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いじめはどこまで許されるか

先日、こんな話が聞こえてきた。
仕事先のマンションでのこと。
理事会の会合の後の、雑談だったのだろう。
集会所の前で数人の理事の方が話していた。
皆さん、見たところ僕よりも十くらいは年上のようだ。
「家政婦は見た」のように聞くともなく、極力存在を消しながら聞いていた。
最初は、どうやら少し前にあったスシローなどの迷惑動画のことを話していたようだ。
今ごろその話かあ、お年寄りは話題が古いなあと、自分のことは棚に上げて耳を澄ませる。
「昔も悪い奴はおったし、俺らも悪いことはしたけどな」
「ただ、あんな動画に撮ったりはなかったやろ」
「そや、それにみんな限度はわきまえてたな」
それからしばらく、それぞれの少年時代の悪事自慢、武勇伝が始まる。
あああ、どうして男というやつは、過去の自分を少しでもグレてたことにして語りたがるのだろうか。
男として申し訳なく思いながら(誰にや)さらに話を聞いていると、まあこれもお決まりのコースでいじめの話になっていく。
「俺らの頃も」
ああ、この「俺らの頃も」「俺たちの頃はさ」、僕もよく使ったなあ。
永遠に繰り返される、今を過去に引きずり戻すフレーズ。
いちばん否定すべき時代を美化してしまう悪魔の言葉だ。
「俺らの頃も、いじめる奴はおったで」
「そやけど、今みたいな陰湿なことはなかったやろ」
「そうや、陰でこそこそせえへん。いじめるときは、堂々といじめとったな」
「それに、また、いじめられっ子を守る奴もおったわ」
「いじめる方も、どこまでやってええか、限度をわきまえてたな」
「そやな、これ以上やったらあかんてな」
出た、「限度わきまえ論」
僕は、そっとその場を離れた。
やはり、いまだにこんなふうに考える人はいるんだ。

・昔もいじめる奴はいた。
・しかし、みんな限度はわきまえていた。
・そこが、今のいじめとは違う。

僕も、正直に言うと、過去に同じようなことを思っていたし、誰かに話したこともある。
「俺らの頃はな」と、なぜか少し得意げに。
でも、とある時考えた。
僕自身はいじめを受けたことはない。
でも、もし僕がいじめられていたらどうだろうか。

「あの頃のいじめっ子は限度をわきまえてくれていたなあ。
 だから、僕は今のいじめられっ子とは違うんだよな。
 あの頃に、いじめられていて良かったなあ」

果たして、そんなふうに思えるのだろうか。
いや、決して思えない。
僕の記憶に残るのは、いじめられていたという忌まわしい記憶だけのはずだ。

それに、もし僕がその「限度わきまえ論」をぶちまけているその場に、「俺らの頃」のまさにその頃にいじめられていた人がいたら、どう思って僕の馬鹿な話を聞いているのだろうか。

「限度をわきまえていた」などと言うのは、いじめる側の論理に過ぎない。
いじめに、ここまでは許される、これ以上は許されない、そんな限度などあるはずもない。
いじめは、たとえ1ミリでも見逃してはならない。
そんな少し考えればわかることもわからなかった自分を、僕は恥じた。
それ以来、僕は少なくともいじめに関しては、「限度わきまえ論」を自分の中から排除するようにした。
完全に除去できたかどうかはわからないが、少なくとも口にすることは無くなった。

しかし、世の中には、まだまだあの理事会の方々のように考えている人も多いのだろう。
それが、いじめ対策が一向に進まない原因のひとつでもあるような気がしている。

ジャイアンが許されるのではない。
ジャイアンやスネ夫のような子供は決して、許されてはならない。
あれは、最終的には、のび太がドラえもんの助けを借りて反撃したり、仲直りをするから、あくまでも、そのような物語として許されているのだ。
そこを勘違いしてはならない。

かつて、ドラえもんの役目を、教師や親や、その他の大人が担っていた時代があったと言う人もいる。
そうであったとしても、今やそんな大人はどこにもいない。
いじめが許される物語など、現実のどこにもない。

もちろん、僕の妻は、僕に対して、ちゃんと限度をわきまえてくれている。
「今日はここまでにしといたろ」

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