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中華街の包丁、そして路地裏の風/神戸南京町、三〇年の記憶と再生

ぼくには、神戸に暮らして三〇年余りになる福建省出身の親友がいる。若い頃に日本へ留学し、卒業後はそのまま留まって店を開き、額に汗して汗みずくで走り続けてきた男だ。やがて彼は、南京町で老華僑が営んでいた老舗の広東料理店を引き継ぎ、今もその暖簾を守っている。彼の店のテーブルを埋めるのは、日本各地から旅の途中でふらりとやってくる観光客たちであり、いま流行りのインバウンドの喧騒とはどこか一線を画した、穏やかな日常の風景だ。

かつて毛ゼミにも、南京町でチャーシューの老舗を営む華僑の家系の学生がいた。彼女は卒業すると、海を渡ってアメリカへと旅立っていった。残された家族の老舗は、結局、新しく日本へやってきた中国人経営者に託されることになった。

このふたつの小さな出来事は、ぼくに一つのことを教えてくれる。中華の食文化が放つ向心力はいまも揺るぎなく強固であり、そして神戸というこの古い中華街もまた、人の交替という静かな血の入れ替えを通じて、絶えず新しい息吹を得ているのだと。

南京町は、日本三大中華街のひとつに数えられる。東西に約270メートル、南北に110メートルという、小ぢんまりとした街区だ。その限られた空間に、百近くもの店舗がぎっしりと肩を寄せるように立ち並んでいる。過去三〇年の間に、この小さな街の底流では、静かで構造的な変化が起きていた。

この変化の肌触りを理解するには、まず老華僑たちの生の根っこ、すなわち「三把刀(さんばとう)」と呼ばれる三つの刃物の物語を解き明かさねばならない。包丁、ハサミ、そして理髪ハサミ。

かつて海を渡って日本へやってきた初期の華僑たちは、みなこの三つの手技を頼りに身を立てた。包丁で料理を出し、ハサミで服を仕立て、理髪ハサミで人々の身なりを整える。この三つの刃物が初期華僑の暮らしを支え、南京町という街の最初の姿を形作ったのだ。地に足をつけ、手技ひとつで生きていく。それこそが、旧世代の華僑たちが抱いていた最も朴訥で、たくましい生の原風景だった。

だが、時代の針が進むにつれ、この伝統的な営みの型は少しずつ解体されていった。少子高齢化が進み、華僑コミュニティが日本の土壌に深く根を下ろすにつれて、老華僑の二世や三世たちはより高度な教育を受けるようになった。彼らはもはや、親世代のような汗と油にまみれた肉体労働の業態をそのまま継ぐことはしない。大学の教壇に立ち、弁護士となり、医師や企業の専門職として社会に散っていった。家業である飲食店や小売り店を継ごうとする若者は、次第に姿を消していったのだ。

こうして南京町では、老舗の後継者不足と経営の停滞という問題が顔を覗かせるようになった。老舗が暖簾を下ろさざるを得なくなり、店舗は外部へと貸し出され、あるいは売却された。その受け皿となったのが、一九八〇年代以降に新しく来日してきた「新華僑」たちである。新と旧、経営のバトンタッチは、この三〇年の南京町においてごく日常的な景色となっていった。

いうまでもなく、この人の流れの更新こそが、街の空洞化を防ぎ、暖簾が次々と消えていく危機から南京町を救い出したのだった。百近い店舗が放つ活気は、こうして保たれた。同時に、新華僑たちは新しいビジネスの感覚と、現代の本場の風味を街に持ち込んだ。タピオカドリンクや焼き小籠包といった新しい食のスタイルが路地に散りばめられ、従来の重厚で単一的だったメニューに軽やかな彩りを添えた。それは、いまの若い旅人たちの気分に、実によくしっくりと馴染んだのだ。

しかし、変化の風は新しい戸惑いも連れてきた。手軽で利益の上がりやすいテイクアウトの店が増えたことで、街の品揃えやメニューはどこか似通ったものになり、街並みの景観からもかつての個性が薄れつつある。

これから先の未来を見据えるとき、南京町が持続可能な物語を紡いでいくためには、新と旧の力が溶け合い、共に生きていく術を探るほかない。老華僑たちが長い時間をかけて育んできた地域の絆と歴史の文脈。そこに、新華僑たちが持つしなやかで革新的な起業のエネルギーを掛け合わせるのだ。

華僑の歴史という深い底流を守りながら、時代に合わせた業態の形を整えていく。そのときになってはじめて、この歴史ある中華街は、これからも途切れることのないしなやかな生命力を放ち続けるのだろう。

二〇一二年の春節祭、毛ゼミと南京町商店街振興組合曹英生氏

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