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ヴォークルールからシノンまでの敵勢力圏突破を考える

序文

ジャンヌ・ダルクはヴォークルールでジャン・ド・メスやベルトラン・ド・プーランジらを含む護衛6名を共としてシノンまで約550kmの道のりを突破してシャルル王太子のいるシノンへ向かいます。
この道のりの大半は敵勢力圏内を突破するものであり、大変危険な道のりでした。この突破をジャンヌの奇跡のひとつと捉える声もある程です。
この道のりの全容は正確には明らかになっていません。隠密行動であったので当然です。しかし、いくつかの材料はあります。
今回はこの道のりを資料と推定を交えてなるべく詳しく考えていきたいと思います。
なお、本稿はなるべくルートと日程の推定に集中し、行程内の他の要素は別の記事で纏めたいと思います。

●前提となる確定条件

この550kmの行程のうち、裁判記録などの証言からいくつかのほぼ確定した経由地があります。

出発地点:ヴォークルール
これは確定です。ここでは最も可能性の高い1429年2月22日出発説に従います。他に2月12日説もありますが出発前のスケジュールが過密すぎて無理があると思っています。何故なら、ロレーヌ公領からヴォークルールに帰ってきたのが2月12日であり、そこからボードリクールの面会、旅の計画・準備をして当日中に出発するのは余りにも無理があるからです。
サン=テュルバン ※処刑裁判1431年2月22日のジャンヌ本人の証言より
1日目の宿泊地。一行はこの土地の修道院に宿泊しました。
オーセール ※処刑裁判1431年2月22日のジャンヌ本人の証言より
一行は道中、ブルゴーニュ派の重要拠点であったオーセールを経由しています。処刑裁判時のジャンヌ本人の証言により、見つかれば即座に捕縛される敵地のど真ん中でありながら、ジャンヌの強い希望によってオーセールでミサに与った(あずかった)ことが記録されています。
サント=カトリーヌ=ド=フィエルボワ ※処刑裁判1431年のジャンヌ本人の供述より
無事に広大な敵地を抜け、王太子派の勢力圏に入った一行はこの地の教会へ到着しました。ジャンヌはここでミサに与り、シノンに滞在する王太子シャルルに向けて手紙を送った事実が確認されています。
一行はここで王太子派とコンタクトを取った上でシノンに向かいます。
ほぼゴール地点であり、フィエルボワに到着した時点でジャンヌ一行は次のステージにシフトしたとみて良いと思います。

その他の裁判記録の中から解るのは以下の情報です。
・行程の中でミサに2回与った。※復権裁判のジャン・ド・メスの証言
・シノンまでは11日間の旅だった。※同上、ジャン・ド・メスの証言

●一次資料には無いがほぼ確定に近い経由地

ジアン
このルートを考えるにあたって、最も大きなポイントが「ロワール川をどこで渡ったか?」です。佐藤猛著『百年戦争』などでも詳しく解説されている通り、当時のロワール川は単なる川ではなく、イギリス軍・ブルゴーニュ派が支配する北フランスと、王太子シャルルが支配する最後の領地である南フランスを分ける境界でした。 1428年のソールズベリー伯の進軍に端を発するオルレアン包囲戦も、その本質はこの「南仏巨大な攻略の為の渡河ポイント(橋)の奪い合い」です。(同時期には、境界地域にあったジャンヌの故郷ドンレミ村も襲撃に遭うなど、王太子派にトドメを刺すべく苛烈な攻撃が始まっていました)
このような情勢の中で、ジアンはまだ王太子派の手の中にありました。事実オルレアン解放後にジャンヌ達がランスへ向かう際にはこのジアンを軍の集結場所として選んでいます。※コレット・ボーヌ著「ジャンヌ・ダルク」他より。
渡河ポイントとしてはこの場所が最も合理的であり、これについては異説を見たことがありません。

推定によるジアンまでの経由地

ここまではほぼ確定のルートです。グーグルマップ上にポイントすると以下のようになります。

確定ポイント

次に推定される経由地です。
ヴォークルールからサン・テュルバン、オーセールを経由してジアンまで進むルートについて、レジーヌ・ペルヌーはジアンまでの経由地を以下のように推測しています。
ヴォークルール→サン・テュルバン→クレルヴォー→ポティエール→オーセール→メジル→ジアン
確定ポイントを考えた時、多少の迂回はあったとしても基本的に選択肢はありません。表にまとめてみます。

ヴォークルールからジアンまで

ジアンからサント=カトリーヌ=ド=フィエルボワまで

ジアンでロワール川を越えてからのルートをレジーヌ・ペルヌーは以下のように推測しています。
ジアン→ヴィグレン→ラ・フェルテ=サン=トーバン→サン=テニャン→サント=カトリーヌ=ド=フィルボワ
しかし、このルートを地図上に置いてみるとおかしな点が見えてきます。

レジーヌ・ペルヌーのルート

戦場に近すぎるのです。オルレアンはまさに今英軍に包囲されており、オルレアン南方も英軍が包囲していました。川の南方の砦も複数が英軍の占領下にあります。その占領地からラ・フェルテは20kmも離れていません。
それだけ離れていれば見つからないだろうという考え方もありますが、ラ・フェルテを経由すると遠回りにもなります。わざわざ遠回りして英軍に近いルートを通る理由が思い浮かびません。あわよくば様子見、という可能性もあるかもしれませんが、リスクの割にはメリットが薄く思います。

ここで、もうひとつの可能性を考えてみます。
ジアンから川沿いに迂回せず、サルブリを経由してサン=テニャンまで真っすぐ突っ切るルートです。

サルブリ経由ルート

このルートであれば戦場からは大きく外れますし、距離も25kmほど短縮できます。
「そんな事をいっても机上の空論ではないか?」
という反応は至極もっともかと思いますが、思いついてから調べてみた所、近年では実地調査による検討の結果、このルートにも脚光があたっているようです。
このルートを広く紹介したのはモーリス・ヴァシュロン(Maurice Vacheron)という方で『La Chevauchée de Jehanne la Pucelle(ジャンヌ・ダルクの騎行)』という書籍の著者です。
彼はヴォークルールからシノンまでのルートを実地調査し、11のステージに分けて検証しました。
その結果、サルブリ経由のルートを通った可能性の方が高いと紹介されています。
私もどちらが必然性が高いかと考えた時にサルブリルートの方が確からしく考えますので、ここではサルブリ経由のルートを推します。

全体ルート

ここまでの検証からヴォークルールからシノンまでの経由地を表にします。

ヴォークルールからシノンまで

グーグルマップ上にポイントするとこのようになります。

全体ルート

なお、注意点として、サン=テュルバン以外の場所の地名は必ずしも宿泊地を示したものではなく、あくまで経由地です。恐らく特にジアンより前の段階では進めるだけ進んで野宿または小さな宿場というスタイルだったと思われます。敵支配都市での宿泊は危険ですし、都市での宿泊を前提とするとどうしても移動距離と11日のスケジュールの中に納まらないと思います。

11日間という制限から考える

1456年の復権裁判において、ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジの2人の騎士は、揃って「シノンまで11日間の旅だった」と証言しています。2人の証言が揃っている事を考えると、恐らく記憶違いの線は薄いでしょう。
そこから逆算すると、このシノン行の過酷なスケジュールが見えてきます。

ジャンヌ一行はフィエルボワ到着後、王太子に手紙を出し、返答を待ってからシノンへ向かっています。この待機期間には最低でも1〜2日を要します。
ここから考えると実質的な移動にかけた日数は9~10日間となります。
先に検証したルートだと総距離は534kmなので、平均移動距離は53.4~59.3となります。
これは当時の騎馬での1日の平均走行距離40kmから比較すると大変過酷なスケジュールです。もしかしたらシノンの勢力下のフィエルボワ到着をゴールと認識したのかもしれません。それであれば494km/11日で44.9km/日となりますが、それでも過酷な事には違いがありません。

その難易度からジャンヌが起こした奇跡のひとつと呼ばれている事にも納得がいく物です。しかし、そこにはジャンヌの勇気と一行の知恵と幸運によってなされた偉業なのでしょう。

最後に

検討の中でご紹介したモーリス・ヴァシュロン(Maurice Vacheron)の活動について、最後にご紹介したく思います。
彼の研究はやがてひとつの活動につながります。
フランスの自転車を愛する人たちの活動により、このジャンヌのシノン行のルートがサイクリングルートとして紹介され、愛用されているのです。


●現地のサイクリングルート紹介ページ
Véloroutes LorVélo : Votre Guide pour les Plus Belles Balades à Vélo en Lorraine, Alsace et Bourgogne

●ジャンヌのコースのページ
 ルート
 紹介


私もヴォークルール周辺とフィエルボワ周辺は自転車で走ってみました。

ヴォークルール周辺1

平地が多く、見晴らしが良い・・・よく言えば広大で悪く言えば心を折りに来る風景です。

ヴォークルール周辺2

馬と自転車では全く風情も違うかもしれませんが、ジャンヌも此処を通ったのだと思うと感慨もひとしおです。

フィエルボワ周辺

今回のルート検証はあくまで推論を重ねたものです。
しかし、現地での実地の検証は確かなものだと私は思います。
私達もジャンヌ一行も、きっとどこか同じ勾配で「迂回すべきか進むべきか」と思ったのに違いありません。
その中から生まれたモーリス・ヴァシュロン(Maurice Vacheron)のルートは高名な歴史家の推論に匹敵すると私は思っています。


【参考文献】
高山一彦訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社)
ジャンヌ自身の供述記録(出発日、サン=テュルバンでの宿泊、オーセールでのミサなど)。
高山一彦訳『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社)
同行した護衛騎士ジャン・ド・メスおよびベルトラン・ド・プーランジの証言(「シノンまで11日間の旅だった」「道中2回ミサに与った」など)。レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン 著(福本直之 訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍)
ヴォークルールからシノンにかけての基本ルートの推測。渡河ポイントにジアンを通った事など。
佐藤 猛 著『百年戦争 中世ヨーロッパ最後の戦い』(中公新書)当時のロワール川が持つ「北フランス(英・ブルゴーニュ派)と南フランス(王太子派)の境界」としての参考。1428年当時の戦況について。
La Véloroute Jeanne d'Arc(通称:LorVelo)
現地サイクリングルート紹介ページ。ヴァシュロンの検証から生まれた現代フランスの実地サイクリングルートの公開データ

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