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『カタコト』から始まった、私の日本語

カタコトの母の音から始まった、私の「日本語の旅」

私はタイで生まれ、幼少期はタイと日本を行ったり来たりして育ちました。今でもふとした瞬間に思い出す昔のことがあって。それは、小さい頃、自分の話す日本語がちょっと変だったこと。

「語尾が不自然に上がる」独特のイントネーション。今ならそれがどこから来ていたのか、なんとなく分かります。



►一番身近にあった日本語は、母のカタコトだった

私の母はタイ人で、日本語を学んだのは結婚した後に日本に来てから。それまで一切日本語に触れたことがなかった母は、まさに一からのスタートでした。

そんな母と一緒に過ごす時間が長かった私は、自然と「母の日本語」が、私の日本語の原点になっていったんだと思います。

子どもの言語習得においては「誰と、どんな質の言葉を、どのくらいの量で交わしたか」がとても重要だと言われています。つまり、言語習得の初期段階では、『誰の言葉を模倣したか』が、その子の言葉の土台を作るということ。私にとっては、それが母の『カタコトの日本語』だった、というわけですね。

►幼稚園で知った「私の日本語、ちょっと違うかも?」

日本の幼稚園に通い出してから、ある変化が起こります。クラスメイトたちがやたらと親切に教えてくれるのです。

「バドミント↑ンじゃなくて、バドミントンだよ」
「ハンバーガー↑じゃなくて、ハンバーガーね!」

……え? 私、ずっと発音間違ってたの?私、変だったの???
まさに目からウロコ。

自分の日本語はおかしいんだ」と知った瞬間でした。

►母の日本語は正解じゃない?子どもなりの気づき

この出来事をきっかけに、私は子どもながらに考え始めました。

「ママの日本語って、正しいわけじゃないんだ…。」
「ということは、私がもっとしっかりしなきゃ?」

ある種の自立というか、ことばの責任感が芽生えた気がします。

とはいえ、母の発音矯正は早々に諦めてしまいました。意味は通じるし、都度会話が止まる方が不自由だったので…。

►日本語を「自分の言葉」にするプロセス

家庭内ではタイ語がメインだった我が家。
私の日本語は、外の世界、特に幼稚園という日本語のシャワー空間で急速に発達していきました。

「ゴム」という言葉を知らなくても、「ヤーン」(ยาง)は知っていた。
そんな小さな違いを一つひとつ埋めていくような毎日。

言語教育の観点から見ると、これはコードスイッチングという現象だそうです。複数の言語環境で育つ子どもは、場面に応じて言語を切り替える術を自然と身につけていくのですね。

ただし、それには周囲の言葉の質と量がとても大事。私にとって幼稚園は、言葉の量と質が一気にブーストされた場所だったんだと思います。

►いまも覚えている「ハンバーガー↑事件」

記憶って不思議ですよね。
未だに、クラスメイトに「それ、ちょっと違うよ」と言われた瞬間の光景をはっきり覚えています。決して嫌な思い出ではないんです。

教えてもらえたことが、なんだか衝撃で、新鮮で、嬉しくて。
自分の中にぐっと刻まれたんだと思います。

►タイにずっといたら、今の私はなかったかも

もしあのとき日本に行かず、ずっとタイの実家にいたとしたら…たぶん、私の日本語習得は途中で諦めていたと思います(笑)

今ならYouTubeもNetflixもあって、どこでも言葉を学べる時代だけど、当時は生の言葉に触れる機会がすべてだった。それでも、そんな時代に語尾の上がるハンバーガーから始まった私の日本語が、今こうして言葉を仕事にできるレベルにまで育ってきたことは、ちょっとした誇りでもあります。

参考:①日本語とタイ語でダブルリミテッドになりかけた話-小学校編-


►子どもの言語、育てるのは「誰かの音」

子どもは、誰かの音を聞いて言葉を覚える。
だからこそ、親の発する言葉、日常で飛び交う言葉が、子どもの言語世界の起点になる。そして、言語は単なるツールではなく、その子のアイデンティティ形成にも深く関わってきます。

今、私は一人の母として、娘の言葉と向き合い始めています。彼女にとって最初の言葉は、どんな響きになるんだろう。

そんなことを思いながら、あの日のハンバーガー↑を、ちょっと懐かしく思い出しています。

mari.


►おわりに

これは、私の言語習得のはじまりの記録です。
「正しい言葉」ではなく、「育まれた言葉」から始まるリアルな話。
誰かの子育てや言語教育のヒントになれば嬉しいです。

♢こんなのも書いてます↓

幼少期の「言語の迷子期」の経験の記録。


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