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うーすー

 芳樹が鷺田美園を意識するようになったのは、彼女に「鷲」の字を教えた時だった。
 メモ用紙に忘年会の担当表を手書きしていた時、彼女は「あ、すごい。鷺田とか鷲尾とかさらっと書けるんですねー」と目を輝かせたのだ。似たような構造の漢字だが「鷺は自分の名前だから書けるけど、鷲とか書けませんよ私」と言う。内心嬉しかったが「必要ないんだけどね」と肩を竦めた。「三回も変換叩けばたいていの漢字は出て来るんだから」
 今どき、中学校レベル以上の漢字を書くのは毎年漢検に挑んだりするような人間で、それはもはや趣味の範疇で、書けるからといって誇示するのはむしろ恥ずかしいことなのだ。
「んー。でも、自分で書けるようになりたいじゃないですか」と言う美園に「就職の就に鳥」と教えた。
 折に触れ、乞われるままに色々な漢字を教えた。啓蟄のチツは幸せの丸い虫、米が異なると糞、馬で門に駆け込むのが闖入者。美園はいちいち嬉しそうに手帳に記した。
 主任の鷲尾と話していた客が、鷲尾と芳樹の間にスマホを差し出した。いずれ似たような白黒猫の写真をスクロールしながら、これがアル、こっちがレッキーで、これがキーノと紹介する。通りすがりに覗き込んだ美園が、
「お芝居、お好きなんですか」と言った。
 え、と目をあげる客に笑いかけ、
「だって、アルレッキーノっていったら、イタリアの太郎冠者でしょう?」
 鷲尾と客が同時に、ほう、という顔をする。芳樹は急いで割って入った。
「太郎冠者っていえば、こないだの日曜、テレビで『二人袴』って狂言観たんですけどね」
 中学のとき体育館で観た柿山伏、今現在近所のガキどもが取り組んでる蝸牛。持てる知識と演技力を総動員して話題を塗り替える。猫の名前も芝居もどうでもいい。そういうのはあんたらに任せるから、彼女に興味を持たないでくれ。それは俺だけでいい。
 その晩美園を食事に誘い、昼間はごめんと謝って、不思議そうな顔の彼女から、改めてアルレッキーノに関する知識を得る。
「鷺田さんって、教養あるよね」
 かなわないなあ。思わず溜息をつくと、彼女は笑い、
「宮下さんだって、アイヌ語のオッパイとオチンチンとか知ってたじゃないですか」などと、特に頬を赤らめるでもなく言う。
 アイヌ語の。それは鷲尾家の猫の名だ。今日の客が前回来た時に。そうだ、あの時は俺が言い当てた。けどそれは今流行りの漫画に書いてあったから知ってるんで、多分命名者も同じ漫画を読んでいる。――ていうか、その二語をもって俺の教養としないでほしい。

 土曜日、昼前に目を醒ますと、姉の菜穂香からメールが来ていた。「よかったらカレー食べにおいでー」
 靴を脱いで室内に上がるや否や、甥の直人が突進してきた。全身全霊の頭突きを、ちょうど鳩尾に入る直前で受け止め押し返す。けらけら笑いながら直人が手を引っ張る。
「あのね、今ね、幼稚園でうーすーが流行ってるんだよ」
「うーすー? って何?」
「知らないのぉ? ダメじゃん。あーあ。うーすーの呪いにかかっちゃった。あなたは今日から毎晩うーすーの夢をみます」
「え、ちょっとヤダ、やめて!」
 芳樹は悲鳴を上げた。直人はニヤニヤして、当てるチャンスを三回あげるとのたまう。
 うーすー……五十四? ブー。お友達の仇名。ブー。わかったゲームだ! ブー。
「はい、よっちゃんの負けー!」
 かくして芳樹は毎晩、得体の知れないうーすーの夢をみることになった。それはただただ「恐怖」であったり、闇のかたまりであったり、肉食の兎の群だったり、美園が「蜘蛛って眼が八つあるんですよね」と言った日には、五十四の複眼を持つ蜘蛛だったりした。
 一週間で、芳樹は音を上げた。直人を訪ね、呪いをといてくれと泣きつく。
「ボク、そんな力ないもん」
「じゃあ、どうやったらとけるんだ。誰ならその力を持ってるんだ?」
「知らないよ」
「ナオ。頼むよ。たのみます!」
 このままうなされ続けたら身がもたない。拝み倒して得た答えは
「そのうち誰かが、よっちゃんにうーすーを見せてくれるよ。その瞬間に呪いがとけて、その人とよっちゃんは結ばれる」だった。
 よしてくれ。好きな人がいるんだ。そんな、得体の知れない呪術使いと結ばれたくなんかない。しかし直人は妙に高潔な顔で
「これは宇宙の法則だから」と言い、その後はもう何を言っても態度を変えなかった。
 相変らず、手を替え品を替え、うーすーは現れる。目の下の隈を鷲尾に見咎められ「夜はちゃんと寝ろよ」から、なぜか「肉を被った親知らずからばい菌が入った」話になった。
「耳の奥が痛くってさ、鼓膜がぱこぱこすんの。あー、リンパ腺まずいなと思ってたら、鼠径部まで痛くなってきてさ」
 三十分ほども捕まって席に戻ると、
「宮下さーん」
 未処理の書類を手に、美園が何気ない態でやって来た。
「ソケイってどう書くんですか?」
 確かに、あまり一般的な字ではない。
「ネズミのミチだね。ミチは直径半径の径」
「…………ねずみ?」
 ペンを持って、助けを求める顔の美園。
「えっと。平べったく描いた臼(うす)の下にー……」
 そこまで言って、芳樹は首を傾げた。この先をどう説明したらいいだろう。見ると美園は、ピザ生地の厚みまで押しつぶした肉まんみたいな平べったい「う」の右に、同じく超横長の「す」を、白いページの縦一センチかける横五センチ程使って並べていた。

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