あの頃欲しかった大人を演じてしまう
子どもの頃、「こんな大人が近くにいたらよかったのに」と思っていた像がある。 困っていることを、当事者である私より先に見つけてくれる人。手を差し伸べてくれる人。理由を一緒に探してくれる人。
最近、娘の前での自分を見ていて気がついてしまった。私はその大人を、いつの間にか演じている。
何故「演じている」なのかというと、本来の私は大雑把で大抵のことは「なるようになるだろう」と思うタイプのはずなのに、現実は真逆だからだ。
娘の言葉のことになると、ほんの小さなつまずきも引っかかる。周りから気にするほどではないとアドバイスを貰っても受け流すことができない。
どうしてこうなってしまうのか。
たぶん、「娘に同じ思いをさせたくない」という感覚がある。
子どもの頃の自分が感じていた引っかかりや不自由さを、全部拾ってあげたい。見落としたくない。その使命感と焦りが、「欲しかった大人」を演じるという形で現れている気がする。
娘は今、日本語、タイ語、英語という三つの言葉の中で育っている。多言語環境では発話がゆっくりになることもあると頭では理解している。けれど、語彙の少なさや思うように言葉が出ず苛立つ娘を目の当たりにするたび、私は心穏やかではいられない。
かつての私は、言葉のあいだで揺れる子どもだった。
家と外、どちらの言葉にも完全には馴染めず、何が分からないのかさえ言語化できず、ただ「国語が苦手な子」としてやり過ごされるしかなかったあの頃。
あのとき手を差し伸べてくれる人がいたら。
その渇望が、今の私を動かしているのだろう。娘の小さなつまずきを全て拾い上げようと躍起になってしまうのは、過去の自分を救い出そうとしているのもあるかもしれない。
そんな日々だからか、ふと気づくと言いようのない疲労感に襲われている。本来の人格に抗って演じ続けるのは結構しんどいものだ。
静かに適度な距離で見守る。それが、思っていたよりずっと難しい。大人の不安は、言葉にしなくとも子供に伝わると聞く。子どものためにと必死になることが、逆に娘の負担になっていないか。そう自問するたびに、また別の焦りが生まれる。
ここで過去を書き続けて、古傷はだいぶ癒えたと思っていた。 それなのに、親という立場になって、傷跡はまた別の形で疼き出した。
過去の渇きが完全に消える日は来るのだろうか。
mari.
