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40代でライターデビューした母に、子どもが思っていた本音

「”ライター”だって!かっこよくない?!」

母が、「生まれて初めての名刺」を嬉しそうに見せてくれた時のことを、今でも覚えています。その時たしか僕は小学4年生くらい。母は当時40歳くらいで、専業主婦から生まれて初めて正社員として、小さな出版社への就職を決めたのでした。

■40歳を超えて、働く意味

大学卒業後すぐに父と結婚し、一度も正社員として働いたことがなかった母。やがて子育てが始まり、一段落ついたと思ったら今度は祖父母の介護生活へ。こんな風にドタバタと人生を送り、40代にして初めての正社員になりました。

経済的な面では父の稼ぎだけでも成り立つ状態だったと思うのですが、それでも母が「働きたい」と思ったのには、理由があったようです。

子どものころは深く考えていませんでしたが、社会人になってから改めて聞いたことがあります。

「自分の力で稼いでいるという感覚が欲しかった。
大学卒業してから企業で働いていた友達にも、負い目があったんだよね」

就職先に選んだのは、福祉系の小さな出版社でした。確か新聞だったか雑誌だったかに求人票が乗っていて、「これだ」と思ったようです。

インターネットもさほど普及していなかった当時、母は祖父が亡くなるまでの介護生活で起こったことを日記のようにしたためて、ワープロで自作の新聞にして親族に送っていました。当時はまだ「自宅で家族を介護する」というのも一般的ではなかったので、日々の気づきやちょっと笑ってしまう出来事、医療・介護従事者とのハプニングなどを、遠方にいる親族にも知ってもらいたかったようです。

「介護や福祉系の情報を扱う出版社なら、この新聞の価値が分かってもらえるかもしれない」

そう踏んだ母は、未経験ながら出版社に応募。ポートフォリオとして親族向けにつくった自作の新聞を提出し、在宅介護で感じたことや思ったこと、編集者になってやりたいことを訴え、無事内定を勝ち得ました。

今振り返ると、すごいガッツだなと思います。

■かぎっ子になって

そんなこんなで僕は、小学4年生ごろからいわゆる「かぎっ子」になりました。

学校から帰るといつも愛犬とひたすら遊んだり、テレビゲームをして過ごす日々。
外で遊ぶのもそんなに好きじゃなかったし、内向的な性格だったこともあって、家にこもりがちな生活を送るようになりました。やたらとテレビを見るようになり、夕方の報道番組の話題はほぼ熟知。今も安藤優子さんや木村太郎さんを見るとノスタルジックな気持ちになります。ただ、こんなインドアな生活を送っていたのは僕の生来の性格によるところが大きく、たぶん鍵っ子だろうがなかろうが、同じような毎日を過ごしていただろうなという予感はあります。笑

とはいえ、話し相手もおらず、ひたすら犬とばかり話す毎日を送っていたので、母も少しは心配していたようです。残業の日は「おみやげ」といって、マンガを買ってきてくれたり、おやつを買ってきてくれたり。気づけば、本棚はマンガでいっぱいになっていました。

■子供のころの自分にとって「一番嫌だったこと」

ひたすら愛犬に話しかけ、ゲームに向かい、趣味のピアノに没頭し―――「かぎっ子」として過ごす日々が当たり前になり、家で過ごす時間が増えてくると、学校で嫌なことあったときや、誰かに相談したいとき、進路について聞いて欲しいときなど、ふと寂しさがこみあげてくることもありました。

ただ、その寂しさを隠してでも優先させたかったのは、「この子は放っておいても大丈夫だ」と思われることでした。

少年時代の僕にとって一番避けたかったのは、「自分が理由で母が何かをあきらめること」だったのです。

育児や介護で大変そうな姿を目の当たりにしていたし、会社で働けることをとてもうれしそうにしていた母。その様子を近くで見てきたからこそ、僕が理由で仕事を辞めるとか、手加減して働くようになるのが一番嫌でした。

「自分が足かせになりたくない」という気持ちが何よりも大きく、「自律的な子」「ほっといても自分で何とかする子」になろうと意識していました。そのためにできることを考えた結果、母の帰りを待ちながらご飯を炊くようになり、やがて夜ご飯は自分でつくるようになりました。授業参観だったか、保護者の参加が求められる予定にも「来てもいいし、来なくてもいいよ」と話し、自立した・大人びた子供であろうとしていたような記憶があります。今思えば、かわいげはなかったかもしれません。

中学に上がってもこれと言った反抗期もなく、淡々と自分を抑えていた僕。そんな様子に何かを感じたのか、あるとき母から「無理してない?もっと感情的になってもいいんだよ」と言われたこともありました。

無理していると言えば、無理していたのかもしれない。でも、もはやそれに慣れてしまっていた当時、「感情的になっていい」と言われたとてどうしたらいいのかわかりませんでした。これは今だにそうかもしれませんが、生来の性格なのかな?とも思っています。どうなんだろう。

■働く母を見て「うれしかったこと」

そんなこんなで、母が働いている時期は寂しいこともあったけれど、個人的にはそれ以上に「うれしい」と思うこともありました。

「母の初任給」で食べた中華料理。取材で出会ったエピソードを楽しそうに語る姿。職場の愚痴を漏らし、悩みながらも翌日には元気に出社する姿。母が喜ぶかなと思って、見よう見まねでご飯を炊いてみたら、すごく喜ばれたこと。母の誕生日に張り切って作ったチャーハンが油でギトギトになって大失敗したけれど、おいしそうに食べてくれたこと。

正直なところ、できあがった原稿を嬉々として見せられてもテーマ的に少年時代の僕には興味がもてないことが多かったのですが、「仕事の成果が形に残る」というのは子どもにも分かりやすく、家に積み上げられた書籍や原稿は、「母が仕事を頑張っていることの証」でもありました。その事実は、誇らしかったです。

たぶんお給料はあまり高くなく、そんな愚痴を聞いた覚えもあるのですが、子どもとしてはそんなことはあまり重要ではありませんでした。

それ以上に「充実感を持って母が生きている」という感覚が、何よりもうれしかったのです。

残業で夜遅い日、母がご褒美にくれたマンガでいっぱいになった実家の本棚を見ると、当時を思い出します。

古本屋に売ろうかと何度か考えたものの、このぎゅうぎゅう詰めの本棚が自分の少年時代の集大成のような気もして名残惜しいというか、なんというか。なんだか、どうにも処分する気になれません。

■「自分も一緒に頑張っていた感覚」

これは自分でも不思議なのですが、母のキャリアは、少年時代の僕にとって「自分の人生の一部でもあるような感覚」がありました。

単身赴任の期間が長かった父親よりも心理的な距離が近かったからか。就職前からずっと悩む姿や喜ぶ姿を見てきたからか。「二人三脚で頑張っている」みたいな気持ちがどこかにあったというか。母と愛犬と僕という「チームで頑張っている感覚」というのか。

母がよく「頑張ってくれてありがとう」「おかげでこんな仕事ができた」と感謝してくれたことも大きかったような気がします。寂しいこともあったけれど、それ以上にゼロから実績をつくり、のし上がっていく母が誇らしかった。そこに多少なりとも貢献できていることが、嬉しかったのだと思います。

■やってほしかったこと…あるのかな?

以前、共働き世帯の同僚に、僕自身がかぎっ子だったという話をしたところ「寂しくなかったですか?」「親にやってほしかったことはありますか?」と質問されたことがあります。

上述のように、確かに寂しい瞬間はあったような気もします。でも、だからといって「やってほしいことがあったか?」と言われると、具体的には何も思い浮かびません。

「楽しく生きている」というだけでよかったし、それを多少なりとも自分が支えられているのであれば、信じて頼ってくれたことが、トータルで見れば寂しさ以上にうれしかった。

しいて言えば、何気ない瞬間に「いつもお仕事ができるように頑張ってくれて、ありがとう」と言ってもらえたことが、一番報われた瞬間でした。苦労を感じながらも、楽しそうに生きている様子を見せてくれただけで、いろんなメッセージを感じ取っていたのだと思います。

■母の背中が教えてくれたこと

「人生を切り開くためには、自分で決断して、努力することが必要なんだ」。

母の生き方から学んだのは、そんなメッセージでした。
よく「子どもに勉強させたいと思うのなら、親自身が勉強する姿を見せるのが大事」とも言われますが、まさにそんな感じです。

人生の節目において、どれだけ人は悩み、努力しなければならないのかを「背中」から学べましたし、「やればできる」というシンプルなメッセージを、生き方で示してくれたことは、僕のその後の人生にも大きな影響を与えているような気がします。大学受験の時も、社会人になってからも、「努力し続ければきっといいことがある」という漠然とした信念は、母から受け継いだものなのかもしれません。

僕も親になったばかりで、子育てに関して偉そうなことなんてまったくもって言えないのですが、働いていようがいまいが、楽しそうに一生懸命生きてさえいれば、子どもはそこから多くを学びとるものなのかもしれない。そんなふうに思ったりします。

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