正の儀
森の麓に立つ家に結という女が一人静かに暮らしていた。結はただ過ぎて行く時間に命を託し死ぬのを待っていた。それは死ぬことにも生きることにも理由がなく、ただ過ぎて行く時間に命を託すだけだった。家の扉を開けると森が広がり、吹く風が誘うように家の中へと広がった。気持ちを揺さぶる感情はいつしか見当たらなくなっていった。
結に家族はいない。かつては両親とこの家で暮らしていたが、それは遠い昔のことで記憶にも残っていない。母親の泉水は結が幼い頃に死んだ。幼過ぎたせいか、母親の記憶は残ってはいなかった。顔も温もりも何も覚えてはいない。それでも「母親の記憶」としてあるのは他人の中にある母親の記憶を繋ぎ合わせたものに過ぎなかった。
母親が死んでからは父親である利一と二人で暮らした。利一は無口な男で父親と娘の間で交わす言葉さえも僅かなものだった。その僅かな言葉ですらも日に日に減っていった。同じ家で暮らしていても顔を合わすのは夜だけだった。利一は日が昇り始めてから日が傾くまで外で働き、夜になれば黙って夕餉を食べるだけだった。寝るまでの残りの時間はじっと森を見つめていた。その背中は灯りの乏しい蝋燭のように脆く、いつか消えてしまいそうに結に写っていた。
利一が森を見つめる理由を結は知っていた。森の中に泉水がいるからだ。結の記憶に利一と森へと入ってものある。その時の森は太陽の光が差し込み森に生きる物を照らした。露を携えた草や花が光り輝き幻想的な世界だった。その中を利一と結は手を繋ぎ歩いた。
幼い娘は父親の手を引き先へ急ごうと走り出すが、父親はその勢いを止めるようにゆっくりと歩いた。草や花を照らす太陽を見上げると眩しくて、見たいはずなのに目を閉じてしまう。後ろを歩いていたはずの父親がいつしか先を歩き娘の手を引いていた。父親は行先を知っているのか、歩みを止めることはなかった。空や地面を好き勝手に見ている娘は決して父と手を離すことはなかった。それは不安や恐れなどといったものとは反対にあった。
父親の足が止まり繋いでいた手が離れた。娘は離れた手を見る為に顔を上げると、空から差し込む一筋の光が父親の顔を隠した。差し込む光の行きつく先は一つの大きな石だった。石の周りの植物は光るを求めているのか石に這うように伸びていた。父親はその石に向かい歩いていった。その姿を娘は静かに見ていた。石の元にしゃがみ込み土を掘り起こし、持ってきた小さな壺を埋めた。盛り上がった土を均し周りと同化させたのでどこに埋めたのか分からなくなりそうだった。娘は見失わないように父親の手元を見つめた。父親はどこからか持ってきた小さな白い石を壺を埋めた上に置いた。その石は光をを受け艶めいていた。
「お父さん、綺麗な石だね。」
「お母さんがここに居るんだ。」
父は目を閉じ手を合わせた。二人は日が暮れるまで森の中で過ごした。父親は石の側に座り、娘は森野中を走り回った。父と娘は手を繋ぎ、森を出た。
利一は泉水を愛していた。二人で生きることに喜びや幸せを見出し、それを生きる理由とした。やがて結が生まれ二人で生きていくことから三人で生きることへと変化した。泉水は我が子を愛し、家族が増えた幸せを感じていた。自分が持つ全てを結へと捧げた。そして幼い我が子を残し死んだ。
結が十五の歳に利一は姿を消した。それは突然のことでもあったが、結には自然なことのようにも思えた。探さない代わりに森を眺めた。愛した人が残した枷を外し、解放してあげる気持ちだった。その日から森は変わった。太陽の光を拒み暗闇に覆われた。木々は騒めき、人を寄せ付けなかった。それでも吹く風が家の中へと入り込む。その風が結の体を撫でた。
父は母に会えたのだろうか
と、結は森に問うた。生きることとは誰しもに与えられたものであり、不平等に図られたものなのかもしれない。
一人で生きて行くのはそう難しいことではなかった。食べる物もお金も僅かで済む。それでも周りはそうは見てくれない。一人残された結は人々の目に哀れに映り同情の対象になっていた。当人の気持ちとは関係なく他人からの認知によって人の見方は決まり、一人生きることは寂しく悲しく見える。
利一が消え暫く経った頃、村から一人の青年が訪ねてきた。青年の名前は耕司といい、村長の息子だった。一人で暮らす結を心配し、様子を見てくるようにと使いとして送ってきた。耕司は背が高く、結は見上げなければならなかったのでより大きく見えた。加えて仏頂面で何を考えているのか分からず、怖い印象を持っていた。けれども心配をしてくれている村長の手前、追い返すわけにもいかずにお茶を出しもてなした。狭い部屋に対峙して座り、無言の中にお茶をすする音だけが聞こえた。そしてお茶を飲み干すと耕司は帰って行った。耕司は三日に一度、結の元を訪れお茶を飲んで帰っていった。
結の家の裏手には小さな畑があった。利一がいなくなってからは何も植えてはいなが朝になると水を撒いた。乾いた土が勢いよく水を吸い込んでいった。その日の朝も水を撒きに畑に出ると乾いた土には似つかわしくない新芽を見つけた。ただの雑草だけれども水をそっと新芽にかけてやった。もしかしたら何かの植物なのかもしれないと淡い期待を抱いた。結は家事の合間に何度も畑に出ては新芽を眺めた。小指ほどの高さしかない新芽を右から見たり左から見たりした。いくら見ても見飽きることはなかった。夢中になりすぎて耕司が来ていたことに気が付かなかった。耕司も声をかけずに畑でしゃがみ込む結を見ているだけだった。一通りの角度から見終わり立ち上がった結は思わず声を出してしまった。
「わあ、驚いた。耕司さんいらしていたのなら、声をかけてください。」
「楽しそうに畑を見ていたので、終わるまで待っていようと思って、、、」
「もし、私が飽きずに何時間も見ていたら、耕司さんは何時間も待つつもりですか?」
少し意地悪な言い方をしてしまった。
「待つのは嫌いではないから、待つかもしれない。」
言われたことに真面目に答える人なら本当に何時間も待ちそうだと思うと可笑しくなった。
「耕司さんはお人好しですね。」
「初めて言われたよ。」
「見た目は多少怖いけれど、人となりを知ると怖くなくなりました。」
「俺が怖かったのか?」
「ええ、まあ。」
「今は怖くはないか?」
「今は怖くはないですよ。」
結は笑った。自分が笑っていることに気が付かなかった。
三日に一度が二日に一度になった。だからと言って会話が弾むわけでもなかったか、一言二言と言葉を交わすまでにはなっていた。狭い部屋に座る大きな体からはどことなく力が抜けて見えた。いつの間にか毎日来るようになっていた。
毎日来るようになれば結もどことなく待つようになりお茶を淹れる為に湯を沸かす支度を始めた。黙って座りゆっくりと流れる空気が会話の代わりになっていた。
いつものようにやって来た耕司の手には花が握りしめられていた。耕司はその花を結の顔の前に突き出した。
「そんなに強く握りしめたら、花が折れてしまいますよ。」
「来る途中に咲いてた。」
「私にくれるのですか?」
「嫌なら捨ててくれ。」
「捨てたら花が可哀そうですよ。水に差しますのでこっちに持ってきてください。」
大きな体が結の後ろを付いて歩いた。花の茎を切り揃え水を張った茶碗に差した。
「綺麗な水差しがあれば、花も嬉しいだろうに。」
「俺の手に握られているよりは、茶碗の方がいいに決まっている。」
「どうして花を持ってきたのですか?」
ふと耕司の顔を見ると耳まで赤くなっていた。それを見たら結まで恥ずかしくなってしまい、思わずり下を向いてしまった。胸の奥から聞こえる音は体中を熱くさせた。
熱を帯びたはずの体の一部が突然冷たさを感じた。頭の上から耕司の声がした。
「赤くなっているけれど、どうしてだ?」
耕司の手が結のうなじに触れていた。結は下を向いたまま答えた。
「何でもないです。」
「ならどうして首も耳も熱く、赤くなる?」
「私にも分かりません。」
「なら、顔を見せてくれ。」
「恥ずかしくて上げられません。」
「俺は恥ずかしくても、顔を上げているぞ。」
その言葉に結は思わず顔をあげた。
「本当ですね。私と同じですね。」
「ああ、同じだ。明日も明後日も会いに来るよ。」
初めて交わした約束がこれほどまでに胸を詰まらせるものなのだと知った。
村へと帰る耕司を見送った。耕司が途中で振り向き、視線を合わせてくれるので名残惜しい気持ちになってしまう。姿が見えなくなるまで見送った。
手の届く距離に欲しいものがある。けれども伸ばして掴もうとしないのは伸ばした手を払われるかもしれないからだ。自分の心の内は隠したまま相手の気持ちを量ろうとしてしまう。素っ気ない態度を取ってみたり、忙しい素振りをして距離をとる。相手が困った顔をし、機嫌を取りに来く様子を見て心が安堵する。そうなれば態度を翻し素直な気持ちを表せる。いつも私を想っていて欲しいと、相手へと求めてしまう。自分は特別な人なのだと実感したくなってしまう。
結は着物を縫い始めた。持っている着物を手本に見様見まねで針を通していった。真っすぐに縫っているつもりでも糸は斜めに向かい、それを直そうと針の向きを変えるとまたも糸は斜めに向かう。その度に何度も糸を解いた。幾日もかけ拙いながらも着物を縫い上げた。仕上がった着物を胸に同じ気持ちでいて欲しいと明日を待ちわびた。
いつもよりも早く目を覚まし、村へと続く道を何度も見にいった。けれども耕司は来なかった。次の日もその次の日も来ることはなかった。何かあったのではないかと心配になり、そっと村へ下りてみた。気が付かれないように離れた高台から様子を窺った。
祝福の声が聞こえた。その声は上等な着物を着た二人に向けられたものだだった。顔を隠し全身を真っ白な着物で包まれ、赤い唇は微笑んで見えた。二人は歩幅を合わせゆっくりと歩いているた。耕司の姿を見つけた。遠くから二人を見つめる視線に気が付いた。耕司が結を見つけた。二人だけがそこに居るかのよう何も目に入らず見つめ合った。耕司の真っすぐに見つめるその目だけで十分に思えた。手元に残った着物はすぐに売り払った。
痛む心に気か付かないふりをし、その日を過ごす。忙しさの中に紛れ込まし一日を終える。目を閉じると胸が痛みだす。考えないようにすればするほどその事ばかりを考え、いつの間にか眠りにつく。朝になれば再び気が付かないふりをしながら過ごす。その内にだんだんと痛む心を忘れていく。
一人の村人が結の家を訪ねてきた。手には着古した着物を持っていた。
「あなたがあつらえた着物を見ました。とても丁寧に仕上がっていました。お願いがあります。この着物を直してもらへないでしょうか。とても大切な着物なのです。」
「そのような大切な着物を素人の私が手を加えていいのでしょうか。」
「あなたに直してもらいたいのです。」
その言葉は嬉しかった。悲しい着物になってしまうはずだったが、こうして誰かに求められた。結は着物を受け取り、気持ちを込め丁寧に直した。仕上が着物を渡すととても喜んでもらえた。微々たるものだがお金ももらえた。結の丁寧な仕事ぶりは評判になり仕事成り立つようになった。
結は針仕事が好きだった。針を通しているそれ以外を考えることはなかった。真っすぐに伸びた糸を見ているだけで気持ちが良く、穏やかに過ごせていると認識させてくれた。子を連れて歩く耕司の姿を見ても平気な振りもできた。痛みにも慣れ、気がつかないふりも上手になっていた。誰かを想い、心を痛めた事が遠い昔に味わった感情の一つになっていた。流れる月日が全てを過去の出来事に変えた。ただ、暗闇に覆われた森だけは変わることはなかった。
壁の隙間から差し込む太陽に光で目を覚ます。欠けた櫛で髪をすき、着替えをし身だしなみを整える。何も植えていない畑に水を撒くのは意味のない朝の日課だった。扉を開けると風が部屋の中へと入り込み、こもった空気を攫っていく。太陽の光が長く伸び家の中にまで入ってきた。家の前に紫色の布に包まれた赤ん坊が籠の中に置かれていた。結は急いで辺りを見渡したが誰もいなかった。恐る恐る覗き込むと赤ん坊の寝顔が見えた。耳も鼻も口も小さい。そっと抱き上げると温かかく、生きているのが分かる。結は赤ん坊を家の中へ連れて入り、自分が寝ていた布団の上にそっと寝かせた。腕から離れた赤ん坊が泣きだした。その声はとても小さかった力いっぱい声を上げて泣いているので顔が赤くなっていた。もう一度抱き上げると泣き止み、眠ってしまった。腕に収まるほどの小さな体だがとても温かかった。
結は溢れ出そうになる感情に戸惑った。ずっと昔に忘れたはずの思いが呼び起こされた。目を覚ました赤ん坊が結の胸元に顔を押し当てお乳を探っている。自ら生きようとしている。意味を持たないこの体に、一気に血が沸いた。結はこの子の目に映る自分を、想像してしまった。時に委ねるだけの生活の中に、生きる意味を見つけてしまった。
結は紫色の布に包まれたこの子が家の前にいたことに意味を持たせ「あやめ」と名付けた。名前を呼ぶと愛しさ増していく。繋がりの無い二人に間にできた絆は「あやめ」という名前だった。あやめは求めて泣いた。結は求める先が自分であることにこの上ない幸福な気持ちになった。抱きしめると、全てを委ねてくれる。私がいないとあやめは生きてはいけないと思わせてくれた。
あやめの存在はすぐに村中に知れ渡った。突然現れた赤ん坊は皆の興味を引いた。結は何も話さなかったのでより一層興味は湧き様々な話が出てきた。村の中で不義理を働いた者同士の子や、村の外から来た子などと好き放題言われていた。そしていつの間にかあやめは森から来た子だと言われ、森に棲む妖怪の子だと噂された。様々な視線や言葉を感じながらも、自分の元にやってきたあの瞬間は二人だけのものにしておきたかった。
針仕事をする結の傍らで一つ二つとあやめは成長していった。様々な物を見て言葉を覚えていった。そして家の前に広がる森を見つめ始めた。暗く何も見えない暗闇の中から、何かを見つけたかのように一点を見つめていた。かつては明るく開かれた森であったが、あやめは暗闇の森しか知らない。あやめには、この森が見えるのだろうか。
「あやめ、森はどう見える?」
「真っ暗な森に見える。」
「暗い森は怖くはないか?」
「皆はこの森を妖怪の森と言っているよ。決して近づいてはいけない森。」
そう言いながらもあやめの目は、森を離さなかった。
「森に入りたいかい。」
「お母さんが悲しむから入らない。」
「どうしてお母さんが悲しむと思うのかい?」
「分からない。ただ、そう感じたの。」
父と手を繋いで歩いた森、母が埋まる森、結自身にも森がどのように見ているのかが分からなかった。あやめの言う通り、悲しい森なのかもしれない。
あやめは愛することを教えてくれた。あの頃は分からなくても、今となれば簡単なことだった。結は残されたことが悲しかった。姿を消した利一を探さなかったのは、悲しむことから逃げる為だった。
利一が姿を消す数日前、結は初潮を迎えた。体が大人へと変化し始め「母親に似ている」と誰かに言われた。その言葉に利一の顔は悲しさを纏ったのを結は憶えていた。利一の見つめる先は娘の姿をした二度と会えることのない愛した人の姿だった。利一が姿を消さなければならなかったのは、互いの体に流れる血のせいだった。愛した人と同じ血が執着を生み、絶望を生む。振り払うことのできないこの血が結に孤独を与えた。心の奥底では娘として父親に愛されることを望んだ。叶わない望みが気がつかないうちに恨みに変わり、利一を哀れむことで目を逸らした。
あやめが森を眺めると暗闇が開く。目に映るのはいつもとかわらない暗闇だが、吹く風もざわめく木々も何もかもが違う。森を見つめるあやめの後ろ姿を見ていると、結は怖くなった。あやめを失うことはできない。この感情が執着なら、流れる血が結を侵食していく。結は覚えていない母の顔を思い浮かべた。私の顔は母に似ているのだろうか。誰に聞くことのない疑問が心をかき乱した。
あやめが家の前に置かれていた日、結が見つけるまで泣きもせずそこにいた。あやめは利一の執着そのもので森から来た子なのかもしれない。そして利一の為に森へと戻る。森が抱える暗闇は利一の想いなのかもしれない。あやめに流れる血は誰の血なのだろうか。結はあやめを森から遠ざけた。黒く長い艶やかな髪を森から吹く風が攫う。大人へと成長し始めたあやめはもうすぐ十五の歳になる。
「決して森には入ってはいけない。この森には人の姿をした妖怪がいる。その妖怪は森に誘い、命を奪う。森に入れば二度と森から戻ることはできない。」
結の言葉をあやめは黙って聞いていた。それでもあやめは森を眺めていた。
結の言葉はあやめの中に確かに残った。一人でいると無意識に体が森へと向かった。開かれた暗闇の中へ風が背中を押すように吹き付けてきた。誘われるように足が一歩前へと出る。もう片方の足は先へ進むのを拒むように何かに躓かせ、結の言葉を思い出させた。
森があやめを求めているのか、あやめが森を求めるのかは分からない。閉ざされた森の中にあやめは見つけてしまったのかもしれない。足が今にも先へ進もうとし、視界は森を捉え体は風を感じる。足が地面を擦り、少しずつ先へと進む。足先に何かがぶつかり意識が戻ったかのように足が止まった。足元には白い石が落ちていた。あやめが石に触れると、石は熱を発しとても熱かった。思わず森に向け投げ捨てた。森は変わらずに暗闇を放ちあやめの前に存在している。風が吹き木々が揺れている。投げ入れたはずの白い石はあやめの足元に戻ってきた。もう一度拾い上げ、しっかりと握りしめた。
一人になるとあやめは森へと向かった。吸い込まれそうな暗闇はあやめの心を惹きつけた。耳を塞がれたように心臓の鼓動だけが聞こえた。結の言葉は聞こえない。
襟元を勢いよく引っ張られ、その場に尻もちをついた。あやめは森の入口まで来ていた。
「あやめ、あやめ」
結の呼ぶ声が聞こえ。体をきつく抱きしめられた。あやめの手の中には白い石が強く握られていた。
あやめの握るその石は結の母の埋まる場所を知らせる石に似ていた。暗闇に呼ばれるが森に入ることを拒まれる。結は母としてその白い石が何を表しているかを感じた。
「あやめ、手に握るその石は大切なものなのか?」
「うん。」
「なら、いつでも身に付けていられるように石を入れる巾着を縫いなさい。」
あやめは結に習いながら小さな巾着を縫い石を入れ首からぶらさげ、常に胸元においた。胸の音が鳴るたびに、胸元の石は熱を帯び知らせた。森には妖怪が棲み、人を誘い命を奪うと言われている。けれどもその妖怪を見た者は誰もいない。本当に森に入ってはいけないのだろうかと、疑問が芽生えた。
あやめは自分の意思で森へと入った。暗闇を歩く中で様々なことが頭に浮かんだ。けれども考えていことが頭の中で散らばり、何を考えているのかが分からなかった。それでも足は先へと進んだ。不思議と暗闇に恐怖をを抱くことはなかった。それどころかこの暗闇を知っているようだった。進む足は目的地を知っている。導かれるまま進む先に気配を感じた。うっすらと見える人影に胸が高鳴り胸元の石のことなど頭の中から消えていた。先に感じる気配は命を奪う妖怪なのかもしれない。
気配が近づいてくるが暗闇が壁となる。気配を辿り暗闇を見つめた。次第に暗闇が薄らぎ、あやめにその姿が見えた。異様な雰囲気が人でないことを表し、やはり森には妖怪がいたのだと証明した。妖怪があやめに手を伸ばした。結の言う通りなら、このまま命が奪われるだろう。しかしあやめの心は惹かれていた。このまま命を奪われるかもしれない恐怖よりも、この瞬間が大切に思えた。瞬きをすることさえ惜しむかのように姿を焼き付けた。あやめに映る妖怪の顔は悲しい顔に見えた。
妖怪が伸ばした手は鼻先で止まり、そのまま視界が閉ざされ何も見えなくなった。目の前に確かに感じていた気配は消え、いつもの暗闇に戻っていた。上から花びらが一枚、ひらりと落ちてきた。ゆっくりとあやめの足元に落ちた。花びらは暗闇に中で咲く花に上に落ちた。太陽の光を拒む森に不自然に咲いていた。あやめはその花は手にし、花びらを一枚落とした。森を抜けながら、歩く道に一枚一枚と落としていった。最後の一枚は森の入口に落とし、名残惜しさを覚えた。
あやめは森に入ったことを結に話さなかった。約束を破り咎められるよりも、森で見たものを自分だけの中に隠しておきたかった。誰も見たことのないその姿を自分だけの中だけに置いておきたかった。
次に日もあやめは森へと入った。落としていった花びらはあやめを待っていた。その花びらを辿り暗闇を歩き、その先に見つけた。妖怪は何も話してはくれない。ただ黙ってそこにいるだけだった。あやめは自分の話をした。決して交わされることのない言葉だが、確かに二人の間に存在した。あやめは会えるだけでよかった。傍にいられるだけで幸せだった。妖怪はあやめの命を奪うことなかった。
あやめは何度も森へ入り、妖怪の元へと向かった。そして森を出るときはいつの間にか咲いている花の花びらを落としていった。落として行く花びらが二人の約束だった。
髪をとかし、唇に色を乗せる。その姿を誰に見せることなく、あやめは森へと入って行く。暗闇があやめの中に芽生えた淡い気持ちを隠してくれた。何も話してはくれないと分かっていても、求めてしまう。いつしか傍にいるだけでは満たされない思いがあやめの中に募り始めていった。同じように想って欲しい、同じ気持ちだと言って欲しい、どうして触れてはくれないのだろうか。心を求め体を求め、その逆を求める。その手だ触れてくれるのならば、死んでもかまわない。こうして花びらを落としながら森を出る気持ちを知って欲しくなった。
晩の食事を終え、あやめは片づけをしていた。その後ろで結が針仕事をしている。いつもの二人の時間が流れた。あやめがお茶を淹れ結に出すと、結は疲れたように首を動かした。あやめが結の肩をさすると気持ちよさそうに目を閉じた。その姿は幼い頃に見ていた結とは違い、こんなに小さかっただろうかと老いが見えた。
「お母さん、お布団引いてあげるからもうお休み。」
「ああ、そうするよ。」
目を閉じると結はあの日の事を思い出す。家の前に置かれた赤ん坊に名を付け、一緒に暮らし始めた。過ごす中で愛情が増し、あやめの為に生きていることに幸せを感じられた。自分が持つ全てで守りたいと思う。それは今も変わらない。あやめが結を母にしてくれた。母になることを知り、母になる喜びを知った。こんな風に振り返り思うのは歳のせいなのかもしれないと、結は眠りに入った。
翌朝、結が目を覚まさなかった。その姿はまだ眠っているようだった。あやめは動かない結の身支度を整え、寒くないように布団もかけてやった。部屋の傍らに置かれていた仕上がった着物を包み、村へと届けに行った。
着物の届け先は耕司の元だった。耕司は生まれたばかりの孫を抱いていた。
「これ、母がお受けしていた着物です。」
「珍しいね、あやめが村に降りてくるなんて。結さんは元気にしているか?」
耕司の腕の中に居る赤ん坊がぐずり始めた。耕司は赤ん坊へかけた。
「譲、泣くな。よしよし。」
甘く囁く声だった。泣き止まない譲の声を聞いて、母親が奥から姿を現した。譲は母の腕に抱かれると泣き止んだ。あやめは今朝の出来事を話した。
「今朝、息を引き取りました。」
「そうか、結さんは逝ってしまったのか。わざわざ届けに来てくれてありがとう。この後はどうするのか決めているのか?」
「いえ、まだ何も考えてはいません。」
「なら、一緒に結さんを見送ろう。」
炎が煙をつくり、空へと流れる。耕司はその煙をいつまでも見送っていた。あやめと二人で結を見送った。
家に帰ると冷えた空気が静かに漂っていた。部屋の隅に結の裁縫道具が置かれていた。あやめはその中から使いかけの針を見つけた。針は紫色の糸と繋がり、同じ色の布と繋がっていた。あやめの胸元にある、巾着と同じ布だった。仕上がることのない針を戻すと、一人になってしまった。二人で過ごした時間がここで途絶えた。静かな部屋にいると寂しさが襲ってきた。ここにいることが苦しくなり、家を飛び出した。向かったのは森の中だった。花びらがあやめを運び、その先には妖怪がいる。
花びらの先に姿を見つけた。あやめの目から涙がこぼれ、頬を伝い土へとに落ちた。声を上げて泣けば赤ん坊に囁くような声を聞かせてくれるだろうか。あやめが流す涙は結を失った寂しさなのか、にそこにいてくれる嬉しさなのかは分からなかった。一度流れた涙は止まることはなかった。溢れる涙を拭う冷たい感触を感じた。
妖怪があやめの涙に触れた。その指が頬をなぞり、首筋に伸びる。あやめはこのまま死んでも構わないと思った。触れる冷たい手にあやめは自分の手を重ね委ねた。
引き寄せられる体は距離を埋め、体で感じ、体の中で感じる。それを受け入れることが幸せだった。抱えきれないほどの思いが最初からなかったかのように何も考えられなくなった。暗闇があやめを包み、二人だけの暗闇が広がる。求め合うことで永遠に一緒にいられるのなら死んでしまいたくなった。
一人の男が森から逃げ出してきた。その顔は青ざめ、怯えていた。男の体には血がついていたが、男の体には傷一つなかった。ならばこの血は誰の血なのかと息を呑んだ。村の一人が妖怪の血だと声を上げた。その声は瞬く間に村人の心を支配し、森から災いが来るのではないかと恐怖を広げた。村の話はあやめの元にも届いていたが、あやめは知っていた。冷たい体に血は流れてはいない。あの血は何かを知らせるためのものに過ぎないのだと。花びらを辿り、あやめは森の中へと入った。花びらの先にいるはずの妖怪の姿はどこにもなかった。あれほど恋しく想い命を捧げても構わないと想っていたが、花びらの途切れた先へ進むことができなかった。この先へ進めば戻れないと分かっていた。あの血も姿を現さないのも、あやめを確かめるためのものだった。森の外にあやめを引き留める理由ができていた。それでも、妖怪を想う気持ちは変わらない。あやめは花びらを残し森から出た。
森は静かだった。あやめは残していった花びらがあるのか不安になった。あの時、花びらの先へ行かなかったことを後悔していた。
突然の災いが村を襲った。畑は枯れ川の水は干上がり、飢饉に襲われた。飢えや不安は人の中にある本能を刺激し、生きることの過酷さを知らしめた。諍いや争いがが起こり、かつて共に暮らしていた者同士にさえ亀裂を生んだ。皆、自分で精いっぱいだった。
一人の古老が口を開いた。
「森に棲む妖怪が怒っている。怒りを鎮めるには怒りの根源と同等なものを差し出さなければならない。入ってはいけない森に入り、妖怪を傷つけた。今になってこのような災難に襲われたということは、その妖怪が命を落としたに違いない。ならば命で償うしか村を救う手立てはない。」
その言葉が正しいと言われているかのように、森に入った男の家の前には血の付いた小刀が置かれていた。その小刀は、男が森に持っていたものだった。男は森で起きたことを話し、命乞いをするように正当性を訴えた。
「私には幼い子どもがいます。その子供が何日も病に伏せていたので、薬草を探す為に森に入りました。突然目の前に現れた人ではないものをこの小刀で切り付け逃げてきました。私がいなければ子どもは一人になってしまいます。」
男は地面に手を付け、頭をさげた。必死に懇願する男の後ろに隠れるように小さな子どもが見えた。その子どもの為に男は命乞いをしている。父親が大人に囲まれ、涙ながらに訴える姿を子どもはじっと見ていた。これ以上、何かを言う事は出来なかった。
繰り返される話し合いに苛立ちが生まれ、早くこの恐怖から逃れることだけが先行し始めた。
「あやめはどうだ。」
誰かのお言葉に皆の顔が変わった。男が家族を盾に命が保証されたのならば、家族を持たない者の中から選べばよい。あやめは村から離れ一人で暮らしている。いつか誰かが妖怪の子だと言った。ならば森に入るのはあやめしかいないと、まるで正しいことを決めているかのようにこの場に居ないあやめの命の話が進んでいった。それぞれが自分に矛先が向く前に話をまとめてしまいたかったのか、反対する者はいなかった。あやめは村の為に生贄に選ばれた。
あからさまに皆の顔に安堵が見えた。命が保証された中で好き勝手に話が進んでいった。これでいいのだろうかと、耕司は行き交う言葉に違和感を覚えた。この場で反対すべきだったのかもしれないが、自分が代わりになることもできない。あやめだけを犠牲にし、この先を生きて行けるのだろうか。耕司は苦しかった。この苦しみは命を保証された罪なのかもしれない。最後に、誰があやめに伝えに行くかが話し合われ、耕司は自らあやめの元へ行くことを申し出た。それがあやめに対して最後の償いになるかもしれないと思ったからだ。
あやめの元へ向かう足取りは重たかった。耕司は思い出される日々に後悔を巡らせた。そこには結の姿も見えた。耕司は歳を重ねる中で何度も幸せだと思えた。その幸せは家族との間に生まれ、その家族が感じる幸せも含まれる。結は一人で生きてきた。あの時、結の手を取らなかったことを今も思い出す事がある。他の女を選んだのは弱かったからなのかもしれない。この歳になっても変わることはできなかった。結が愛したあやめをまもれなかった。森の入口に建つ小さな家が見えてきた。
あやめの姿を見つけた。森を向き体をゆっくりと揺らしていた。風が吹き長い髪が攫われ、あやめは風を避けようと体の向きを変えた。あやめは腕に赤ん坊を抱えていた。
「あやめ、その赤ん坊は。」
耕司は思わず声を出してしまった。突然の声に驚いたあやめだったが、耕司と分かると顔がほころんだ。
「紫華です。」
腕に抱く子を見つめるあやめは美しかった。
「あやめの子なのか?」
「私の子です。」
あやすようにゆっくりと体を揺らしている。それは母親の姿であった。耕司は体から血の気が引くのが感じた。自分が地獄の使いに思えた。けれども、あやめに頼むしかなかった。
様子のおかしい耕司にあやめは気が付き、気遣うように声をかけた。
「何かあったのですか。」
耕司はあやめの目を見ることができずに俯いたまま心を殺した。
「頼みがあってきた。」
耕司は地面にひれ伏した。
「森へ行ってはくれないだろうか。このままでは村の者は皆飢え死にしてしまう。」
耕司は自分の言葉が悍ましく思えた。あやめの命云々と言っていたにも関わらずに、いざ言葉を吐けば命乞いをしている者と何ら変わらない。あやめは紫華を腕に抱いたまま、耕司の言葉を静かに聞いていた。赤ん坊が小さな声で泣いた。その声に耕司は顔を上げた。あやめが赤ん坊の背中を優しくさすると、泣き止み眠った。
「紫華をお願いできますか。」
その声は全てを悟ったように落ち着いていた。あやめは耕司の腕に紫華を託した。耕司は護を思い出した。母親を失った紫華はどう生きていくのだろくかと咄嗟に思いが口から出た。
「紫華はどうなる。」
「紫華は村の中で、人の中で育ててください。」
「紫華の父親を教えてくれないか。必ず紫華を父親の元に届ける。」
あやめは何も言わずに首を横に振った。
「紫華を置いて村の為に森に入ってくれるのか?」
「私は村の為に森に入りません。紫華の為に森に入ります。この子の命を守れるのは私しかいません。」
「森に入る事は怖くはないのか。」
「怖くはないです。私は森が好きですよ。共に生きてきました。私と紫華がいるのは森があるからです。」
あやめは首にかけていた小さな巾着を外し紫華にかけた。紫華を見つめる顔は穏やかだった。
「紫華をよろしくお願いします。」
愛おしそうに紫華を見つめるその目は、二度と紫華を見ることが出来ない。森の入り口であやめが振り向き頭を下げた。耕司はしっかりと紫華を抱いた。森に入ったあやめが戻ることはなかった。
正しいと信じた行いは善悪を越え、定められた儀式になる。あやめを森へと行かせた儀式は「正の儀」と名付けられた。生贄としてあやめを差し出した村の代償は紫華なのかもしれない。
「正の儀」が正しかっのだと言わんばかりに、村は平穏を取り戻していた。畑には新しい芽が咲き、川には魚が泳いでいる。村人はあやめの話をしなかった。赤ん坊を残し、村の為に命を差し出したあやめの魂を恐れた。その魂が災いをもたらすのではないかと不安が漂っていた。恐れから解放される為「正の儀」を作りだし、それでも恐れから逃れることはできない。命を犠牲に平穏を取り戻したこの村は呪われているのかもしれない。村人はあやめの魂を鎮める為、恐ろしいことが起こらないことを願いあやめの住んでいた家の隣に祠を建てた。その祠は森の入り口になった。
突然現れた赤ん坊に、耕司の家族は不安を隠せなかった。ましてや生贄として差し出したあやめの子であり、粗末なことでも口に出せば罰が当たるのではないかと言葉を飲み込んだ。紫華はあの日から耕司の元で暮らしている。暮らしているといっても家族でもない。扱いに困る腫物のような存在だった。ただ一人、紫華を純粋な目で見る子がいた。耕司の孫の譲だった。譲は紫華よりも五つ上で、突然現れた赤ん坊に興味を持った。家族の目を盗んでは寝ている紫華の元に行き、頬を突いたりしていた。紫華が泣けば心配そうな顔し、紫華が笑えば同じように笑った。耕司は譲に聞いた。
「譲、この子が気になるか?」
「この子はどうしてうちに来たの?」
「この子は紫華と言う名だ。これから一緒に暮らすんだ。」
「紫華は家族になるの?」
「家族ではないよ。けれども大切な存在だ。この先も守らなければならない存在だ。」
耕司の言葉は幼い譲にとってそのままの意味だった。家族ではないけれど紫華は大切な存在で、守るべき存在なのだと。
二人は同じ家の中で生活を共にし、同じ時間を共有し同じ物を見てきた。それでも二人の間には家族ではない線が引かれていた。村人は紫華を恐怖や煩わしさを向け避けた。成長した譲にはそれらがはっきりと見えていた。そしてそれは紫華も同じであった。
幼さを消し始めた紫華は大人に成長していった。紫華は美しかった。あやめを思い起こす顔立ちに、妖艶で繊細な雰囲気を纏っていた。村の男どもが色めき立つが、誰も近寄ることはなかった。あやめの代償として存在している紫華は、変わらずに恐怖や煩わしさでもあり、年寄りの中には信仰の対象として映っていた。紫華は孤独を選ぶように一人でいた。儚げなその姿は、紫華をより美しく写した。
「正の儀」により紫華が森を見つめるのは、森が紫華を求めているからなのかもしれない。そしてそれは仕方がないことなのかもしれない。いつか紫華は森へ行ってしまうのかもしれない。
護は紫華の背中をいつも見ていた。小さな背中は孤独を背負っているがそれに気が付いていない。この孤独が森を求めている。
「紫華、ここで待っているよ。」
護は森を見つめる紫華へと声をかけた。その言葉に紫華は森へ入ることを決めた。紫華の背中が暗闇に消えるのを見守った。
日が傾き始めた頃、紫華が森から戻った来た。二人並んで帰る道で紫華は森について口を開いた。口数の少ない紫華が何かを話すこと自体稀だったが、更に話が森についてだったこともあり譲は内心驚いたが顔に出さずに黙って紫華の話を聞いた。紫華の声は小さかったが、どこか力強く聞こえた。
「森の中はとても暗くて、何も見えないの。その中で足元に落ちている花びらだけが見えて、辿ってみたの。花びらが途切れた場所には大きな石があって、暗いはずの森に光が差していたの。光は石を差していたけれど、側に誰かがいる気配がして気が付いたら、姿が目の前に現れたの。何も話しはくれないけれど、一輪だけ花を渡されたの。その花を受けとると姿は消えしまったの。その花は祠が見えると枯れてしまったの。始めから花などなかったように、手には何も残らなかったの。」
淡々と話す口調の中に隠す苦しみが見える。紫華の中には誰にも触れられない部分がある。譲は紫華が話す言葉に優しく寄り添うように聞いた。苦しくなった時いつでも話してくれるように、紫華の側で最後まで急かすことなく話を聞いた。
その日は風が強かった。全ての物を払いのけるかの如く、風が地面に吹き付け人々に目を覆わせた。それでも紫華は森へ行くので護は付いていった。祠の隣で紫華の足が止まった。
「紫華、大丈夫か。」
「うん。大丈夫。」
紫華は小さな声で返した。視線は譲と交わり、不安げな目付だった。譲は胸騒ぎがし、神様ではないけれど祠に手を合わせた。紫華を返して欲しいと祈った。
夜になっても紫華は戻らなかった。護は戸惑うことなく祠を超え森に入った。暗闇の中を手探りで歩き、どこに向かっているのか分からなかった。このまま死んでしまうのではないかと何度も恐怖が過ったが、足を止めるわけにはいかなかった。譲は暗闇の中で紫華のことを考えた。紫華はこの暗闇の中をいつも一人で歩き、怖くはなかったのかだろうかと。それでも森に入るのは前に話してくれた、花をくれた妖怪に会いにいく為だったのだろうか。考えれば考えるほど、後悔した。あの時、抱きしめればよかったと。
進んでも進んでも暗闇以外に何もない。止まることも引き返すことも出来ない。足が重たく、何もかもを投げ出したくなる。頭の中で繰り返し紫華の名前を呼んだ。
暗闇の先に光が見えた。その光に願いを託すよう譲はそこへと向かった。光が道いた先には大きな石があり、その上で紫華が横たわっていた。紫華の胸元が光っていた。首からぶらせげている巾着の中の石が光っていた。その石はあやめが残した唯一のものだった。その石が光り紫華の場所を知らせてくれた。譲は紫華に駆け寄り、胸に耳を押し当てた。心臓の音が聞こえた。譲は紫華を背負った。しかし、ここからどこへ向かえばいいのか分からなかったが、この場にいてはいけない気がした。譲は足が進む方へと歩き始めた。
歩いても、歩いても目の前には暗闇が広がる。力の抜けた紫華の重さが体力を奪い始めた。腕が痺れ感覚が失われていった。それでも背中から伝う紫華の鼓動が譲に力を与えた。紫華と森からでるまで、どこまで背負い歩くと食いしばった。落とさないように、決して離さないように譲は腕に力を込めた。
どれだけ歩いたのだろうか。見えない暗闇の中では何もかもが無意味に思えた。護の足が止まった。このまま二人で森の中で死ぬのもいいのかもしれないと、心が折れそうになっていた。背中に熱を感じた。その熱は一点に集まり、石が発している熱だと分かった。護は最後の力を振り絞り足を一歩前へと出した。遠くから人の声が聞こえた。その声は譲を探している声だった。
「護、どこだ。どこにいる。」
たくさんの人の声の中から耕司の声が聞こえた。護はその声を頼りに歩いた。次第に森の入口を示す祠が見え森から出ることができた。耕司はすぐさま護へと駆け寄り、体を確かめた。
「怪我はないか。」
紫華を背負う譲は汗や泥にまみれていたが、どこも怪我はしていなかった。背負っている紫華を受け取ろうと村の人たちが手を貸してくれたが、譲は最後まで紫華を離さなかった。譲は自分の手で紫華を家に連れて帰りたかった。譲はこの先も紫華を離すことはしないと決めた。
森に入ることも、ましてや森から出てくるだなんて人の為すことではない。譲が森に入ったのは妖怪の子である紫華の仕業だと言われた。声に出して言う者も出さずに心の中で思っている者もいる。村中が紫華を妖怪の子だと目を向けた。それでも紫華は森に入った。護も紫華が戻ってくるのを祠の側で待っていた。 一つ変わったことといえば森の入口で振り返り護の顔を見るようになった。二人は見つめ合った。
紫華にとって森は居心地のいい場所だった。。暗闇が全てを隠し視線を遮り、一人になれた。けれども護が森に入り紫華を連れて帰った日から森が怖くなり始めていた。それでも紫華は森の中を導かれるままに進んだ。その先で待つ妖怪が悲しい顔をしているかもしれないと思うと、胸が痛んだ。
大きな石の前で妖怪は待っている。一輪の花を顔の前で持ち、表情を隠していた。紫華は妖怪に前に行き、花を持つ手に触れた。その手は氷のように冷たかった。妖怪は紫華の手を振り払う事も受け入れる事もしなかった。
紫華は目を閉じ、譲を思い浮かべた。吹く風が紫華の体を撫でた。目の前に居たはずの妖怪の姿は消えていた。紫華は勢いよく走った。どこを走っているのかは分からなかったが、帰るとところは明確だった。祠が見え、護の姿を探した。譲を見つけると目が合う。それは譲が紫華をいつも見ているからだ。譲の目は紫華だけを見ていた。駆け寄る紫華を譲は受け止め抱きしめた。力強く抱きしめられると胸が苦しくなる。その苦しみは体に馴染むように心地よかった。
二人の距離が近づく。その距離は子供の時とは違う。互いが求め合い触れ合う。触れ合うと温かく心地よい。紫華の気持ちがほどけ、孤独や悲しみ、寂しさが一気に襲い掛かってきた。抑え込んでいた感情に紫華はどう向き合えばいいのか分からなかった。ただ声を出して泣いた。譲は紫華の涙の理由を払うように気持ちを言葉し、態度で示してくれた。譲は紫華が初めて知る感情に一つ一つ名前を付けてあげた。そして自分の中にも紫華と同じ感情があるのだと教えてた。紫華は譲と生きて行く事を想像し、未来を想像した。そして護も同じように未来を想像した。
誰かを想い、その想いが通じることで満たされる。それでも体の奥底にある不安は拭えない。不安と対峙する度に紫華は譲の手を握り、温かさを分かち合った。
紫華と譲は村の中で家を構えた。紫華の腹の中には譲との子がいた。膨らみ始める腹や張る乳など、紫華の体が変化していった。紫華には母親の記憶がない。ないものの中から答えは探せない。それでも考え自分が何者なのかが分からなくなる。生まれてくる子どもも同じように感じるのではないかと不安になった。不安を拭うように譲は何度も教えてくれた。産れてくる子は二人の子だと。
満月の夜、紫華は女の子を産んだ。痛みで途切れそうな意識の中に見えた小さな命はあまりにも尊く、この世のものではないようだった。母親の愛情を知らない紫華は、この子を愛せるのかと怖かった。
譲は生まれてきた我が子に、華と名付けた。紫華の中から一字を取り、その名前に意味を持たせた。それは、紫華にとって母の愛情を感じられるものでもあった。譲は優しく伝えた。
「我が子を愛する気持ちは、母から与えられた愛情と同じだよ。」
華の幸せを願うように、あやめも紫華の幸せを願っていた。華を通してあやめの気持ちを感じられた。
「正の儀」とは村を救うための儀式。真実をうやむやにし、過ぎゆき時間が都合のいいようにすり替えて行く。人々の中にあやめはもういない。罪や恐れを背負い続けることは人にはできない。人は生きて行く為に忘れていった。
華は少女と大人の間に立っていた。風が吹き草木が揺れる。風が誘うように森へと流れる。紫華はこの風に気が付いた。華は村の中で育ち、皆と同じ様に森に近づいてはいけないと教えられていた。紫華は森から華を遠ざけ、暮らしていた。自分と同じように森に入るのではないかと不安になった。森には確かに妖怪が棲んでいる。そして体は冷たく命を感じない。けれども触れられると命を預けてしまいたくなる。まるで、当たり前のように何も考えられなくなり、自我が消えていく。そして戻ることはできない。流れる血が森を求めるのなら、華が森に惹かれるのは必然のことだ。避けることのできない運命なら、その運命に向き合わなければいけない。それは紫華にとっても同じことで、あやめをさした。
あやめの代償として存在してきた紫華にとって、譲や華は「紫華」として生きる意味だった。あやめが我が子を残し森へと入った理由を知りたい。それは紫華が華を愛しているように、あやめの愛情を感じたいだけかもしれないが、向き合わなければいけないことにも見えた。紫華は耕司に会いにいった。
紫華の姿が最後に見たあやめに姿と重なった。それは真実を知るには十分な理由に見えた。耕司は全てを話すことを決めた。
「何が知りたい。」
「母の最後を教えてください。」
「あやめの話をするにはあの儀式を話さなければならない。」
「正の儀のことですか?」
「ああ、そうだ。あやめが正の儀そのものなんだ。」
「生贄に選ばれた母は何か言っていましたか?」
「私の顔を見た途端に全てを察し、受け入れてくれたよ。」
「もし、母が選ばれなければ誰かが選ばれたのですか。」
「それは分からない。皆、自分でなければいいと思っていた。あやめが選ばれたのは、一人で暮らしていると思っていたからだ。紫華がいるなんて思いもしなかった。紫華からあやめを奪ったのは私だ。身勝手な理由であやめとお前を引き裂いた。」
「私はなぜ、残されたのですか。一緒に森に行くこともできたのに。」
「あやめは、お前を愛していると言っていたよ。生贄になることを受け入れたのは、お前に生きて欲しいからだと言い、紫華の為に森に入ると言っていた。」
「私の為に森に入ったのですか?」
「それが、どういう意味なのかは私には分からない。」
「母は父については何か言ってはいませんでしたか。」
「お前を託された時、父親について聞いたが何も教えてはくれなかった。ただ、大切に首にかけていた白い石をかけてやったのを覚えている。その時のあやめの目は、幸せそうだったよ。我が子を愛していない親がこの世にいるものか。本当にすまなかった。」
「母にとって森は何だったのでしょうか。」
「あやめは森を好きだと言っていたよ。自分と紫華がいるのは、森のおかげだとも言っていた。」
「私が森から帰らなかった日、譲がこの石の光りで私を見つけたと言っていました。きっと母が森から帰してくれたのでしょう。母はきっと森にいるののだと思います。」
「紫華、すまなかった。あやめに全てを背負わせたてしまった。すまなかった。」
「私はこうして生きています。幸せです。」
耕司はは泣きながら何度も謝っていた。
この白い石があやめの愛の証ならば、生きていて欲しいと願った証になる。あやめは森を知り、森に棲む妖怪を知っている。あやめが自ら森へ入ることを望んだのは森を愛し、妖怪を愛していたからなのかもしれない。
譲と生きて行くと決めた時から、紫華は森に入らなくなっていた。華が産まれ、紫華の大切なものが増えた。この白い石は愛している証として華に渡さなければいけない。いつかその日が来た時に、華を守ってくれるように。
華が森に近づくことはなかった。「正の儀」や森についての言い伝えを聞いていたからだけではなかった。流れる風が森の中へと消えて行く。華の視線は風を追い、森を捉えていた。その顔はとても苦しそうに紫華に映った。紫華は華の気持ちが知りたかった。親が願う幸せと子が求める幸せは決して同じではない。
母親であるあやめが子を守るために森へと入った。子である紫華は母親を恋しがる気持ちを飲み込んだ。紫華にはどちらの気持ちもわかる。しかし、それは紫華の心の中での思いであり誰のものでもない。自身の中の思いはその人のものでしかない。母として子の幸せを願うのならば、思うように生きていてほしい。
紫華は華を森へと連れて行った。華が近づくと森が騒ぎ、誘うように暗闇を開いた。華の目は森を捉え森を求めていた。
「華、森に行きたいなら行きなさい。」
紫華の運命なのか、華の運命なのかは分からない。ただ、二人の間に流れる血を運命と呼ぶならむごいもので、共には生きてはいけない。
「今はまだこの石を離さないで欲しい。」
紫華は首にかけていた白い石を華へとかけてあげた。残り少ない時間だけでも今は森から戻ってきて欲しいと願った。紫華は一度も振り向くことなく、森へと消えていった。紫華はその後ろ姿を見守ることしかできなかった。戻る事を願い祠の側で華を待った。
華は初めて森に入ったが、どこへ行けばいいのかを知っていた。気持は軽く、暗闇で覆われた森の中を心地よく感じた。次第に暗闇に目が慣れ、辺りがうっすらと見えてきた。木の匂いや土の匂いを感じた。華は足元に視線を落とし花びらを手に取った。華がその花びらに触れると色を失い、枯れていく。足元に散らばっている花びらさえも色を失った。振り返ると、歩いて来た土が干上がり、道が出来ていた。それらの命は初めから華の命のように体に伝わる。華は不思議な感覚に落ちた。体が満たされていった。
視線を感じた。その視線を華は知っていた。妖怪と言われている者の顔が見えた。華は嬉しかった。妖怪の手には枯れた花が握られ、それを落とすように手を開いた。華は目が離せなかった。枯れた花が地面に触れると、生き返るように色が戻って行く。色を戻した花は華が命を奪った花びらと同じだった。妖怪と華を繋ぐように道ができた。この道を辿れば妖怪の元に行けるが花は紫華を思い出し胸元の白い石を握りしめた。繋がっていた道が消え、妖怪も消えた。帰り道、華は迷うことはなかった。華は自分の足で森から出てきた。祠が目に入り、紫華の姿を見つけた。華は走り紫華に抱き着いた。
「おかえり」
紫華も華を抱きしめた。
華の中に生まれた一つの感情。それは華にとって全てに変わった。あの日、森で出会った妖怪の視線は誰を見ていたのだろうか。目の前に立つ華は自分の体を越える視線を羨んだ。視線は合うが決して華自身を見ていない。華はその目が自分を捉えることを求めてしまった。
華は祠の前に立ち、森を眺めた。この祠が建つ理由が羨ましかった。森に入ったあやめが羨ましく思えた。自分に流れる血があやめと同じならば、代わりでも構わないと求め、求めて欲しい。しかし全てを捨て、森に入ることは誰かを悲しませることでもある。
村で生きることは求められていることで、求めていることではない。いつも通りに振舞い溢れそうになる本心を隠そうとするが、無意識に漏れ出てしまう。華は誰の為に生まれてきたのだろうか。例え、その存在が消えてしまっても愛していることは変わらない。母親として最後にしてあげられることは一つだった。それは別れを意味する。華は森へと行きたがっていた。
「あなたの生きたいように生きなさい。」
紫華の言葉は、華を解き放った。華の足は迷うことなく、森に消えて行った。
紫の花びらが華を連れていく。目の前に立つ妖怪の目はしっかりと華を捉えていた。華は手を伸ばし、求めた。求め合うかのようにその手を握り、引き寄せる。二人を繋ぐ手の中には白い石がある。あやめの石を華が持ってきた。
あやめの存在を消すよう祠はなくなっていた。森は枯れ果て全てが露になった。降り注ぐ太陽の光りが新しい森を作る。
森が広がる。木も草も花も太陽の光りを受け、高く伸びる。虫も動物も豊かな森を寝床に思うままに生き命を繋げている。森は全てを受け入れる。例えこの世のものでなくても。森は誰のものでもない。ただそこにある森に過ぎない。その森を眺めるように一軒の家が建っている。今は誰も住んではいない。誰が住んでいたのか、誰も覚えてはいない。森にまつわる一つの言い伝えが残されている。誰が言い始めてのかは分からない。
