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「クワイエットルームにようこそ The Musical」観劇 その日のワタシの流々転々

何年ぶりかの京都。

大好きな松尾スズキさんの作演出に、宮川彬良さんの音楽。
そして大好きな俳優さんたちまみれ…
この舞台、観ない理由はなかった。
SNSで発見して、あっという間にポチったのが昨年12月。
場所は久々の京都。
もう楽しみで仕方なかった!

推しががががが…

からの。

前日からの雪。出張セッションの日の朝から積もってきていた。

京都、これ、いけるんか?

そんな心配もありつつ、家を出る。
面白いことに、出発した神戸は雪が少し積もり、
JRの車窓から眺める大阪はなぜかカラッッカラ。
しかし京都に近づくにつれて、風情ある雪景色に戻り、
デッカい京都駅を通過して、山科駅に降り立つと、
駅のホームにも雪があって。
長めのワンピースを着てきたことに後悔しながら
ただ必死に、その一瞬の景色を閉じ込めたくて
スマホのシャッターを切ってた。

「逆なw」と寝返る地図を頼りに

雪になるとグーグルマップがおかしくなるのか?
言われた道を、雪の残る足下に注意しながら進んでも、
「それ逆なw」と途中で急に寝返るグーグルマップ。

これくらいがええですな

時間のロスもしながら(余裕はあるけど)、
そして昼食によさげなちいさなカフェに
後ろ髪引かれながら、
京都、そぞろ歩き…もとい
京都、前進あるのみ早歩き。
雪化粧した平安神宮も写真に収めるのみにして、
会場に到着。

ここから、ゆっくり昼食を取るには
時間のゆとりはあまりなく。
すぐそばにあるスタバで済ます。
お昼時のスタバ&2階のカフェ。満席。それはそう。

でもまあ、ワタシは朝ご飯も食べてなかったからさ。
(その時気づいた)(必死か)

激寒のテラス席で、うん、まあ、風情風情、心安らかなりと
心に言い聞かせてたら、
6人くらいの外国人ファミリーに囲まれたのもいい思い出。

神戸にもあるやつやけど、心安らかなり


ひとりという許可、マイペースという贅沢

すっかりどっぷりハマっている「ひとり〇〇」。
数年前のひとり映画を皮切りに、ひとり観劇、ひとり旅。
どこに行くにも、「誰かを誘わなきゃなぁ」という
謎の義務感みたいなものも手放して、
「ひとりもよし、誰かと一緒もよし」を
選べるようになった今の自分が、なんだかとても誇らしかった。

こういう時に活きてくるよなって思う。
誰にも相談せずに、自分の気持ちだけでポチって、
雪だ、電車だ、ランチだ、お茶だ…
どれも想定外が起きていた、その日の京都。

突然写真を撮りたくなって、スマホを手に取り、
立ち止まってサクッと撮る。
確かに「雪の京都、いいよね~」と共有できる相手は
いないのはさみしいと感じる。
でもそれはそれ。
マイペースを強化している今。
人に合わせすぎてた過去。
ちょうどいい塩梅は、その時によって違う。
それでいいんだ、楽しいやん。←この許可が今のワタシには必要。


不完全な愛おしさ、これこそ今欲しかった言葉

今回も、自分の席の周りの方々のひとり参戦率が高く、
心が高まる(勝手に)。めっちゃラク。

そして、隣のお姉さまから聞こえる笑い声、拍手…
すごくよかった。ワタシも自分の楽しみ方で気にせずいられる。
それが心地よすぎて、ありがたすぎた。

もちろん作品は最高。
残念ながら、スペシャルカテコ回ではなくて、撮影なし。
カメラロールには残せなかったけれど、
その分、脳内のいちばん深いところに、
劇薬のような記憶をごっそりと流し込んできた。
胸が躍りっぱなしの3時間あまり。

だけど。
幕が下りて、劇場の外に出て、京都の空気を吸い込んだ瞬間、
私の心は「悲喜交々」どころか、
収集がつかないくらいの「流々転々」の中に放り出された。

舞台は、これでもかと「生」を爆発させていた。
物語の舞台が精神病棟、だからなのか。
最近、ワタシ自身に、
生と死に関する体感が多かったからなのか。

随所に笑えるポイントがちりばめられてて、
しっかりまんまと笑っているのに、

生きるって、重くてしんどい…ずっしり。

推しが目の前にいる感激の涙もありながら、
じわっと目の奥からあふれてる涙には
気づいていなかった。
放心状態。
それくらい、ワタシは何かのメッセージを受け取ってる。
なのに、心が忙しくパニクってた。

この物語に触れて、一番大きく心に突き刺さったのは、

「不完全であることや、完璧でない人って、こんなにも愛おしいんだ」
ということ。

100%にはなれないけれど、愛おしい

劇中の彼らは、
およそ「普通」とは呼ばれない場所にいるのかもしれない。
でも、そもそも「普通」を置いておく場所なんて、
人それぞれ違うはずなのに。
なんでワタシたちは、こんなにも苦しくなりながら、
「普通」でないことを「変」として、
切り離したり、時には捨てたり、なかったことにしてしまうんだろう。
「変」だって、「不完全」だって、
必死に、泥臭く、そこに生きてるやん。

生きるを感じて、愛おしい。つくづく。

舞台のこの病院にいる人たちは、
生きることに、不器用に執着を持ちすぎたのか?
出てくるキャラクターひとりひとりに、
生きるという舞台があって、そして苦しんでる。

この「生きる」「不器用」「執着」「過ぎる」
というワードが、ずっと浮かびながら観てた自分。

ハッとした。
それは、彼らへの同情ではなく、
私自身への答え合わせだったから。

音楽をしていたからだろうか。
どこかで「正しい音」があるはずだと信じて、
そこから外れる自分を許せなかった。
執着は、愛の裏返しでもある。
でも、強く握り締めすぎた手の中では、
愛おしいはずの自分も、
理想の「普通」も、形を変えて悲鳴を上げていた。

劇場の彼らが愛おしかったのは、
その握り締めすぎて壊れてしまった「執着の跡」を、
隠さずにさらけ出していたからだと、気づいた。
完璧な和音を奏でることより、
不協和音のまま叫び続けることのほうが、
よっぽど「生」の音がする。
正しいかどうかなんて、いらない。

「生きてるだけでえらいよ」「すごいよ」と
カンタンには言えなくなるのは、きっと、
どこまで行っても、彼らの中には
100パーで入れないから。
愛おしいけど、
その人自身は「愛おしいなんて思えてない」。
完全に外野だから言えることでしかない。

それは、ワタシ自身にも、心を病んだ経験があって
少しそういうフィルターで観劇してるから、
刺さってしまってるんだろうな。

いまもまだ、罠のなかにいる

……そうやって、今この文章を打ちながら、驚くほど涙が止まらない。
自分でもびっくりするくらい、感情がまとまってくれない。

あんなに舞台の上の
「不完全さ」を愛おしい、素敵だと思えたのに。
いざ自分のこととなると、どうしてこうも許せないんだろう。
不完全な自分、完璧じゃない自分を、
必死に「正そう」として、「正解」ばかり追いかけ、
結局、自分自身を壊すまで追い込んでしまったりする。

「不完全でいいんだよ」と他人には言えるのに、
自分にはなぜか言えない。 そのしんどさ。その呪縛。

ずっとそうだったし、今もまだ、それを完全に手放せてはいない。
(あ、今のこの「手放せてない」って思っちゃうところ自体が、
もう完璧主義の罠なんだけど……)

だから、といってはなんだけど、
駅までの徒歩帰り道は熱が冷めなくて…。

魂はまだ劇場の椅子に座ったままなのに、
足元だけは帰宅ラッシュという現実に向かって
せっせと早歩きを刻んでいる。
この、体と心のチグハグささえも、
なんだかひどく人間らしくて、クスッとする。
だけど、そんな文学的にクスッとしてる場合じゃなかった。
リアルに京都土産を買い忘れてたのだから。

今週末には、神戸でまた別のお芝居を観に行く。
その名も「流々転々」。
まさに今のワタシの心そのものみたいなタイトル。
内容は全然違うんだけどね。

結局、この文章、まとまらない笑。

数日経った今もまだ、
あの時の涙の意味さえうまく説明できない。
でも、この「流々転々」としている心の揺れこそが、
飾らない、ワタシの中から滲み出た
本当の「叫び」なのかなと、ちょっと思えてきたり。

不完全なままの私で、この余韻に溺れていたい。
今はただ、そう思うのです。

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