【エッセイ】父の最期
2025年7月26日の午前11時過ぎ、湖の畔にある老人ホームから電話がかかってきた。
「お父様の息がありません。すぐに来てください」
息がないって、どういう状況なのだろう。 突然のことでピンとこない。
今から準備して、2時間後には着けると伝えると、
「医師には、その頃に来てもらえるよう連絡します。それまで清拭をしてお待ちします」
清拭と聞いてやっとわかった。医師が診るまでは、直接的な言葉を使えないのだろう。
たぶん父は、もう亡くなっている。
急いで身支度をして、ホームへ向かう。
両親の部屋に入ると、ベッドに横たわる父がいた。母は父の枕元に額を当てて、小さな声で話しかけている。私は思わず口走った。
「お父さん、本当に死んでしまったの?」
次の瞬間、母が泣き出した。私は実感した。
父は本当に亡くなったのだ。
午後2時、医師が来た。父の98年の人生にピリオドが打たれた。
その後、ホームのスタッフが次々とお別れに来てくれた。
「昨日、入浴の介助を担当しました。『ああ、さっぱりした。ありがとう』っておっしゃって。普段どおりのご様子だったので、本当に驚きました」
「私は、今朝の食事の介助をしたんです。またお昼に来ます、って言ったら、手を振りながら『ありがとう、ありがとう』と2回おっしゃって。まだ信じられません」
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1月、とうとう父の心臓は動きが鈍くなり、酸素吸入が必要になった。それでも長いチューブを上手く操って、自室の中を歩いていた。窓の外に広がる湖を眺めながら、「魚釣りに行きたい」と、父は自分自身を奮い立たせていた。
しかし、日に日に足の筋力は衰えていき、父の世界はベッドの周りだけになった。自室の中にあるトイレや浴室へさえも、歩いて行けなくなった。ベッドの脇にポータブルトイレを置いた。車椅子に乗って浴室へ行き、体を洗ってもらった。
手の力もなくなった。郵便局に出す委任状を書こうとしても、文字にならないくらいに。箸を持つ手が震えて、口まで運べないほどに。
食欲も落ちて、大好物のステーキや鰻を食べても、「おいしい」と言わなくなった。
父が一度だけ吐き捨てるように言ったことがある。
「ちくしょう!」
耳を疑った。そんなきつい言葉を父が使うなんて信じられなかった。続けてこう言った。
「何でこうなったのかな……」
思うように動かない自分の手足。悔しくて、情けなかったに違いない。
無理もない。1年前までは、車の運転を危なげなくしていたのだから。8カ月前、このホームに入った時は、エレベーターを使わずに、階段を使って移動できていたのに。
担当医からは入院を勧められたが、父ははっきりと答えた。
「延命治療は無用です。入院もしませんし、点滴も結構です」
だから、父の最期がそう遠くないと覚悟していた。しかし、まだ数カ月は先のことで、亡くなる前に、今までの感謝を伝えるくらいの時間はあるだろう、と思い込んでいた。
母も同じ気持ちだったと思う。
「私はね、お父さんは、いつものように眠っていると思ってたの。全然わからなかった」
部屋にやって来た看護師さんが、父に気づいて、私に電話してくれたのだった。
死に目に会えなかった。父をたった1人で旅立たせた。そう感じた瞬間、数カ月前に父から聞いた話を、なぜか不思議と思い出した。
「年末、『もはや、これまでか』と思う日があったんだよ。あの湖に沈んで行くような感覚になってな。それがとても気持ちいいんだ。でもお母さんが『お父さん、お父さん』って、うるさいくらいに呼ぶものだから、目が覚めた。死ぬ時は、あんな感じなんだろうなあ」
今日の父もこんなふうだったと信じたい。
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たぶん、きっとこうだ。
時間は午前10時半頃で、電話をくれた看護師さんと母との会話を聞きながら、旅立った。
「もうすぐ歯医者さんの往診がありますから、歯を磨いた方がいいですね」
「そうなの? 今日だったかしら」
「そうですよ。今日のご主人様は、よく眠ってらっしゃいますね」
「そうなの。さっきからずっと眠ってるの」
「いやいや、眠ってないよ。ああ、気持ちいいなあ。やっとお迎えがきた。もう思い残すことは何もないよ。じゃあな。母娘2人で仲良くな」
思い残すことはあった。結局のところ、一度も湖で魚釣りができなかったのだから。
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翌朝、父は湯灌と納棺後、H市を発った。遺志に従い、人生のほとんどを過ごしたM県T市で通夜と告別式を執り行ってもらった。
骨になった父を抱きながら母が言った。
「いいお父さんだったね。一度として手を挙げたことも、声を荒げたこともなかったわ」
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このエッセイは、あるコンテストで文芸賞をいただきました。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました m(__)m
あなたの大切な時間を私の記事を読むために使ってくださったこと、本当に嬉しく有難く思っています。
また読んでいただけるように書き続けたいと思います。
