貴婦人の樹と熱病の泉について
ジャンヌ・ダルクが誕生し生まれ育った家から1.6km程度の場所に貴婦人の樹と呼ばれる場所があります。場所としてはボワ・シュヌ教会(Basilique du Bois-Chenu)のすぐ近くになります。

今は数本の木が生えているだけです。当時はカシワの木がもっとあったはずなのですが、今はカシワの木は残っていないようです。

この樹の下には当時、妖精達が集まると信じられていました。
また、そこには美しい泉が湧いていて、その水は万病に効く、と信じられて来ました。
子供の頃のジャンヌの遊び場のひとつであり、大人になってから処刑裁判の焦点のひとつになった所でもあります。
ピクニックにきた家族連れの方がちらほらいるような、とてものどかな場所です。

私が訪れた時は全然水量が無く、ちょろちょろ程度でした。
前日の雨量などにも寄ると思います。

ボワ・シュヌ教会とほど近いこの貴婦人の樹と泉は、処刑裁判・復権裁判のひとつの焦点となりました。
当時ここには大きなブナの樹があり、水が湧き出していました。
ここには、熱に苦しむ患者達がこの水によって癒されるという伝説があり、治療を求める人々が訪れていました。
キリスト教伝来よりも過去の伝説、神秘として地元に愛され、ここには妖精の女性が現れるとされていました。

当時は樹が残っていたかのでしょうか?
妖精信仰は異端であり、彼女を有罪にしたい者にとって見逃せない点でした。処刑・復権両裁判にはたくさんの証言が出て張ます。
ここからは少しその証言達を纏めてみましょう。
処刑裁判
1431年2月24日異端の第3回公開審問
ジャンヌは尋問者のジャン・ボーペール師からの質問に対し、樹の別名(妖精の樹)や、そこで少女たちが遊び、花冠を作っていたこと、そして近くの泉に熱病(fièvre)の人が癒しを求めて来ていたことなどを証言しました。
またこの時ジャンヌはこの樹がピエール・ド・ブールモン氏の所有であった、と証言しています。
復権裁判
※抜き出したら長くなりました。読み飛ばして頂いてもかまいません。
ジャン・モレル(代父)(1456年1月28日)
昔聞いた話では、女性や超自然的な存在は妖精と呼ばれ、この木の下で踊っていたそうです。しかしヨハネによる福音書が朗読された後は、もうそこへ行かなくなったと言われています。今でもレタレの日曜日(四旬節第4主日、この地方では「泉の日曜日」と呼ばれる)や春夏の祝祭日には、ドンレミの若い少女や若い男性たちがこの木の下で踊ります。時にはそこで昼食をとることもあります。帰り道には村の近くの雨の泉へ行き、歩きながら歌い、水を飲み、花を集めて楽しみます。ジャンヌも時々他の少女たちと一緒にそこへ行き、他の人たちと同じようにしていました。ジャンヌが一人で、あるいは他の理由でこの木や泉に行ったことは聞いたことがなく、ただ他の人たちと同じように散歩したり楽しんだりするためだけでした。
ドミニク・ジェイコブ (1456年1月29日)
その木は一般的に「貴婦人の樹」と呼ばれていました。レタレの日曜日、ここでは泉の日曜日、あるいは春の時期には、ドンレミの乙女や子供たち、若者たちがこの木に集まり歌い、パンを持って行きます。戻ると雨の泉へ行き、パンを食べ、水を飲みます。そして散歩を楽しみます。彼はジャンヌが若い少女たちと一緒にそこへ行くのを見ており、彼女も他の人たちと同じようにしていました。この木は驚くほど美しい外観をしており、若い少女や子供たちは喜んでその木の下で踊ったと証言しています。
ベアトリーヌ(代母) (1456年1月29日)
その木は「貴婦人の樹」と呼ばれていました。証人は村の領主たちとその妻たちと一緒に、その美しさを楽しみながら歩いて行ったことがあります。この木はヌフシャトーへ向かう主要道路の脇にありました。昔は妖精と呼ばれる女性たちがこの木の下に行ったと聞きましたが、罪のためにもう行かなくなったといいます。ドンレミの若者たちはレタレの日曜日(泉の日曜日)や春になるとこの木へ行き、ジャンヌも一緒に行って木の下で歌い、合唱し、朝食をとりました。帰りには熱病の泉へ行き、その水を飲みました。昇天の前夜には司祭が十字架を畑で運ぶとき、この木の下に立ち寄り、そこで福音を歌い、雨の泉や他の泉でも歌いました。
ジャネット・ロワイエ(代母) (1456年1月29日)
その木は「貴婦人の樹」と呼ばれていました。ドンレミ村の領主たちの妻たちがこの木の下を散歩していたと聞きました。村の領主ジャン・ド・ブールモンの妻、カトリーヌ・ド・ラ・ロッシュ夫人も若い女性たちと一緒にそこへ歩いて行ったそうです。ドンレミの若い男女たちは春や泉の日曜日にこの木の下へ行き、歌い踊り、パンを持って食事をし、その後雨の泉へ行き水を飲みました。ジャンヌも他の少女たちと一緒にそこへ行きましたが、彼女が他の理由でこの木の下へ行ったことは見たり聞いたりしたことがありません。
ジャン・モーエン(隣人) (1456年1月29日)
その木は森の近くにあり、ヌーフシャトーへ向かう主要道路の脇にあります。村の若者たちは毎年、泉の日曜日にこの木の下を散歩し、そこで楽しい朝食をとり、この木の近くの泉で水を飲みます。
ジャネット(代母)(1456年1月29日)
この木は「貴婦人の樹」と呼ばれています。これはかつて、騎士でありブルルモンの領主であるピエール・グラニエ卿がこの木の下で妖精の女性に会い、二人で話したと言われています。ドンレミの領主や貴婦人たち、そしてピエール・ド・ブールモンの妻であるベアトリース夫人は若い女性たちと共に、領主自身も時折この木のもとへ歩いて行ったと言われています。村の若い少女や若い男性たちは毎年、レタレの日曜日にそこへ歩き、朝食をとり踊り、熱病の泉で水を飲みました。ジャンヌが行ったかどうかは覚えていません。このジャネットがこの木で中傷されたとは聞いたことがありません。
テヴナン・ル・ロワイエ(1456年1月29日)
かつてドンレミ村の領主や貴婦人たち、例えばピエール・ド・ブールモン卿とその妻、他の使用人や若い女性たちがこの木の下を散歩していたと聞いています。今でも村の若い娘たちや若い男性たちは泉の日曜日や春の時期にこの木の下に小さなパンを持って行き、歩き、食べ、踊り、巡りをしています。ジャンヌも彼らと一緒に行きました。ジャンヌがこの木に一人で、あるいは他の理由で行ったという話は聞いたことがありません。
ジャキエ・ド・サン・アマン (1456年1月29日)
領主や村の女性たちはよくこの木の下を散歩していました。今日でも村の若い少女や男性たちは春夏や泉の日にこの木の下へ行き、パンを持って食べたり散歩に出かけたりします。若い頃、ジャンヌも指定された日に少女たちと一緒にこの木のところを散歩していました。
ベルトラン・ラクロップ (1456年1月29日)
「貴婦人の樹」と呼ばれる木はブナで、とても曲がっています。昔は妖精(フェアリー)がそこへ行ったと言われていましたが、その姿を見たり聞いたりしたことはありませんでした。春や泉の日には村の若い少女や男性たちがジャンヌを含めてこの木や近くの泉へ行き、そこで食事をする習慣がありました。ジャンヌが一人でこの木へ行ったことは聞いたことがありません。
ペラン・ドラピエール(教会の役員) 1456年1月29日
その木は「貴婦人の樹」と呼ばれていました。彼は村の女性を見ました。彼女はピエール・ド・ブールモン卿の妻であり、その領主の母で、時折この木のところへ散歩に来ました。彼女たちは村から若い女性や娘たちを連れて行き、卵入りのパンとワインを持っていました。春とレタレの日曜日、泉の日曜日には、村の乙女や若者たちはこの木と泉のところへ行くのが習慣でした。彼らは小さなパンを持ってこの木の下で食べ、周りを歩きながら歌いました。ジャンヌも若い頃、村の少女たちと一緒に時々そこへ行き、木や雨の泉まで散歩していました。
ジェラール・ギユメット(幼馴染) 1456年1月30日
この木はよく「妖精の木」と呼ばれていました。かつてドンレミの領主の女性たちは若い女性や侍女たちと一緒にこの木の下を歩くのが習慣でした。レタレの日曜日、泉の日曜日には、ドンレミの若い少女や若い男性たちが時折そこへ行き、泉を作ったり散歩したりしました。彼らはパンを持ってきてそこで食べ、雨の泉へ戻って水を飲みました。彼はかつてジャンヌが少女たちと一緒にいるのを見ましたが、それ以降は会っていません。
オーヴィエット(幼馴染) 1456年1月30日
この木は古くから「貴婦人の樹」と呼ばれていました。妖精と呼ばれる女性たちがこの木に訪れたと言われていますが、実際に見たという話は聞いたことがありません。村の若い少女や若い男性たちはレタレの日曜日にこの木と雨の泉へ行き、パンを持って行きました。彼女自身もジャンヌや他の少女たちと一緒にそこへ行き、食事をし、散歩し、遊びました。彼女はこの木の周りや泉に運ばれる木の実を見たと証言しています。
ポラック 1456年1月30日
その木は「貴婦人の樹」と呼ばれていました。ドンレミの領主とその妻たちは、この木の下で散歩するのが習慣だったと聞きました。村の若い少女や若い男性たちはレタレの日曜日や春、五月にもこの木の下へ行く習慣がありました。泉の日には「五月の男」を作り、それぞれ小さなパンを持ってきて食事をし、踊り、歌いました。帰りには雨の泉へ行き、水を飲みました。ジャンヌがそこへ行くのを見たことはありませんが、彼女が他の少女たちと一緒に散歩し、食事をしていたと聞きました。
ミシェル・ル・ビュアン 1456年1月31日
その木は「貴婦人の樹」と呼ばれていました。妖精と呼ばれる女性たちがこの木の下に現れたと聞きましたが本当かどうかは分かりません。今はもういません。ドンレミの若い男女たちはレタレの日曜日(泉の日曜日)にそこへ行き、散歩をし、食事をし、遊ぶのが習慣でした。その後、泉へ行き水を飲みました。ジャンヌも子供の頃、他の少女たちと同じようにそこへ行き泉を作りました。しかし彼女が他の理由でそこへ行ったとは思いません。なぜなら彼女はとても良い子だったからです。
キャサリン 1456年1月31日
彼女が知っているのは、若者たちがこの木へ向かって歩いて行ったということだけでした。
ウルシュのアルベール 1456年2月5日
妖精たちは誰も見ていない間にこの木の下に現れたと聞いたことがあります。ジャンヌがそこにいたとは聞いたことがありません。
ニコラ・バイリー 1456年2月6日
ドンレミの若い娘たちは春や夏の祝祭日には木の下へ行く習慣があるとよく聞きます。彼らは散歩をし、花を集めました。ジャンヌも彼らと一緒に行き、他の人たちと同じように行動しました。ある時、村の少女たちが木から嬉しそうに戻ってくるのを見たことがあります。
ベルトラン・ド・プーランジー 1456年2月6日
問題の木を何度も見ました。ジャンヌに出会う前の12年間、そこへ通っていたといいます。ドンレミや近隣の村の若い少女や若い男性たちが夏になるとそこへ行き、散歩しているのを聞いたことがあります。
アンリ・アルノーラン 1456年2月6日
ジャンヌが生まれる前、その木は「貴婦人の樹」と呼ばれていたと聞いたことがあります。彼はよくドンレミへ行きましたが、ジャンヌがこの木へ行ったとは聞いていません。
ジャン・ジャカール 1456年2月11日
若い少女や若い男性たちは夏や泉の日曜日にこの木の下へ行き、歌い、食べ、巡り歩き、遊んだり散歩したりして雨の泉へ戻り、その水を飲む習慣がありました。ジャンヌも他の少女たちと一緒にそこへ行ったと信じています。
これらの証言から読み取れるのは、この樹に関わる伝説はこの地域の一般的な物であり、ジャンヌもこの樹に関して魔術的な要素は見つからず他の同年代の男女と同じように過ごしていたという事です。
きった楽しい時間を過ごしていたのでしょう。証言の端々からそれが伝わってきます。
さて、もうひとつ証言の中に気になる単語が出てきます。
ピエール・ド・ブールモン氏、ブールモン領主、領主という単語達です。
このブールモン氏は当時この地方にあった城の城主です。
ここは彼の所有する場所だったのです。
ブールモン城はこの樹から南に4.15Kmの位置に今も現存しています。(個人所有です。)

フランス語ですが、wikiもありましたのでご紹介いたします。
ブールモン城
ジャンヌが生まれた1412年に、最後の男子領主であるピエール・ド・ブールモンが亡くなりました。その後ブールモン城は妹の子孫であるアングルル男爵家に渡り、現在まで残る訳ですが、ジャンヌの時代はその過渡期にある訳ですからこの地方にも混乱があったはずです。
ドンレミ村が野盗達に襲われるのも、その混乱に乗じたという側面もあるかもしれません。
その最後のピエール・ド・ブールモンと妻、ベアトリースは付添人を連れて度々この樹を訪れていた、とあります。
この地方を収めていた領主夫妻もこの樹と泉を愛してそこで過ごしてきた事と、1431年のドンレミ村での聞き取り調査、1456年での復権裁判証言でも多くの証言が出たことにより、この樹にまつわるジャンヌの魔術への関与は否定されたのだと思います。
