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シャルル7世はジャンヌ・ダルクを見捨てたのか?

シャルル7世は、ジャンヌが戴冠を手助けしてフランスの王位に就いた人物、つまりフランスの王様です。
ジャンヌの登場以前はパリを含むイル・ド・フランスも失い、追い詰められた状況でした。その後ジャンヌ・ダルクの登場を経てオルレアンを解放し、ランスで戴冠式を行ってフランスの正式な王として認められていきます。

彼はしばしば、「ジャンヌ・ダルクを見捨てた恩知らずの王」と表現され続けています。私もそういうイメージを強く持っていました。
ここではコンピエーニュでジャンヌが捉えられてから彼女がの周囲の動きを、私の知る範囲でまとめてみたいと思います。


登場人物紹介

〇ブルゴーニュ派
ジャン・ド・リュクサンブール
彼の部下がジャンヌ・ダルクを捕虜とした。奥さんの名前はジャンヌ、奥さんの連れ子の名前もジャンヌ。
ブルゴーニュ公(フィリップ善良公)
ブルゴーニュ公フィリップ3世。↑のジャン・ド・リュクサンブールの上司。善良なイメージはあまり無い。
ピエール・コーション
ランスとボーヴェの司教だったがジャンヌの活躍によりランスを追われて逃げ延びる。以来ジャンヌに恨みを持ったと言われている。パリ大学の要職にもついている。ジャンヌの刑死に向かってもっとも精力的に動いた人物。

〇王太子派
シャルル7世

ランスで戴冠式を行ったフランス王。フランス中興の祖でありながらジャンヌ・ダルクを救わなかった王としてあまり良いイメージが残らない。
ジャンヌ・ダルク
フランスの農村出身、当時19歳(処刑時)。赤色と旗が好き。コンピエーニュの戦いで捕虜になってしまう。
ジル・ド・レ
本名はジル・ド・モンモランシー=ラヴァル。ジャンヌの戦友。ジャンヌの死後は悪逆の限りを尽くし、その後火刑に処される。とされている。
ただ、あの国は目立った活躍をした人が処刑されて財産を没収される流れが結構あるので、本当かどうか私は疑っている。
ラ・イール
本名エティエンヌ・ド・ヴィニョル。傭兵隊長。ジャンヌの戦友。怒りっぽい。教会や信仰にはまるで関心を持ってなかったのに、ジャンヌに厳しく迫られて少し告解をするエピソードが可愛い。
アランソン公
ジャン2世・ド・ヴァロワ。ジャンヌの戦友。
良く捕まってたり投獄されてたり幸が薄いイメージがある。
ジャン・ド・デュノワ
ジャンヌの戦友。シャルル7世と共に育った。

シャルル7世はジャンヌ・ダルクを解放する為に身代金を支払わなかったのか?

シャルル7世がジャンヌを見捨てた、とする論調の中で一番目にするのは「当時の戦争は捕虜になっても身代金を支払ったらすぐ解放された。シャルル7世は彼女を解放する為の身代金を惜しんだのだ。」という論調です。それは事実なのでしょうか?

ジャンヌ・ダルクを捕虜にしたのは、ブルゴーニュ派のジャン・ド・リュクサンブールです。彼はジャンヌがフランス軍に奪還されるのを恐れて約70㎞北方のボールヴォワールへ移動します。(このあたりはとても興味深いので別記事に詳しく書きたいと思います。)
ジャンヌが捕虜になった3日後には、パリ大学から彼女の身柄の引き渡し要求があります。パリ大学とありますがそれはピエール・コーションからの要求です。彼はイングランドの意図で動いています。イングランドはジャンヌを必ず刑死させる方針でしたし、それはピエールの復讐心を満足させる物だったことでしょう。
彼は、ブルゴーニュ公とジャン・ド・リュクサンブールにジャンヌをフランス側に渡さないように強く要請(脅迫)しています。
「当時の戦争捕虜は金銭によって変換されるのが一般的であり、それを行わなかったのだからシャルル7世はジャンヌを見殺しにしたのだ。」
という論調がよくあります。ジャンヌはブルゴーニュ派に捕虜になったのでフランス側はこのブルゴーニュ公とジャン・ド・リュクサンブールと交渉しないといけません。しかし、ブルゴーニュ派は政治的にも経済的にもイングランドと強い結びつきがありました。ただ金銭の金額のみで判断できるものではありません。ジャンヌを解放する事はブルゴーニュ派自体のイングランドへの裏切りを意味します。ピエール・コーションはこの時期に何度もジャン・ド・リュクサンブールを訪ねています。彼らの意図を確かめる意図があったのでしょう。交渉の余地は殆ど無かったものと思われます。

補足:百年戦争中に捕虜になった人の事例

  • 1356年9月19日、ジャン善良公はポワティエの戦いで敗北し捕虜となりました。交渉の結果、当時としては天文学的な額であった100万クローネの身代金を支払ってようやく釈放された。帰国後、1360年12月5日、彼はイングランドへの支払いのためフランを発行しました。

  • アジャンクールの戦いで捕らえられたシャルル・ドルレアンは牢獄に25年間収監された。彼が釈放されるのに22万ポンド(レジーヌ・ペルヌーによれば11万ポンド)という天文学的な金額が必要でした。彼はシャルル7世の従兄弟でした

  • ジャン2世・ル・マングル元帥(通称ブシコー)はアジャンクールで捕らえられ、捕虜のまま死亡しました。イングランドは彼の釈放を拒否し続けました。

百年戦争中に捕虜を解放するのはそれほど簡単なことでは無かったことがわかります。

ジャンヌ・ダルクを解放する為に軍事的なオプションは取りえなかったのか?

交渉以外の選択肢としてフランス側がジャンヌを救う為の行動はとっていなかったのでしょうか?

1430年5月23日、コンピエーニュでジャンヌが捕らわれてから、ブルゴーニュ派は彼女を奪還されない為にすぐに後方に移送します。その後クレロワ、ボーリュ=レ=フォンテーヌ、ボールヴォワール、アラス、ル・クロトワ、サン=ヴァレリー、ディエップ、ルーアンというルートでルーアンまで移送されます。

コンピエーニュ後のジャンヌの移送ルート

これはフランス軍の行動を強く警戒していた物と思われます。
では、フランス側はどのように行動していたのでしょうか?
ジャンヌの戦友たちの当時の行動を調べると、ルーアン近くの町ルビエでの滞在、行動が見えてきます。

ルビエとルーアンの距離

ジャンド・デュノワ、ラ・イール、ジル・ド・レがルーアン近郊のルビエに滞在しています。
フランス軍のこの近郊での動きを時系列にしてみます。

1429年12月、ラ・イールはルーヴィエの町をイングランド軍から奪取。町はルーアンからわずか28km。
1430年5月23日、コンピエーニュでジャンヌが捕らわれる
1430年12月23日、ジャンヌがルーアンに移送される
1430年12月26日、ジル・ド・レがルビエでラ・イルに合流。しばらくこの地域に滞在。彼は「鞍と手綱を付けた」馬モローを260エキュで購入した領収書が残っている。この馬は従者ミシェル・マシュフェールのために購入された。ジャン・ド・デュノワもルビエでラ・イールに合流。
1431年3月14日、ジャン・ド・デュノワはシャルル7世が1431年3月12日に命じた3,000リーブルの領収書を受け取った。2,000リーブルはデュノワ率いる「武装兵」を輸送するためのもので、残りもルビエ近郊への輸送費。
このあたりで軍事的な動きがあったことを示唆している。
1431年4月13日、イギリス軍は都市の奪還を試みたが、撃退された。
1431年5月30日、ジャンヌ火刑。
8月中旬、イギリス軍はルビィエにおいてフランス軍に対し大規模な攻勢を開始しフランス軍は敗北。ラ・イールも捕虜に。

彼らの動きやその後の戦いの結果を見ると、フランス軍もこの地域で軍事的な動きはあった、しかし、その後敗北した事から見ても解るように戦力的に十分では無く行動を起こせる状況には無かったと考える方が自然に思います。ルーアンも堅牢な都市です。ジャンヌを救う為に短い期間でその都市を包囲、陥落させて無事に解放するというのは余りに危険で無謀な軍事作戦になったことでしょう。

まとめ

以上から考えてシャルル7世にジャンヌ・ダルクを解放する為の選択肢は恐らく無かった物と考えます。ジャンヌの戦友達が前線に集まって実際に兵が動いている事からも、隙があればなんとかしたい、と思っていたのでは無いでしょうか?
しかし、政治的、軍事的両面でそれは叶わなかったのであろうと思います。
見捨てる、というのは救える選択肢があって、それをしなかったという事ですから、私はシャルル7世がジャンヌ・ダルクを見捨てたというのは違うと思うに至りました。
ただし、ランス解放後からコンピエーニュに至るまでの経緯についてはまだ勉強が足らず少し疑問が残っており、保留としておきたいと思います。

解らない事

・ランスからコンピエーニュに至る、ジャンヌ・ダルクの扱いは妥当だったのか?

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