ジャンヌの生誕日について
ジャンヌ・ダルクの生誕日は日本語版のwikiでも1412年1月6日とされています。
しかし、この生誕日に関しては異説もあります。
今回はこの生誕日について考えてみたいと思います。
なぜジャンヌ・ダルクの生誕日は「1412年1月6日」になったのか
ジャンヌ・ダルクの生誕日(1412年1月6日)について、コレット・ボーヌ、ゲルト・クルマイヒ、レジーヌ・ペルヌーらの専門家は口を揃えてその不確かさを述べています。その起源についてまとめてみます。
・処刑裁判時のジャンヌ本人の証言
1431年の処刑裁判において、ジャンヌ本人が自分の歳をこう述べています。
「19歳だと思う。」と(高山一彦訳『処刑裁判』)
当時の農村の平民においては、正確な年齢を把握している事は珍しい事でした。
歴史家のコレット・ボーヌは、その著書『幻想のジャンヌ・ダルク』の中で、復権裁判時の証言を例に「ドンレミ村民で自分の年齢を端数(1の位)まで正確に述べる事が出来たのは少数であった」と指摘しています。
少し細かい所を指摘します。
処刑裁判時のジャンヌは10代の少女だったのに対し、復権裁判におけるドンレミ村民の証言はその25年後であり、彼らの年齢は若くても40代半ばでした。
この年齢の違いを考慮すれば、「1の位の重要性」が同じであるとは考えにくいです。事実、ジャンヌと同年齢(特に親しくしていた)村民たちの証言を精査すると、ほとんど1の位まで答えています。
そこから考えると彼女たちが何らかの基準や実感を持って「19」という端数の年齢を把握していたことは、当時としても決して不自然なことではないと思います。
それであっても具体的に19歳という年齢を出してきた訳ですから、「だと思う」が付いたとしても、その生誕は1412年±1の幅に収まるのが自然と思います。
・ジャンヌの幼馴染オーヴィエットの証言の矛盾
復権裁判時の証言の中、特に年齢関係で注目されるのはジャンヌの幼馴染オーヴィエットの証言です。
オーヴィエットは1456年の復権裁判で自分はほぼ45歳(1411年頃生まれ)とした上で「ジャンヌは私より三、四歳年上でした。」と話しています。その言葉の通りとするとジャンヌは1407~1408年生まれ、処刑裁判時23~24歳となります。しかし、ジャンヌ本人の証言は19歳くらいであり、周囲の人物のジャンヌの印象も10代後半という証言が複数残っています。オーヴィエットが自身の年齢を勘違いしていると考える方が自然でしょう。処刑裁判から25年後、オーヴィエットが40代の時期の証言で有り無理もないと思います。
しかし、この証言はジャンヌ私生児説の根拠として引用されることがあります。
・ジャンヌ私生児説
ジャンヌ私生児説とは、ジャンヌがオルレアン公ルイと王妃イザボーの私生児として1407年に生まれたとする説です。
ジャンヌに王族の血が流れている出身とするロマン豊かな説ですが、上記のように年齢や外見の面やその他の証言と大きく矛盾している為、主流の線ではありません。ただ、オーヴィエットの証言はこの説と合致するので、よくこの説の根拠とされます。しかし、他の証言との矛盾やオーヴィエット40代の証言を考えるとやはりオーヴィエットの勘違いの線が最も可能性の高い線と思います。
・生誕日1月6日の由来について
問題はこちらの誕生日についてです。
ゲルト・クルマイヒの「ジャンヌ・ダルク 預言者・戦士・聖女」によると1月6日の由来はシャルル7世の側近ブランヴィリエが、イタリアのミラノ公に向けて書いた外交書簡によるとあります。
ジュール・キシュラ編の『ジャンヌ・ダルク処刑裁判・復権裁判記録』5巻にその全文が記載されています。参考記事:ブランヴィリエからミラノ公への手紙

内容はプロパガンダ的なものになっており、前半はジャンヌの聖女性を誇張し後半はその快進撃について書かれています。手紙が出されたのはジャンヌがオルレアンを解放しパテの戦いで勝利した直後となっています。王太子側としてはジャンヌの聖女性を国外にアピールし、自分たちが神様の意向に沿っていると知らしめる必要があったのでしょう。※ここでゲルト・クルマイヒ(訳:加藤玄)は手紙が書かれていたのを5月としていますがこれは誤りでしょう。手紙の中身はオルレアンの勝利からパテの戦い(6/18)の結果までが記載されています。ミスが原典か翻訳によるものかは不明です。
生誕日の1月6日の部分はその中の以下の部分です。
主の公現祭の夜、人々がキリストの行い(降誕)を思い起こすのが常であるその夜に、彼女はこの世の光の中に生を受けました。その時(驚くべきことに!)、その地のすべての民衆は計り知れない喜びに包まれ、少女の誕生を知らないまま、何が新しい出来事として起きたのかを探し求めてあちこち走り回りました。多くの者の心には、新たな喜びが宿っていたのです。それだけではありません。雄鶏たちが、まるで新しい喜びの先触れであるかのように、普段とは違う聞いたこともないような鳴き声を上げ、翼で体を打ちながら、およそ2時間にわたって新しい事態の到来を予言しているかのようでした。
この公現祭とはイエス・キリストの顕現を記念する祝日で、カトリックでは一般的に1月6日に祝われます。ジャンヌを東方の三博士になぞらえ、シャルル7世を救世主として、そこに予言を与えに行くストーリーを想起させています。
そうすると1月6日という日付もジャンヌの聖性をアピールする為の捏造ではないか?と怪しまれているのが実際の所です。
ただ、ジャンヌの誕生日について述べた資料は他に一切無く、他にないから1月6日が公的な生誕日として広く使われるようになったのです。
ジャンヌの証言の矛盾
ジャンヌは、自身の年齢に関する証言を3つ残しています。
A、1431年2月21日(第1回公開審問):年齢についての供述
「私は19歳くらいだと思います。
B、1431年2月22日(第2回公開審問):「声」が初めて聞こえた時の事
13歳の夏の日に初めて「声」を聞きました。
C、1431年2月27日(第4回審理):「声」が聞こえてからの年月
「声」が自分を命ずるままに行動させるようになってから7年も経っている。
少し考えたたら解る事ですが、この3つの証言は矛盾しています。(13歳の時に「声」を初めて聞いて、そこから7年経てば20歳になります。)
従って、彼女の証言のどれかは確実に間違っています。
例えば、Bはもしかしたら彼女の体が大人になった時期を「13歳くらい」と表現したのかもしれません。
残念ながら、そこを精査する材料はありませんでした。
ただ、この証言中での中でCの「声を聞いてからの年月」は私の中で少し引っかかりがあります。
Aの産まれた年月日は当人では如何ともし難く、よってBの13歳も当然曖昧になります。
Cの「7年」だけはジャンヌが具体的にカウント出来る数字です。
ジャンヌは「声」を聞いたと自覚しても最初は非常に恐ろしく感じ、旅立ちの日の1428年までに3年程度の時間が開いています。
彼女は、その「声」の自覚に急かされながら、自身が役目を果たせずにいる日々を指折りながら数えていたのかもしれません。
10代の少女にそうさせてしまう当時の世情と信仰、そして彼女の内面が少し垣間見えてきそうに思います。
だからこそ、自分の年齢は『19歳くらい』と曖昧でも、『声が私を導き始めてから7年になる』という年月だけは裁判の前でぼやかす事無く断言できたのではないでしょうか?
【参考文献・史料一覧】
高山一彦 編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社)
高山一彦 編訳『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社)
ジュール・キシュラ 編『ジャンヌ・ダルク処刑裁判・復権裁判記録』第5巻(Procès de condamnation et de réhabilitation de Jeanne d'Arc, Jules Quicherat, Paris, 1841-1849)
コレット・ボーヌ 著(阿河雄二郎ほか訳)『幻想のジャンヌ・ダルク:中世の想像力と社会』(昭和堂)
ゲルト・クルマイヒ 著(加藤玄監訳、小林繁子ほか訳)『ジャンヌ・ダルク 預言者・戦士・聖女』(みすず書房)
レジーヌ・ペルヌー 、マリー・ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(白水社文庫)
