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私の、愛すべきいびつな家族—不揃いがちょうどいい

私の家族は、たぶんもう一生揃わない。
でも、それでいい。

欠けていても、離れていても、それがうちの家族らしさだ。


父、母、私、弟。

最後に四人で揃って食事をしたのは、たぶん私が中学生の頃。もう二十年以上前のことだ。「いつも誰かが欠けている」それが我が家の普通の風景だった。

子どもの頃、家族は日本で暮らしていた。
父は海外へ単身赴任、タイ人の母は日本の家を守りながら、弟と私を育てていた。父が日本に帰ってくるのは、一年のうちほんの数ヶ月だけ。帰ってくると私は嬉しかった。でも同時に、不仲の両親が醸し出す空気感に備える自分もいた。

家の張りつめた気配を、なるべく穏やかな方へと誘導しようとする。幼いながらに、そんな役回りを自覚していた。家族特有の緊張感が漂う、そんな数ヶ月間だった。

歳を重ねた私たちは、よりいっそうバラバラだ。

父は日本でひとり。
母はタイの実家。
弟は家を出たきり音信不通。
私はバンコクで暮らしている。

──誰も同じ場所にはいない。それぞれが、それぞれの場所で自分の人生を生きている。これが、私の「家族」。

一時は、家族団らんに憧れた。ドラマのような、「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」が行き交う家庭。家族全員で囲う食卓。みんなで遠出する連休。眩しいほどにキラキラとした家族像。

けれど我が家にそういう光景はなかった。当時は、その欠けをコンプレックスだと思っていた。

でも、大人になった今は、そうは思わない。むしろ、完全に別々の生活拠点をもつようになってから、家族関係がうまくいっているとさえ感じている。母から父の愚痴を聞くことも、父の無言の苛立ちを受け止めることもなくなった。私も、家の空気をなんとかして穏便なものに保とうとする役目をついに終えた。

物理的に距離を取ったことで、無理に関わり続けることでしか生まれなかった摩擦や、小さな棘が消えていったのかもしれない。今の両親は、それぞれの生活を大切にしながら、自分の時間を楽しんでいるように見える。あの頃とは明らかに違う。

私たち家族にとっては、それが一番無理のない愛し方なのだろう。最近は、このいびつさこそが「うちらしさ」だと感じるようになった。

どこかが欠けていても、それでも家族。揃わなければダメ、というわけではない。世界のどこかにそれぞれが存在し続けている限り、私たちは私たちなりの家族なのだ。


たぶん、全員が完璧に揃う日はもう来ない。全員で会話することも、もうない。でも、それでいい。
私は、家族というものに型を求めるのをやめた。揃うことより、存在し続けること。その事実さえあれば、私には十分だ。


mari.

この文章は以下マガジンの一篇です。



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