娘から見た両親の関係
※この記事は2020年に書いたものを、2026年の私が読み返し、必要最低限だけ整えた再録です。
当時の私は両親の関係を「すれ違い」という言葉で納得したふりをしていた。今は、その裏で誰が何を背負っていたかが見える。だからこれは、まだ何も知らなかった頃の私が、それでも自分なりに家族の形を言葉にしようとした記録です。
率直に言うと、私から見た両親は、ほとんどの期間、仲が良い夫婦には見えなかった。喧嘩が絶えなかったわけではない。ただ、噛み合わない。会話の端々が、互いの欲しいところに届かない。すれ違い、という言葉がいちばん近い。
その理由は、ひとつではないのだと思う。男女としての価値観、国の文化、母国語の違い、性格。どれもそれらしく聞こえるけれど、どれか一つを原因として名指しするのは、簡単すぎる気がしていた。私が見ていたのは、原因よりも、毎日の空気感だった。
不幸中の幸いというべきか、両親は感情的に手を出すようなタイプではなかった。四六時中、怒鳴り声が響く家ではない。穏やかな時間がまったくなかったわけでもない。ただ、その穏やかさが「分かり合っている」ことから生まれていたかというと、違う気がする。むしろ、互いに踏み込むのを諦めた結果としての静けさが多かった。
私が成人してから衝突が減ったのも、たぶん同じ理由だ。家族で何かを決める場面が減った。子育てという、逃げ場のない共同作業が終わった。ふたりが同じ方向を向かなくても生活が回ってしまう段階に入った。その「回ってしまう」ことが、救いでもあり、決定打でもあるように思えた。
両親は、二人で面と向かって話したがらない場面が多かった。それ故に、私がメッセンジャー役を務めることがよくあった。ふたりが互いに直接渡すべき言葉を、私が一度受け取って、整えて、片方へ運ぶ。子どもに頼る場面って、思っているより多いのかもしれない。私の家だけの話なのか、同じような家庭ではどうなのか、いまも時々気になっている。
ネガティブな場面もたくさん見てきたけれど、私はどちらか一方を悪者だと思ったことはなかった。両親それぞれから、違う形で愛情を受け取ってきたからだ。母は母なりに、父は父なりに。愛情の出し方が不器用でも、ゼロだったわけではない。
母には絶対に言えないけれど、父のことも同じくらい大切に思っている。母は愛情表現に敏感で、すぐに焼きもちを焼くタイプだから、どこかでバランスをとろうとしてしまう。かわいい、と言ってしまうと語弊があるかもしれないけれど、母と暮らす中で、そういう扱い方を身につけた。
娘であっても、両親の関係の「本当のところ」は当人たちにしか分からないのだと思う。子どもに見せていない面があるのかもしれないし、私の知らない葛藤があったのかもしれない。でも、それを今さら問い詰めたいとも思わない。家族でも、ふたりのあいだにあるものはふたりのものだ、と割り切ることで保てる距離があると思っている。
数々の修羅場を経ながらも離婚せず、老後について考え始めた両親。母はタイの実家での生活を続けるつもりのようだ。一方、父は日本に住んでいて、定年を控えている。これからどうしよう、という話題がちらほら聞こえてくるようになった。タイに移住する気があるのか、日本に残るのか。第三国という選択肢を考えているのか。父が何を本心で思っているのかは、正直よく分からない。
娘として「もう一度ふたりで暮らしてほしい」とは言わない。でも、わがままを言っていいなら、せめて父には、タイのどこかで老後を過ごしてほしいと思っている。私も母と同じくタイで暮らす予定だし、万が一何かあったとき、駆けつけられる距離にいてくれるだけで安心できるから。
だんだんと、自分が親を見る目線にも変化を感じる。「両親」というより、「まだ子どもっぽさを残したふたりの人間」を見守るような感覚に近い。ああ、私も年を重ねたんだな、と、ふと気づく瞬間がある。
付かず離れず、あたたかく見守っていく。そのスタンスでいたい。
ここまでが、当時の私が掴めた範囲の「両親」だった。いま読み返すと、この文章には、まだ書かれていないものがたくさんある。それでも、当時の私は当時の私なりに、家族の輪郭を掴もうとしていた。
mari.
後日談(2022年):この記事を書いた二年後に両親は離婚しました。
♢この文章は、再録としてマガジン『第1章 家族という名の、いびつなパズル』に収録しました。 数十年の歳月のなかで、ばらばらだった家族の欠片を一つひとつ拾い集め、言葉にした記録です。
