誕生、反出生主義に対して、生きる意味とは
10歳の誕生日にサプライズというものをはじめてしてもらった。給食の時間に折り紙で作った首飾りをかけてもらった。クラス中から寄せ書きを貰った。
その寄せ書きを読んだ、新任だった担任教師に「こんな多彩にみんなに褒められている子いないよ」と言われた。その教師は新任だったから、まだ子供に対して話すと言うより、少し大人に対してのような話し方をしていた。
だから、フェイクで褒められている訳ではないというのが確信できて、全て折り紙で作られたものだったのに、10年経っても未だに、実家に飾ってある。
小学校まで、誕生日は毎年レゴと図書カードだった。とても幸せだった。フルーツケーキを毎年同じ店に母親が予約してくれていた。
昔、甘いのがダメだった自分のために生クリームが入っていないものを頼んでくれていた。
そして冬には「半袖短パンで学校に行く」と言い張る自分に、「しのちゃん、そんなん冷えるでー風邪引いたらあかんやん」と言って、朝、毎日マフラーを巻いてくれた。
すぐいじけて、行く道で外していたのだけど。
10年経った今はというと、
情けない話、マフラーに顔を沈めて泣きたい時に涙を流すのが癖になった。マフラーは上手く隠してくれる。涙も鼻水も。
自分で巻いているのに、まだ母親に巻かれているような感触と、母の匂いが未だに、する。
中高時代の誕生日の記憶はほとんどない。
2年前、自分はリスカだらけの身体にOD中毒で、酷い18歳の誕生日を迎えた。何も無いと思っていた、本当に。何も。
ただ、ふと携帯を見たら、インスタで留学中に知り合った世界中の30人から"Happy birthday, wish you all the best"というメッセージが来ていた。自分との2ショットのストーリー投稿までしてくれていた。
もう二度と会えるかも分からない自分に。
ルームメイトだったチリ人には「いつか日本にあなたに会いに行くって約束させて」と言われた。嬉しくて泣いた。この瞬間のためにだけでも生きていて良かったと思えた。
反出生主義やら、人生の虚無感やら、を考えるようになってから、
「一瞬の喜びを味わう為だけに、こんな苦行に満ちた人生をやるのは値するか」
という疑問を持つようになった。
幸福値というものが存在すると仮定し、
全て数字を取って、これからの未来のシグマ集計がマイナスになるのなら、「死ぬに値する人生」と言えるのではないか、と。
反出生主義者の主張は要はそれで、
「生まれなかったら味わわなくていい苦痛を味わわせているから、産まないほうがいい」
という極めて合理的な考えだ。自分には理解できる。人生が苦しかったから。
「子供が欲しいか」と言われたら、
女子で「子供欲しくない」なんて言っている19と付き合いたい男性なんていないので、「分からない」と答えるけど、本音でいえば子供が生まれたあとの苦痛の責任は自分には取れない、
ので、「欲しくない」と思う。
では、「生には価値があるか」という疑問について。
「価値はある」と言える。というかそう、信じたい。
「物心ついた時から自分についてまわったのは希死念慮だった」としても、生の価値は元々産まれてきた赤ん坊にはあったはずだ。
生きることに実直な赤ちゃんには価値がある。成長の過程で、どんどん人生が苦悩に満ちたものだと知り、人は「命には価値がない、意味が無い」というとしても、そう段々言うようになって言ったってことは元々はあったのではないかな。
「元々価値があることを前提にしている」
から、
「ないよ、命の価値なんて」と言える。否定神学的だけど。
だから命には価値がある。それだけは言える。
発生学を学んでいると、より思う。発生って、生命の誕生って、こんなに細かいプログラムに沿って正確に発現されていて、凄いな、と。
はて、自分はなぜ生まれてきたのだろう?
なんでしのとしてここにいるんだろう。
彼氏はなんでこの名前でここにいるんだろう。彼の名前があれで、ここにいる理由はなんだ?
彼女も。
友人も。
なんでイタリアに集まってみんなで苦行をやっているのだろう?
なんで小学生時代の知り合いと会おうなどとなるのだろう。
なんで先生も師匠も未だに自分の相手をしてくださるのだろう。
なんでネットの友達が何年も続いてかけがえのない存在になっているのだろう。
なんでこいつはこの名前を持って自分の前にいるのだろう。
不思議でよく、わからない。
人生の意味というものを、何故か人は求めるようになった。
あるいは価値かもしれない。
その区別をしてみようと英訳してみたら、
意味はmeaning/価値はvalue。
元々意味は個人的なもの、価値は社会的なもの、という区別らしい。
引用だけど、「意味は読みとる」と言えて「価値は秤」みたいな感覚なのかもしれない。
なぜ、この2つの語が混同され使われるようになったのかは分からないが、
意味は個人的尺度の中でのもので、だから他者に伝達するもので、
価値は社会が計るものだから、なのかな。
人生の意味。人生の価値。
自殺しないに値する何かはありますか。
必死で哲学者の引用などで、論理を積み上げて自殺しない理由作りを毎週のように行っている。
ここまでして、生き延びる価値はあるのか、という疑問を持つ。
「この一瞬の為ならまた生まれてきたいと思えるんだ」
アニメなどでよく聞くセリフだけど到底、そうとは思えない。
喜ばしいことがあったって、例えば恋愛の絶頂期にいるだとか、受験に合格したとか、極端な話、ノーベル賞を取るだとか、
そんなことがあってもその一瞬の喜びを、人生で何度か味わう為に生きるんだよ、と説得し続けても頑固な身体は拒んでくれる。
そもそも意味(meaning)と価値(value)という言葉を分けて考える哲学は13世紀の西洋で生まれたらしい。
13世紀といえば、商業文化とギルド/ブルジョワ社会の格差が進む、資本主義の大元をヨーロッパで産んだ時代だ。
学問も体系化されていった。その中で、現在の文脈と同じ意味で「意味」と「価値」という単語が使われていたなら説明がつく。
商業だか、産業だか、段々「自分が自分の生活をするためにこれを生み出していく」という感覚が希薄になり、通貨が浸透するにあたって、
人間は、「自分が何のために生きているんだ」
だとか「これの価値はこれくらい」という発想が出てきたのだと思う。
「こいつはこれくらいの価値があるから俺のギルドで引き取る。」「こいつには価値がないから捨てる、」のように。
その前には意味だとか価値という厳密な概念はなかったのかもしれない。
もちろん、ご飯を食べるという目的の為に、働く「意味」という意味はあったのだろうし、
貨幣で「価値」というものは表されたのだろうし。
ただ人生の意味、価値という言葉は人々の中で話されていたのだろうか。そんなことはなかったと思う。実存主義、ポスト構造主義になってから、幸福論についてやら「人生の意味」などという自己啓発本やらが生まれた。
これは尊敬する先生のお陰なのだけど、最近
「芸術って意味がないからこその美しさ」なのではないかなと、思えるようになった。
小説を送ってくれる度に毎回、
「この表現の意味はなんですか?」
「この単語は何を暗示しているんですか?」
と聞くと、「意味は無いよ」って返ってくる。
最初はよく分からなかったけど、小説も絵も、音楽も、意味がなくたって綺麗なものって沢山あるんじゃないかな、と徐々に思えるようになった。
美大生の友人が見せてくれた作品に妙に感動したり。でもこの作品はこの子が作ったからこんなにいいんだとも思う。誰かが同じマニュアルで作ったら自分にとっては全然違う。自分のことを1番古い時期から知っていて、5軒隣に住んでいた幼馴染の彼女が作った作品だから、感動する。
芸術は恐らく意味がなくても多分美しいとかかっこいいとかエロティックとかそんな感じなのではないだろうか。
本来、物事全てに意味を掴まなければいけないというのは、私たちの錯覚なのではないか。13世紀以前は意味と価値の区別すらなかった。不思議なものだ。同じ人間で同じ地を歩いているのに、多分考えていることも全く違うんだろう。はたまた、考えることを強要されることも。
そもそも人生に意味やら価値やらなんて不必要なのではないか。
その瞬間、長年自分を縛っていた反出生主義を乗り越えた気がした。
ファンタジーみたいな世界観だけど、
人生は物語みたいなもので、
脳という名の本に1ページに1年分ずつあった出来事を書いていっている。
平均寿命に従えば、合計85ページくらい届くのだろうか。
でも本って、ある人にとっては特別だったりするけど多くの人々にとっては特別価値は無い。特に個人史なんて。
本屋で興味のない人間の伝記を手に取ったりする訳でもないように。
でも、もし、人の本を少し覗かせてもらって、17ページとか18ページとかで自死の結果途切れたりでもしていたら、残念だ。
「続き読みたかった!」
となるだろうし、
「この人この後どうなったの、自殺エンディングはつまらないよ!もっと読ませてよ!」
となると思う。
残されて、本を記述する人間たちはその自死した人間に会う確率がゼロになる。もう会えなく、なる。
自分の人生をそんな感じで本だと思って俯瞰すると、少し勇気が湧くかもしれない。
「たった数ページに傷がついただけだ、ニートだろうが闘病だろうがやってやる、」という気持ちになるかもしれない。
それまでは出来事と思考でびっしりなのに、自死の結果、途切れて最後が遺書で、ちょっと読んだ先の次のページから白紙になってたら、悲しい。
物語を読んで、「この作品の意味は何?」と聞かれて一言で即答できる人なんていないだろう。
ましてや「この物語の意味は幸福」という回答になるケースなんてあるのかしら。
「幸福なんて追求すべきものではない、離れていくから、」とは思っているけど、
単純に「幸福が人生の意味です」って勿体ない。
「一言で纏めてくるな、」が多くの人の回答なのではないだろうか。
あるいは、「別に意味はないけど、ぼくの物語はこれでした、」みたいな。
生きる意味って結局の所、ないのだと思う。これは虚無主義的な意図でもあるし、現象学的な意図でもある。
生きるのって個人史を連ねているだけなのだと思う。
意味もなく。
無意味な何を象徴する訳でもないものにふと美しいと芸術性を感じるように、
人生に、人間が少なくとも理解できる範囲に、意味なんてものはないような気がする。
意味の無いという所に価値の原点があるような気がする。
「母さんにマフラーを巻いてもらう為なら、もう一度産まれてきてもいい」ではなくて
「母さんがマフラーを巻いてくれたことはちゃんと自分の個人史の6~8ページに記載されてるよ」でいいような。
こんなに生死だとか、人生の意味だとか虚無主義だとかあるいは自殺だとかについて考えているのは、
死なないことが許されるという根拠が欲しくてたまらなくて、生きていることへの罪悪感を拭いたくて、
そして何より、自分の誕生日くらい、純粋に生きることを肯定してみたかったから。
ちなみにイタリアだと少し様相は日本と違ったりする。
誕生日に友達が集まってくれて、「ありがとう来てくれて」と言うと「君のお陰だよ」と言われる。
「君が産まれたお陰で僕たちも楽しいバースデーパーティーをやれているから、生まれて来てくれてありがとう。」
日本にもこれくらい、軽く、でも強く、人の誕生に賛美を与える文化があったら少し違ったのかもしれない。
という訳で
20になりました。
もう少し進んでみます。
生き延びる手助けをどうか宜しくお願いします。
読んでもらえていると思うと、こんな何も無い奴でも、少し、でも確実に、生きる原動力になったりもします。
