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ヌフシャトー(Neufchâteau)と大きな問題点

ルート

パリからのルートは、パリからナンシーまでTGVで1時間半くらい、ナンシーからヌフシャトーという小さな町まで50分くらいの電車で向かいます。
ヌフシャトーはドンレミの南約10キロくらいに位置する街です。ナンシーからヌフシャトーはバスを使う方法もあります。

聖ニコラ教会(wikiより)

ジャンヌ・ダルク関連の出来事としては、1428年7月、ドンレミ村が野盗に襲われた際に、疎開してきたことが挙げられます。
まずは、ヌフシャトーとジャンヌに関する証言を纏めてみましょう。

〇処刑裁判での証言

予備審理2月22日 ジャンヌの証言
襲撃を恐れてヌフシャトーの街に疎開した。ラ・ルースの家におよそ15日滞在した。父の家(おそらく誤記、文脈から考えてもラ・ルースの家)にいる時は家事に励み、羊や他の家畜を連れていくことはなかった。
尋問者の問:「毎年告解に行っていましたか?」に対して
ジャンヌ:はい、自分の村の司祭(教区司祭)に(告白を)していました。その司祭の都合がつかない時は、別の司祭にしました。
また、2、3回だったと思いますが、托鉢修道会の修道士に告白したこともあります。それはヌフシャトーでのことでした。聖体拝領は復活祭(イースター)の時に受けていました。
※後半がヌフシャトー疎開時の告解についての証言。不便な疎開先でも欠かさず告解していた事を証言している。

〇復権裁判での証言

ジェラルダン・デピナル(Gérardin d'Épinal) ドンレミに住む農夫、約60歳
ジャンヌが問題の時期(ドンレミ村からの疎開時)にヌーシャトーにしばらく滞在し、後にヴォークルールの市長となる兄のジャン・ダルク(4)と一緒にいたようだと述べた。彼女は父親の家畜の世話をしていたが、彼女の言う通り、そこに留まるのは辛かったため、家族の家を出た。それ以外は何も知らない。
エティエンヌ・ド・シオンヌ(Etienne de Syonne)
武装集団の襲撃があった際、このジャンネット(ジャンヌ)はヌフシャトーにある『ラ・ルース』と呼ばれる誠実な女性の家へ行ったと、多くの者から聞いた。彼女は常に父親や、同じくそこへ避難していた村の他の者たちと一緒にいた、とのことである。」 ※つまり、おそらく村全体がヌフシャトーへ避難したのだということが理解できる。襲撃に対しての人的被害の証言が無い事もそれを裏付けしている。
オーヴィエット(
Hauviette)
ジャンネット(ジャンヌ)がヌフシャトーへ行った時のことである。私は、彼女がそこでは常に父や母と一緒にいたことを誓って証言できる。私自身も当時ヌフシャトーにおり、彼女の姿を絶えず目にしていたからだ。

以上の事からジャンヌは父母を含む家族、村人達と共に疎開し、半月程生活していた事が解ります。
後にこの時期の生活が乱れていれば有罪の材料になると尋問が入りましたが当時のジャンヌの発言や過去の周囲の人の証言が全てその疑いを否定しています。

疎開先としてヴォークルールではなくこの村が選ばれたのは、前線からヴォークルールより遠いから、守りが固くより安全だから、などの理由があると考えられています。

聖ニコラ教会(観光サイトより)

大きな問題点

この町はとても古い歴史があり、観光サイトやグーグルマップで見る限り非常に美しく、街歩きにも適していると思います。
ジャンヌファンにとってもヌフシャトー逗留は大事なテーマであり、見逃すには勿体ない場所です。

しかし、この町には大きすぎる欠点があります。

ドンレミ村に近すぎます!!
ジャンヌ・ファンにとっての聖地であるドンレミ村があと10キロという所で、ゆっくり観光などしている心の余裕はありません。
一刻でも早く、一秒だって長く、ドンレミ村に行きたい・・・ジャンヌファンなら大抵そう思うはずです。

そんな自分勝手な理由で、実は私もヌフシャトーは経由地としていつも通り過ぎてしまうのです。
電車待ちにご飯を食べるのに1時間半ほど滞在したことが有るくらいです。
ああ、時間がたっぷりあればここも見て回れるのですが・・・

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