火喰い

 赤い獣の咆哮が闇を裂いて走る。高く低く、長く尾を引いて行く。少しすると別な方角からも同じ声が上がり、やがてそれらは重なり合って同じどこかを目指した。
 目をぎゅっと閉じて寝がえりをうち、サザはヒクイ達の無事を祈った。
 今夜もどこかで火が燃えている。このところ毎晩だ。まとまった雨が降らず空気が乾ききって、ほんのちょっとした不注意による小さな火がすぐ大火災に発展する。人をはじめ棲息する全ての動植物と同様、炎を食べて成長する獣にとっても危険な状況だった。
 この辺りのヒクイ達は既にどれも相当な大きさになっている。それでも、一度熾った火はなかなか鎮まらなかった。
 一度に多くの炎を食べ過ぎれば、体の成長に皮膚が追い付かず、雨に当たったソヤの実のように皮膚が裂けて体液が流れ出し、悪くすれば死んでしまう。そうやって相棒のヒクイを亡くしたアルグは、何日も死んだように眠り続けた。幼馴染で親友のサザの声も彼には届かず、また彼から一言の嘆きも聞くことのないまま、ある朝、目を醒ましたアルグはどこかへ行ってしまった。
 人とヒクイの歴史は、神話時代にまで遡る。遥かな昔、人類がまだ樹上で生活していた頃。雷による火災で塒の樹を失った人々の嘆きに応えて、神は世界にヒクイを与えられた。火事で両親と塒を失って彷徨っていた幼い兄弟は、ある朝、真っ黒に焦げた樹の根本に蹲る小さな赤い獣を見つけた。白く輝く目で兄弟をじっと見てあくびをひとつした獣の口から、白い煙が一筋流れ出たという。ヒクイと名付けた獣と共に、兄弟は火治人の祖となった。
 人々が森や草原ではなく街に暮らすようになった今も、神は時折、雷に乗せてヒクイを下す。嵐が去れば火治人達は森に入ってヒクイを探す。そうして見つけた幼獣に、毎日小さな火を作って与え、大切に育てるのだ。
 雷の落ちた後は外出しない。自分は決してヒクイの幼獣をみつけたりしない。出かけていくヒクイ達の無事を祈りながらもそう思わずにいられないサザの耳に、鐘を叩くような金属音が聞こえてきた。人に飼育されていない、野生のヒクイが仲間を呼ぶ声だ。一雷や二雷ではどうにもならないような大きな火を前にした時、彼らはこの声をあげる。信じられないほど離れた場所にまで届き、多くのヒクイを呼び集める声だ。
 人に育てられたヒクイには、この声は真似できない。どうすればそれを教えられるのか、人の側は見当がつかなかった。それでいいと、サザは思う。野生のヒクイまでをも人が思うままに集められたり、できるべきではない。
 ヒクイは一般に思われているように炎にひかれて集まるのではない。神獣なのだ。彼らは人の嘆きに反応して動く。だから、どんな大規模な火災だろうと、そこに嘆く人がいない場所にヒクイは現れない。そんな彼らを無人の廃屋や山野にも導いて消火に任のが、火治人の仕事だ。それだけでも罪悪感がある。
 野生のヒクイが発する金属音は鳴りやまなかった。このところ彼らは過敏になっていると、サザは思う。以前なら彼らが反応するほどでもなかった小規模の火災で、鐘の音を聞く。夜具の下で頑なに目を閉じたまま、サザはアルグを想い、亡き両親を想った。
 傷病者の救助にあたっていた両親が建物の倒壊に巻き込まれて彼らのヒクイもろとも死んだ時、それでもサザはまだ自分もヒクイを育てるつもりでいた。気持ちが揺らいだのはアルグがいなくなった時、そして絶対にしないと誓ったのは、「黒い炎」を食べた野生のヒクイの死を目の当たりにした時だ。
 本来なら、食べ過ぎによる損傷以外、火がヒクイを害することはない。神獣たる彼らはこの世の理屈の外にある。自然発火は勿論、事故や過失による火災であっても、煙の成分が何であれヒクイは傷つかず、弱ることもなかった。例外は「黒い炎」、悪意による火だ。故意に、誰かを害することを目的とした火。人を助けるために下された獣の、存在を否定する火。
 紛争地域の、医療ボランティアとして派遣されていた緩衝地帯で、サザは初めてそれを見た。大きな嘆きに反応して集まっていた何雷もの野生のヒクイが、皮膚を舐める黒い炎に纏わりつかれ、悪臭を発しながら少しずつ、溶けるように形を無くしていった。
 今もまだ、夜の眠りにサザは見る。最期まで白かったその目が自分を見つめ、最後のあくびをするのを。黒い煙が一筋、その口から流れ出るのを。
 鳴りやまない金属音に思わず両手で耳を覆った時、サザの脳裏に彼らの白い目が現れた。
「サザ」
 聞こえてきたのはアルグの声だった。
「行こう」
 なぜアルグの声なのか、どこへ行こうというのか、自分は何を求められているのか。何もわからないまま、サザは夜具を脱ぎ捨て、家を出た。抗うすべもなく、ただ白い目に導かれるまま、やみくもに歩く。やっと咆哮も金属音も聞こえなくなった夜明け近く、火事場の上空を舞う金色の獣の群れが見えた。
 声もなく、サザはその舞を眺めた。ヒクイは翼をもたない。持たなかった。昨日までは。そして赤い獣だった。昨日までは。
――この世の理屈の外にある。
 胸の内につぶやいた時、一雷のヒクイがサザの前に降りてきた。その背にはアルグが乗っていた。
「行こう」
 行って、どうするというのか。この、夥しいヒクイの命を、黒い炎に溶かされるのか。それでお前は平気なのか。そう思ったが声は出なかった。涙を流しながら、サザは金色の獣によじ登った。
 海の向こうで、また新しい戦争が始まっていた。

いいなと思ったら応援しよう!