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両親の熟年離婚を、娘として考える

※この記事は2022年に書いたものを、2026年の私が読み返し、必要最低限だけ整えた再録です。

母はタイ人、父は日本人。
二人が婚姻届を出したとき、どんな未来を思い描いていたのか、私は知らない。ただ、三十年あまり後の「終わり方」は、市役所の窓口で母と父と私の三人が並んで立つ、あの光景だった。

両親の決断は、長い間抱え続けてきたものからの解放にも見えたし、少し遅れてきた「もういいでしょ」という宣言にも見えた。

:2026年追記


結婚から30年余り。ついに両親が離婚した。

離婚を切り出したのは母だった。私が成人してからというもの、二人は長いあいだ別々の国で暮らしていた。夫婦であることを思い出すのは、手続きが必要なときだけ。そうやって、お互い最低限しか関わらず、このまま余生を送るものだと思っていた。そんなある日、母が言った。

「お父さんと離婚したい。」

正直、驚いた。いわゆる熟年離婚、という言葉が頭をよぎった。母が語った理由はいくつかあった。タイで旧姓に戻したいこと。現地の役所手続きで、夫の署名や委任状が必要になる煩わしさ。子育ても終わり、同居もしていないのに婚姻関係を続ける意味が見えないこと。

本音が他にあるのかは分からない。でも母がそう言うなら、そういうことにしておこうと思った。母は一人の女性として、自分の人生を取り戻そうと思い立ったのかもしれない。私にその勢いを止める理由もなかった。

父はあっさり承諾した。
「離婚したい」と告げられた父の返事は、ただ一言だった。

「あ、そう。分かった。」

もう少し何かないの?と思った。驚くとか、怒るとか、何か言葉が出るとか。けれど父の性格と、これまでの二人の関係を考えれば、自然な返事でもあった。争うことすら手放したような、その一言。私はそこに、父の孤独と、長年のあきらめのようなものを見た気がした。

日本の市役所での手続き自体は簡単だった。しかし、その後のタイでの離婚成立手続きは予想以上に複雑だった。認証、書類、やり取り。気づけば私は、両親の代理人として走り回っていた。「最後まで手のかかる親だな」と笑いたくなるような気持ちと、これが最後かという気持ちが、同時にあった。

当日は、母が「父と二人きりは嫌だ」と言うので、私も市役所に同行した。母、私、父という順で横に並んで、窓口に離婚届を提出する。私たち三人の間には、会話はなく「無」の空気が流れていた。窓口の担当者は淡々と手続きを進めた。

相変わらず二人は会話をせず、私が間に入り続ける形になった。「最初から最後まで、両親のメッセンジャーだったな」と思うと、複雑だった。それでも、寂しさよりも、ほっとしたような空気が流れていた。私にとっては「この家族なりの終わり方」として、しっくりくる時間でもあった。

離婚後の老後について。

母はタイの慣習どおり、子どもと暮らす老後を当然のように想定しているように見える。バンコクでの生活に馴染めるのかは分からないが、本人が望むなら迎えるつもりだ。

一方で、父の老後は読めない。何を考えているのか、相変わらず分からない。ただ、せめて年に一度くらいは一緒に酒を飲めたらいいな、と思う自分がいる。

長年すれ違ってきた両親。子育てという共通のゴールを過ぎたことで、関係に一区切りついたのかもしれない。離婚は、新しい選択肢への再出発とも言えるのかもしれない。

私の中で、親を見る目線は変わった。いがみ合う両親の仲裁ではなく、それぞれの人生を見守る視点に近づいた。もう「親」という役割のアイコンとしてではなく、「ふたりの人間」として向き合うようになった。これからどう二人と付き合っていけばいいのだろう、という戸惑いもある。それでもふたりにとって、より楽しい老後を願う気持ちが、今の私の本心だ。



──これで、両親のあいだの言葉を運ぶ役を、私は本当に終えたのだろうか。それとも、形を変えて、まだ同じ役が続くのだろうか。


mari.


♢この文章は、再録としてマガジン『第1章 家族という名の、いびつなパズル』に収録しました。 数十年の歳月のなかで、ばらばらだった家族の欠片を一つひとつ拾い集め、言葉にした記録です。


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