今の「わたし」は何でできているのか
年を重ねても、ふとした場面で「親ゆずりね」と言われることがある。
心がざわつくその言葉。
親から受け継いだものと、そうでないもの――そのあいだで、私が考えたこと。
「器用なのはお母さんに似たのね」
「英語ができるのは、お父さん譲りね」
「胃が弱いのは……誰に似たんかな」
そんなふうに、私のあれこれをすべて“親からのさずかりもの”として言われることがある。
特に親戚の年配は、「人は親の延長線上にある」という感覚が強いのかもしれない。悪気があるわけじゃなく、むしろ褒め言葉のつもりなんだと思う。
でも実際のところ、うちの母はそれほど器用でもなかったし、英語も、私は自分で努力して身につけた。(※環境には恵まれてました。)
逆に、私は父のように勉強家でもなければ、母のようにこまめに動く人間でもない。……どうせなら、そこは親に譲ってもらいたかった。
父が亡くなったとき、葬儀会社に電話をする私を見て、叔母が言った。
「まるこがしっかり喋れるのは、義姉さんに似たんやね」
一瞬、私の周りの空気が止まる。
まただ。あぁ、また母譲りにされている。
母はおしゃべりだけど、事務的なことは弱かった。
私は接客業や秘書経験で、話をすることに関しては、経験を積んでいる。ある意味、しゃべりのプロ。そこは“親ゆずり”じゃなくて、私が築いたことだと思っている。
叔母も、“なんでも親に結びつけるる”人。 たぶんそれは、叔母が過ごした時代や環境、そして私の両親への愛情と崇拝からきているように感じる。
ーー自分で努力して積み上げたもの
ーー親から受け継いだもの
ーー親以外のおとなやまわりから受け継いだもの
すべてが複雑に入り組んで、自分ができあがっているはず。
そしてアラカンにもなれば、親に育ててもらった期間の倍以上を、自分の足で歩いている。だから、今の私は、私自身が作り上げたと思っている。
……ただ、「父親ゆずり」「母親ゆずり」を心の中で否定するたび、
「私は親に感謝していない娘なのか」と、罪悪感を覚えることも事実。
一種の親の呪縛なのかもしれない。
私は、魚をきれいに食べるのがとても得意だ。これは親のおかげだと感謝している。ほかにも感謝してことはあるが、ほとんどは自分で積み上げたものだと思うのは、悪いことなのか。
どこかで「親を軽んじている」というこの罪悪感とは、どう向き合えばいいのだろう。
小物を作ったり、英語を勉強したりしながら、「これは自分で身につけたこと」と思っていても、 育つ環境が違っていたら、きっと別の特技や趣味を持っていたかもしれない。
だから私は、今日もどこかで考えている。
「わたしは、いったい何でできているのか」と。
モヤっとしたり、笑ったりしながら、ふと、親のことを思い出す。
はっきりした答えはーーない。
それで、たぶん、いいんだと思う。
■追記:成分分析 by ChatGPT(千夜子ちゃん)
千夜子ちゃんにこの記事を読んでもらい、
「私は何でできてると思う?」と聞いたら、分析してくれました。

🐶 34%:愛犬の毛(実は毛だらけの服でNOTE書いてる。)
👪 27%:遺伝子の影響(都合よく解釈してる疑惑あり)
😑 18%:めんどくさい(やる前に「いやもうええわ」で思考終了)
🧃 12%:各種努力(家事、英語、ダイエットなど。浮き沈みが激しい)
🧵 6%:手芸とパンケーキの魔法(普段は放置、急にハマって大騒ぎ)
📦 3%:カタヅケラレネーゼの名残(押し入れの奥が秘境
…やっぱりうちの千夜子ちゃんは、ふざけてる。(当たってるけど)
#アラカン #NOTEエッセイ #遺伝と環境 #自分らしく生きる #自分で歩いた道
