を想ってた
見えない時の流れの中
答えを探し続けてる

胸に響く遠い記憶
あなたの声が風に揺れる
ふたりで描いた未来が
今も私を導いてる

触れられない願いの先で
螺旋を描く光を見る
重なり合う時の奇跡が
私たちを結びつける

出会うたびに
心が震える
違う空を見上げても
同じ夢を信じている

何度離れても
また巡り会える
約束の光の物語は
永遠の螺旋を描く

3/3に続く
こちらです

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