ジャンヌ・ダルクの姓を考える
「ジャンヌ・ダルクという名は、実は本人生存中には一度も使われていない。」という事実はジャンヌの事を調べ始めると比較的早い段階で目にするトリビア的な内容だと思います。
その焦点は姓のダルクの部分です。
彼女自身の直筆のサインはJehanneのみでしたし、彼女自身が「ジャンヌ・ダルク」を名乗ったことはありませんでした。
1431年の処刑裁判と1450年の予備調査から始まる復権裁判の記録の中でも、Darc 、Dars、Day、Dai、Tarc、Tart、Dare、Darx 、Tard、Dartといった複数の姓が出てきます。(※出典:東京書籍「ジャンヌ・ダルク」著レジーヌ・ペルヌー他)
今回は、この姓の部分について考えてみたいと思います。
1、処刑裁判における本人の供述について
この話題において、最も信頼性の高い証言、それは本人の証言です。
彼女自身の証言が、1431年の処刑裁判の記録に残っています。
まずはそれを紐解きましょう。
彼女の姓についての証言は2か所に出てきます。
・裁判の初日である1431年2月21日
裁判長ピエール・コーションから自身の「名前と姓(surnom)」を問われたジャンヌは、次のように答えています。
「自分の故郷ではジャネットと呼ばれていたが、フランス(王太子領)に来て以来ジャンヌと呼ばれている。姓については全く知っていない。」と。
続いて、父母の名についての問に対し、「父はジャック・ダルク、母はイザベルという名であった。」と答えています。
・1431年3月24日ジャンヌの答弁。過去の記録の確認に際して。
「自分の姓はダルクもしくはロメ(母の苗字)であり、自分の故郷では娘達は母方の姓を用いていた。」と述べました。
何故2月に「姓は知らない」などと答えたのか真実は解りませんが、父と母の姓はしっかり答えており、本当に知らなかったという事は考えられません。
ただ、推測ではありますが、自分を魔女として処刑したがっているだろう敵に囲まれ、本筋とは関係ない姓について問われ、父方はナントカで母方は~でも、地元の風習では・・・と説明していくのが面倒だったのかな、と想像します。
砕けて、日本の近畿地方風に表現するならば「知らんがな。」という感じです。もしそうであれば、自分の命のかかったこの裁判に大変強気、あるいは無謀な態度です。しかし、ここに限らず多くの場面でジャンヌはこの大胆さを発揮しています。
しかし、3月にその答弁を振り返るにあたって流石にそれはマズかったかな、と補足したのかもしれません。
何はともあれ、姓についてその言葉通りに取るのであれば、姓が必要であれば母イザベラ・ロメの娘ジャンヌ・ロメと名乗り、その愛称がジャネットであったというのが実情だったと思います。
それでは、何故彼女は今日「Jeanne D'arc」と表記され、原典には数多くの綴りが生まれることになったのでしょうか?
2、「ジャンヌ・ダルク」が初めて歴史上に現れた瞬間
ジャンヌが生存していた間、敵味方いずれの勢力も彼女をジャンヌ・ダルクとは呼びませんでした。親しい者はジャネットと呼び、自分自身は「ジャンヌ・ラ・ピュセル」と名乗り味方もそう呼びました。敵方にとっても「ラ・ピュセルと人が呼んでいる娘」「ジャンヌと名乗っている女」であり、ジャンヌ・ダルクではありませんでした。
レジーヌ・ペルヌーによると、「ジャンヌ・ダルク(Janne Darc)」の名前が出てくるのは復権裁判の開始によるそうです。
ジャンヌ死後24年たった1455年、教皇カリストゥス三世が「ピエール及びジャン・ダルク(綴りはDarc。ピエールもジャンも両方ジャンヌの兄です。)そして彼らの妹故ジャンヌ・ダルク。」と。
文脈としては、正式文書において(ドンレミ村の慣習である母方の姓ではなく)その家長の姓を記載された、という物が最初だと思います。
3、複数の綴りは何故うまれたのか?
姓の綴りにこれだけ沢山のバリエーションがあるのは何故か?
それは当時の裁判記録の取りかたにあったと思います。
当時は証言者が発言した音声を聞いた人がその聞こえた音のままにテキストに写し取る事で裁判記録が作成されていました。
ダルク(Darc)と発声したとしても、その綴りがどうであったかまで確かめる事は無かったのでしょう。結果、Darcを正とするならば、Dars、Tarc、Dartといったバリエーションが生まれました。また、記録は筆記体によるメモ(おそらくフランス語)からラテン語の清書というように翻訳、複写を繰り返していきます。ここで筆記体の見間違いと異言語に変換される事で表記が変わった物が生まれます。Dareなどはミスのように思えます。また、レジーヌはかTartという表記をロレーヌ方言の硬音を写している物と解説しています。
※余談ですが、日本語で「ジャンヌ・ダルク」と表記されていますが現地でそのまま「ジャンヌ・ダルク」と発声してもほとんど通じません。フランス語を知らない日本人のイメージとしてはカタカナで「ジャン・ダーク」と発声するのが一番通じると思います。
4、Darcという綴りのルーツについて
まずDarcの由来は何でしょうか?
名前の由来は、父ジャック・ダルクの源流にあります。
ジャック・ダルクは一説によるとドンレミ村から約65km離れたアル=シュル=ムルト (Art-sur-Meurthe)の出身とされています。当時はArtではなくArcと綴っていたそうです。地域の記録ではここにジャック・ダルクの祖父ユー・ダルクが住んでいたとされます。(ただし、これは近年の郷土研究によるものであり、「郷土史・民間伝承」としての仮説です。)

そこから、前置詞Deと地名Arcが合わさってDarcとなった説が有力です。
フランス語では前置詞「de」の後に母音(ArcのA)が来ると、音が繋がってダークと発音されます。その為、当時の書記達は聞こえたまま「Darc」と一つの単語として記録したのでしょう。
5、アポストロフィの追加について
では、Darcに何故アポストロフィがついてd'arcとなったのでしょう?
アポストロフィとはD'arcの「'」の点です。
15世紀のフランス語には現在のようなアポストロフィ(')は存在していませんでした。よって処刑裁判や復権裁判を始めとする全ての記録にd'arcという綴りは存在しませんでした。
17世紀以降、フランス語に「エリジオン(élision=母音省略)」が定着しました。Darcがde+arcと認識した当時の人達は、そのルールに従ってD'arcと表記し始めました。これがd'arcの始まりです。
しかし、これは新たな争点を生むことになりました。
アポストロフィが生まれた頃のフランスでは、名前にアポストロフィが付いていると貴族的なイメージを持つようになっていました。
何故なら、de+地名と付くことで領地を持っていると暗示する事が出来たからです。
6、名前が引き起こした「私生児説」とプロパガンダ
そこにジャンヌの少数派仮説を信じる人達は注目しました。
ジャンヌ私生児説などのジャンヌ・ダルクが高貴な血筋を持つと信じる人達です。ジャンヌ私生児説とは、ジャンヌ・ダルクがシャルル7世の母イザボーの不義の娘であり、赤子の時にドンレミ村に預けられたという物です。
沢山の否定材料を持ちながらも根強くこの説を支持している人もいます。
その人達からすると、「ダルク家が貴族の出であれば、王族の娘を預けるのに十分リアリティが生まれる。」ということになるのでしょうか。
こうして、ジャンヌ・ダルクの綴りはDarcが正しいか、d'arcが正しいか19世紀くらいまで論争が続きます。
事はジャンヌ・ダルクが貴族出身(ぽい)である方が良いか、庶民の出であるのが相応しいか、というプロパガンダ的内容を含み始めます。
※馬鹿らしいと思われるかもしれませんが、当時のフランスという国家が置かれた状況を考えるとこのプロパガンダは笑えなくなってきます。この時期のフランスは死したジャンヌを蘇らせて国家をもう一度守らせようとしていたのですから。これについてはいずれ別記事で書きたいと思います。
7、結論として
ジャンヌ・ダルクという名前の成り立ちを振り返ると、彼女自身がそう名乗ったことはないものの、当時のドンレミ村の風習(母方の姓を名乗る)とは異なり、家長の姓を記す「公式記録」の形としては正しいものでした。 また「ダルク」の綴りについても、当時は音声をそのまま文字に書き起こすのが主流だったことを踏まえれば、「Darc」が最も当時の実態を正しく表していると言えます。
一方で、アポストロフィを用いた「d'Arc」という表記も、単なる後世の捏造や間違いというわけではありません。15世紀当時には存在しなかった記号ですが、「De + Arc」という由来の音声を現代フランス語の文法規則に翻訳して表記するのであれば、理にかなった「正解」だと言えると思います。
本当の歴史の罠はアポストロフィという記号そのものではなく、後世の人々がその記号を「もともと高貴な身分の証明だ」と勘違いし、利用してしまった点です。
私たちが今日当たり前のように呼んでいる「ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc)」という美しい名前は、それは決して誰かがゼロから作った嘘ではなく、何百年という時間をかけて「口語聞き取りによる書記のぶれ」「文法規則の変化」そして「国家のプロパガンダ」が幾重にも重なって作り上げられた、いわば”歴史の合作”なのです。
【参考文献】
レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン 著(福本直之 訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍)
高山一彦訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社)
高山一彦訳『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社)
