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独裁者の孤独─「走れヒザマメロス」

このnoteで公開している作品は、2021年5月31日から朗読と二次創作のリレー(通称「膝枕リレー」)が続いている今井雅子作の短編小説「膝枕」の派生作品です。

clubhouseでの上演を開放しています。読みたい方はご自由にどうぞ。

膝開き(初演)はヒザマメロスのモデルになった「膝豆のコバ」こと小羽勝也さん(膝番号13)が9月22日のkneekneeの日に。replayこちら。13000字を独走したマメコバ。ヒマなのか、いや、ヒザなのだ。

「走れヒザマメロス」(原作:太宰治「走れメロス」 膝入れ:今井雅子)

ヒザマメロスは激怒した。

膝枕を躍起になって取り締まる、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの王を必ず除かなければならぬと決意した。

ヒザマメロスには政治がわからぬ。けれども膝枕を脅かす邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

ヒザマメロスは独り身で恋人もなく、打ち込める趣味もないが、沈み込む膝枕だけはあった。いや、実のところ彼には膝枕しかない。白雪のようなヴァージンスノー膝が自慢の箱入り娘膝枕と二人暮しをしている。彼女が彼の全財産であり、全人生であった。

休日の朝、その箱入り娘膝枕が連れ去られた。王の仕業である。暴君の暴挙である。膝枕を所有する不届者の居所を知らせた者には金一封が与えられるのだ。報酬に目のくらんだ何者かがヒザマメロスのことを密告したに違いない。

伝票に「枕」と記されたダンボール箱を届けた配達員か。箱入り娘にはかせる白いスカートを買いに出かけたデパートのレディース服売り場の販売員か。はたまた、飲み会で隣の席になって以来、夜毎歯ブラシを持って訪ねて来たヒサコか。

溜まった歯ブラシが十三本になった夜、箱入り娘膝枕との二股がばれた。妄想と熟慮を重ねた末にヒザマメロスが選んだのは、ヒサコの生身の膝ではなかった。作り物の膝に敗れ、屈辱に打ち震えたヒサコが逆襲に打って出たのであろうか。

犯人探しをしている猶予はなかった。一刻も早く箱入り娘膝枕を助け出さなくてはならぬ。

ヒザマメロスは野を越え山越え、十三里離れたヒザクスの都にやって来た。朝陽を受けて輝く塔楼の膝頭のような眩しさを見て、彼は思い出した。今日は待ちに待った膝枕アイドルユニットHZMエイチズィーエム48のライブの日ではないか。ちょうど良い。ライブが終わってから箱入り娘膝枕を迎えに行くとしよう。

だが、都はひっそりとしていた。ライブ前の活気はまるでない。会場のアリーナに着くと、中止の張り紙があった。グッズショップも閉鎖されている。それというのも王が膝枕を取り締まったからである。王はとんだ思い違いをしている。膝枕がこの国を堕落させたのではない。膝枕に受け止められていた堕落が行き場を失い、町にあふれ、秩序と統制に穴が開いたのだ。

ライブが開かれないなら箱入り娘膝枕を迎えに行くまでだ。通りすがりの都の者に囚われの身の膝枕の居場所を問おうとして、ヒザマメロスは思いとどまった。王の手下が目を光らせているやもしれぬ。下手に膝枕などと口にしないのが身のためだ。

「愛しいお方を探しに来られたのですね。白雪のような美しい膝の持ち主を」

紫色の薄布の装束をまとった占い師が声をかけてきた。罠かもしれぬとヒザマメロスは身構えたが、装束の裾からちらりとのぞく白い膝に賭けることにした。そうだとうなずき、助けを求めると、占い師は丘の上に建つ館を指差した。そこは禁じられた膝枕とそれにまつわる書物が集められた館であった。その一室に囚われの身の膝枕たちの始末部屋があるという。

ヒザマメロスの箱入り娘膝枕も、そこに押し込められているかもしれぬ。始末部屋とは物置のようなところであろうか。明かり取りの窓などない薄暗く黴臭い場所であろう。かような劣悪な環境に穢れのない白く美しい膝たちを閉じ込めるとは、なんたる非人道な仕打ちか。

ヒサコの生身の膝が訪ねて来るたび箱入り娘をダンボール箱に押し込め、押し入れに追いやっていたことを棚に上げ、ヒザマメロスは憤った。鍋が薬缶やかんの焦げをあざ笑うとは、このことである。

「王様は膝枕を始末するおつもりです」と占い師は告げた。
「そのような未来が見えているのか?」とヒザマメロスは問うた。

「占いではありません。王が宣言したのです」
「なぜ膝枕を始末するのだ?」
「悪い心を抱いているというのです」
「膝枕に悪心などない。あるのは純心のみだ。それがわからぬ王は乱心か」
「王は膝を信じることができないのでしょう。膝に頭を預けることは命を預けることですから」
「今告げたのは占いか?」
「王の声がそのことを物語っているのです」
「どういうことだ?」
「聞けばおわかりになります。何も信じられぬ孤独と絶望の入り混じったあの声を」

占い師の話を聞いて、ヒザマメロスは確信した。王は膝枕の安らぎを知らぬのだ。知らぬゆえに恐れ、忌み嫌い、力で捩じ伏せようとするのだ。暴君ゆえの浅はかさだ。

「あきれた王だ。生かして置けぬ」

ヒザマメロスは単純な男であった。丘の上にある禁じられた書物の館に着くと、箱入り娘膝枕がいるに違いない館の中へ、のそのそと入って行った。そして、待ち受けていた王の手下にたちまち捕えられた。始末部屋に辿り着くことなく木乃伊ミイラ取りが木乃伊になった。やはりあの占い師の言葉は罠だったかもしれぬ。

ヒザマメロスは城に連れて行かれ、王の前に突き出された。だが、王は姿を見せない。閉ざされた扉の向こうから出てきたのは、うめくようなしゃがれた声だけであった。

「お前がヒザマメロスか」

王の声には確かに占い師が言ったように孤独と絶望がにじんでいた。

「箱入り娘膝枕を返してもらおう」
「何のことだ?」
「しらを切るつもりか。王が手下を差し向け、箱入り娘をさらったのだろう? 膝枕たちをどうするつもりだ?」 

しばしの沈黙の後、王は冷酷に言い放った。

「館に火を放つ」

「館に火を放つだと? 中にいる膝枕たちを焼き払うというのか!」
「あんなものがあるからこの国は堕落したのだ」
「火炙りにする必要などあるものか! まるで悪魔狩りだ」
「私はこの国の平和を望んでいる」
「罪の無い膝枕を取り締まって、何が平和だ?」
「だまれ膝枕廃人め!」
「なぜ、王はそこまで膝枕を憎むのだ?」
「お前に私の孤独がわかるものか」  
「王のその孤独を慰めてくれるのが膝枕なのだ」
「膝枕がもたらす安らぎなど、まやかしだ。あいつらは純真無垢の仮面をかぶった悪魔なのだ。人工知能で人間どもを操り、この国を乗っ取るつもりなのだ」

ヒザマメロスが何を言っても、王はかたくなに心を閉ざしたままだ。

せっかく膝枕のある時代に生まれたというのに、膝枕を知らずに死んでいくというのか……。

ヒザマメロスは王に憐れみすら覚えた。

「どうしたら箱入り娘膝枕を返してもらえる?」
「お前の命を差し出せるか?」
「命?」
「膝枕愛好会を解散するのだ」

ヒザマメロスは膝枕愛好会の会長であった。膝枕のことになると、とことんマメな性格を買われたのである。生まれてから「長」のつくものになったことのないヒザマメロスにとって、膝枕愛好会会長は初めての地位であり名誉であり自惚れと自己愛を爆増させるものであった。つまるところ「命」であった。

「会長のお前の口から愚かな同志どもに告げてやるのだ。膝枕は人間を堕落させる、と」
「膝枕愛好会を解散したら、箱入り娘膝枕は返してもらえるのだな?」
「約束しよう。あの館にあるものをすべて解放してやる」

ヒザマメロスは足もとに視線を落とし、瞬時ためらってから言った。

「一日待ってくれ。たった一人の妹に村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来る」
「馬鹿な。逃がした小鳥が帰って来るというのか」

暴君は、嗄れた声で低く笑った。

「そうだ。帰って来るのだ。どんなに遠くへ追いやっても膝をにじらせて戻って来る一途な箱入り娘膝枕のように」
「お前は命が惜しいだけなのだろう」
「そんなにこのヒザマメロスを信じられないなら、よろしい、このヒザクスの都にヒザスリヌンティウスという男がいる。私の無二の膝友で膝枕愛好会の事務局長だ。あれを人質として置いて行くとしよう。私が期限までに帰って来なかったら、奴の膝枕コレクションを取り上げれば良い」

ヒザスリヌンティウスには有り余る金と膝枕がある。元は腕のいい執刀医だったが、今はよりどりみどりの膝枕に囲まれ、体脂肪率四割のぽっちゃり膝枕に頭をうずめ、模型作りにふける自堕落な日々を送っているのだった。

「その身代りをここに呼ぶがよい。お前は明日の日没までに帰って来るのだ」

どうせ帰って来ないに決まっているが、この嘘つきに騙された振りをして、放してやるのも面白いと王は思った。いっそ身代りのほうが役に立ちそうだ。

「もし遅れたら、身代りと奴の膝枕コレクションがどうなっても知らぬ。命が大事だったら、遅れて来るがいい。お前の心は、わかっている」

なんということだ。ヒザマメロスは口惜しく、地団駄踏んだ。初めて会ったばかりの王に、聡明さの微塵も感じられない暴君に、そこまで見透かされているとは。

ヒザマメロスは、ずらかる気まんまんであった。城を後にすると、十三里離れた村へと来た道を引き返した。

何も知らない膝枕愛好会事務局長ヒザスリヌンティウスは、王が差し向けた手下たちが乗り込んだとき、いつものように、ぽっちゃり膝枕に頭を預け、ヒザメジじょうの三十分の一模型を組み立てていた。頑なに膝枕から頭を起こそうとしないため、担架に載せて運び出され、神輿のように担がれ、城に運び込まれた。

ヒザスリヌンティウスの異様な姿を、王は閉ざされた扉の隙間越しに認めた。

「お前の友のヒザマメロスが、お前を人質にと言ったのだ」

膝枕に頭を預けたままの堕落と無礼に憤るかと思いきや、王の声はヒザマメロスに対する声よりも穏やかだった。

「ヒザマメロスなど友ではない。あの男に友などおらぬ」

ヒザスリヌンティウスは鼻を小さく鳴らして笑った。

「村で妹の結婚式を見届けて、戻って来るそうだ」
「ヒザマメロスに妹などおらぬ。あいつは私を売ったのだ」
「信用のおけぬ奴だとわかっていながら、なぜ身代わりになった?」
「本物の城に興味があっただけだ」

ヒザスリヌンティウスは城の模型を組み立てる手を休めることなく言った。王をも畏れぬこの男に、畏れるものなど何もないようだった。

十三里の路を急ぎに急いでヒザマメロスが村に帰り着いたのは、真夜中だった。初夏、満天の星である。妹の結婚式と言ったのは出まかせだが、大事な用があるのは本当のことだ。地下アイドル、シライユキの膝枕会が今宵、村で執り行われるのだ。主催者は他ならぬヒザマメロスである。

シライユキは待っていてくれた。伝説の地下アイドルの白い膝がヒザマメロスの汗ばんだ頭を受け止める。

作りものの膝とは比べものにならないやわらかさ、なめらかさ、沈み心地。天にも昇る気持ちだ。

この膝があれば何もいらぬ。

ならば、箱入り娘膝枕を取り戻せなくとも良いのではないか。王と取り引きする必要はないのではないか。

ヒザマメロスは命が惜しくなった。箱入り娘膝枕のことは忘れよう。忘れるしかない。シライユキの膝が忘れさせてくれる。

ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。シライユキの膝の上で満面に喜びの色をたたえていたヒザマメロスは何か不吉なものを感じた。

あの暴君は躊躇なく館に火を放つだろう。箱入り娘膝枕を、囚われの身の膝枕たちを見殺しにして良いものか。やはり城に戻らねばならぬという気持ちと、行ってはならぬと押し留める気持ちがせめぎあう。

あすの日没までには、まだ十分の時が在る。少しでも永くこの膝に愚図愚図留まっていたかった。だが、シライユキの白い膝に沈めば沈むほど、肌になじんだ箱入り娘膝枕のヴァージンスノー膝が思い出されるのだった。

「箱入り娘膝枕のこと考えているでしょ?」

シライユキに見透かされ、ヒザマメロスはたじろいだ。

「まさか! 他の膝のことなど考えるわけがない。僕には君の膝だけだ」
「そういうことにしておきましょ」

シライユキは焼き餅を焼くどころか勝ち誇ったように言った。

「だってあれ、私の膝だから」

驚いたことに、箱入り娘膝枕のヴァージンスノー膝はシライユキの膝を型取りしたものだという。肌の質感や弾力も限りなくシライユキの膝を真似ている。

そうか。だから、シライユキの膝は箱入り娘の膝を思い出させるのか。

ヒザマメロスは深く合点し、ますますシライユキの膝に沈み込んだ。そのまま呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

「ダメヨ。ワタシタチ ハナレラレナイ ウンメイナノ」

夢かうつつか箱入り娘膝枕の声がした。

翌朝、ヒザマメロスが目を覚ますと、雨は止み、外では村人たちが仕事をはじめていた。

「ねえ、一緒に来て」

シライユキの甘い声が頭の上から降ってくる。ヒザマメロスの頭はまだシライユキの白い膝の上にあった。

「どこへ行くんだ?」
「決まってるでしょ。王のところへ。日没までに城へ戻る約束でしょう?」
「なぜそのことを知っている?」
「お願い。王との約束を果たして。会長のあなたの言葉で膝枕愛好会を解散するの」
「そんなことできない。第一、君だって困るだろう。君は膝枕で商売しているじゃないか」
「作り物の膝枕を禁止する代わりに、私みたいな膝枕アイドルの地下営業を許可してもらうの。鎖国時代の長崎の出島みたいに」
「生身の膝枕で利権を独り占めってわけか。それで俺に何の得がある?」
「私の膝に好きなだけ溺れさせてあげる」

ヒザマメロスはあっさり陥落した。

ヒザマメロスを膝から起き上がらせると、シライユキはその手を引いて走り出したが、走り出すなりヒザマメロスは後悔した。

「俺は城に戻り、王との約束を果たし、命を差し出す。社会的に殺されるのだ。シライユキの白い膝欲しさに、殺される為に走るのだ。膝枕を愛する同志を裏切り、己の欲望を満たす為に走るのだ。さらば心のふるさと膝枕愛好会」

ヒザマメロスは辛かった。幾度か立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。

ヒザマメロスは額の汗をこぶしで払った。俺にはシライユキの生身の膝がある。まっすぐに城に行き着けば、それでよいのだ。何も考えるな。持ち前の呑気さを取り返し、遠い昔の流行り歌「今頃あいつはヌレソボロ」を無駄に良い声で歌い出した。

とそのとき、ヒザマメロスの足は、はたと止まった。

見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々とうとうと下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁はしげたを跳ね飛ばしていた。ヒザマメロスは茫然と立ちすくんだ。舟は残らず浪にさらわれて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。ヒザマメロスは川岸にうずくまり、ヒザウスの神に手を挙げて哀願した。

「ヒザウスの神よ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王の城に行き着くことが出来なかったら、シライユキの白い膝に埋もれる野望が死ぬのです」

濁流はヒザマメロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は刻一刻と消えて行く。

ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な膝ぢからを、いまこそ発揮して見せる!

ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に必死の闘争を開始したのは、ヒザマメロスではなくシライユキであった。尻込むヒザマメロスの手を引きながら満身の力を腕にこめて押し寄せ渦巻き引きずる流れをなんのこれしきと掻きわけ掻きわけた。

ヒザウスの神が哀れんだのか、ヒザマメロスとシライユキは押し流されつつも見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。

ありがたい。ヒザマメロスは馬のように大きな胴震いを一つした。シライユキはヒザマメロスの手を引き、すぐにまた先を急いだ。一刻といえどもむだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然目の前に一隊の山賊が躍り出た。

山賊の先頭に仁王立ちしていたのは、飲み会で隣の席になったヒサコであった。ヒザマメロスの部屋に通い詰めて歯ブラシを十三本溜めたヒサコは、今日も歯ブラシを握り締め、形の良い唇を尖らせている。

「何をするのだ。俺は陽の沈まぬうちに王の城へ行かなければならぬ。俺には命の他には何も無い。膝枕愛好会の会長という命だ。そのたった一つの命も、これから王にくれてやるのだ」
「その命が欲しいの」と形の良い唇が開いて言った。
「どういうことだ?」
「作り物の膝枕なんて、なくなればいい。あんなものに私の膝が負けるなんて許せない」
「膝枕憎しの暴君と利害が一致したか。さては、王と結託して、ここで俺を待ち伏せしていたのだな」

ヒサコは認めず、形の良い唇をいっそう尖らせた。山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。ひょいとからだを折り曲げ、猛然と膝蹴りを喰らわせ、たちまち三人を蹴り倒したのは、ヒザマメロスではなくシライユキであった。

「気の毒だが正義のためだ!」

残る山賊のひるむ隙にシライユキはヒザマメロスの手を引き、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、ヒザマメロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬと気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。

濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も倒し、ここまで突破して来た韋駄天ヒザマメロスよ。今、ここで疲れ切って動けなくなるとは情無い。箱入り娘膝枕と囚われの身の膝枕たちは館に火を放たれ焼き討ちの目に遭うのだ。おまえは稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だ。

ヒザマメロスは自分を叱って奮い立たせようとするが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという不貞腐れた根性が心の隅に巣喰った。

俺は王との約束を果たそうとしたのだ。ヒザウスの神も見ていた。俺は不信の徒では無い。ああ、できる事ならこの胸を裁ち割って真紅の心臓をお目に掛けたい。膝への愛と信実の血液だけで動いているこの心の臓を。

けれども俺はこの大事な時に精も根も尽きたのだ。俺はよくよく不幸な男だ。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが俺の定った運命なのかも知れない。

俺はきっと笑われる。膝枕愛好会の皆も笑われる。ヒザスリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君の財力は膝枕愛好会を太らせてくれた。俺たちは本当に佳い持ちつ持たれつの友と友であったのだ。俺は君を金蔓かねづるとしか見ていなかった。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一番誇るべき宝なのだからな。

箱入り娘膝枕よ、囚われの身の膝枕たちよ、俺は走ったのだ。君たちを欺くつもりは微塵も無かった。というのは嘘だ。少しはあった。かなりあった。それでも信じてくれ。俺は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。俺だから、出来たのだ。

ああ、この上、俺に望み給うな。俺は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は俺に、ちょっと遅れて来いと耳打ちした。遅れたら、身代りのヒザスリヌンティウスの膝枕コレクションを取り上げ、俺を見逃してやると。俺は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、俺は王の言うままになっている。

俺は遅れて行くだろう。王は、ひとり合点して俺を笑い、そうして事も無く俺を放免するだろう。そうなったら俺は永遠に裏切者だ。地上で最も不名誉の人種だ。

ヒザスリヌンティウスのことはさておき、不憫なのは箱入り娘膝枕だ。囚われの身の膝枕たちだ。俺も君たちと一緒に死なせてくれ。君たちは俺を信じてくれるにちがい無い。いや、それも俺のひとりよがりか。ああ、もういっそ悪徳者として生きのびてやろうか。正義だの信実だの愛だの考えてみればくだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定めではなかったか。ああ、何もかもばかばかしい。俺は醜い裏切り者だ。どうとも勝手にするがよい。やんぬるかな。

ヒザマメロスは四肢を投げ出し、うとうとまどろんでしまった。

《ダメヨ ワタシタチ ハナレラレナイ ウンメイナノ》

箱入り娘膝枕の声がしたと思ったが、それはシライユキの声であった。

「何を愚図愚図ぐずぐずとお気持ち表明しているの? 日が暮れてしまうじゃない」

ふと耳に、潺々せんせん、水の流れる音が聞えた。寝ころんでいたヒザマメロスはそっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々こんこんと、何か小さく囁きながら水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにヒザマメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、ひとくち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復かいふくと共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。

日没までには、まだ間がある。俺を待っている膝があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている膝があるのだ。俺は信じられている。俺は信頼に報いなければならぬ。走れ、ヒザマメロス!

先刻のあの悪魔の囁き、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。おまえの恥ではない。ヒザマメロス、やはりおまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。俺は正義の士として死ぬ事が出来る。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。

路行く人を押しのけ、跳ねとばし、シライユキに手を引かれたヒザマメロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の十倍も早く走った。

一団の旅人とすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。

「そろそろ膝枕たちが火炙りの刑に処されるよ」

ああ、その膝枕たちのために俺は、いまこんなに走っているのだ。急げ、ヒザマメロス。愛と誠の膝ぢからを、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでも良い。

ヒザマメロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。

見える。はるか向うに小さく、ヒザクスの都の天に向かってそびえる塔楼が見える。塔楼は夕陽を受けてきらきら光っている。

「ああ、ヒザマメロス会長」

うめくような声が、風と共に聞こえた。

「誰だ」

ヒザマメロスは走りながら尋ねた。

「ヒザスリヌンティウス様のお抱えの石膝枕職人ヒザストラトスでございます」

若いヒザストラスはヒザマメロスの後について走りながら叫んだ。

「もう、駄目でございます。無駄でございます。走るのは、やめて下さい」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「ちょうど今、ヒザスリヌンティウス様の膝枕コレクションが押収されたところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します」
「いや、まだ陽は沈まぬ」

ヒザマメロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。

「間に合う間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。俺はもっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! ヒザストラトス」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい」

まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、ヒザマメロスは走った。ただ、わけのわからぬシライユキの大きな力にひきずられて走った。ヒザマメロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとした時、丘の上の館が見えた。館は発光しているかのように明るかった。

ヒザマメロスはシライユキに手を引かれ、疾風の如く坂を駈け上った。

館の周りが明るいのは、松明たいまつに取り囲まれ、ぼうっと照らされているからだった。松明を手に仏頂面で突っ立っている王の手下たちのまわりを群衆が幾重いくえにも取り巻いていた。

「待て。館に火を放ってはならぬ! ヒザマメロスが帰って来た! 約束のとおり、いま帰って来た!」

ヒザマメロスが声を張り上げた。

「私が引っ張ってきたの!」

シライユキも声を張り上げた。だが、声は群衆のざわめきにかき消され、誰ひとりとしてヒザマメロスの到着に気がつかない。

シライユキはヒザマメロスの手を引き、坂を転がるように下り、城へ向かって疾走した。城に飛び込むと、ぽっちゃり膝枕に頭を預けたままヒザメジ城の三十分の一模型を組み立てるヒザスリヌンティウスの姿があった。見張りはおらず、縄で縛られてもいない。逃げる恐れがないと思われているのだろう。

物音に気づいて模型から視線を移したヒザスリヌンティウスの目がまさかというように見開かれた。ヒザマメロスが戻って来たことに驚いたのだと思ったが、ヒザスリヌンティウスの目はシライユキの白い膝に釘付けになっていた。

「シライ、ユキちゃん?」 
「いいから、このクズを殴って」

シライユキがヒザマメロスに目をやった。

「遠慮しなくていいの。力一ぱいに頬を殴って。私が引っ張って来なかったら、あなたのことも膝枕のことも見捨ててた。こんなクズに、膝枕に溺れる資格なんてない」
「話が違うじゃないか! 城に戻れば好きなだけ膝枕させてくれるんじゃなかったのか!」
「そうでも言わなきゃ、いつまでも私の膝の上で愚図愚図ぐずぐずしてたじゃない」

ヒザスリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯うなずき、苦笑した。

「目くそ鼻くそ、いや膝毛と脛毛だ。ヒザマメロス、私は徹頭徹尾てっとうてつび、お前を疑った。お前のことなど待ってやしなかった。私には膝と城があれば十分なのだ」

それを聞いてヒザマメロスも笑った。

「ああ、実に膝毛と脛毛だ。それでこそ膝枕愛好会事務局長だ。これで心が固まった。城には戻って来たが、膝枕愛好会を解散するわけにはいかぬ」

それからヒザマメロスはシライユキを見た。

「申し訳ないが、そういうことだ。俺は君の膝に好きなだけ溺れるより膝枕を愛する同志に報いる。俺が命を差し出さねば、王は館に火を放つだろうが、仕方がない」
「そう言うと思った。行くわよ」
「行くって、どこへ?」
「王と話をつけるの。膝枕愛好会は解散しないけれど、膝枕は解放して欲しいって」

シライユキは閉ざされた扉の向こうに聞こえる声で言った。

「話など、つくものか。王は膝枕を心底憎んでいる」
「嫌いだから憎むとは限らない。ねえ、そうでしょう?」

シライユキに問いかけられ、閉ざされた扉の向こうで人が動く気配があった。王がいる。息を殺して、こちらの会話に耳を澄ませている。

シライユキが扉の取手に手をかけた。

「来るな」

うめくように王の声が告げたが、シライユキはひるまず取手を回す。ドアが開き、その向こうへシライユキが足を踏み入れる。ヒザマメロスも後に続く。一瞬、ヒザスリヌンティウスを振り返ったが、彼は我関せず、膝枕に頭を預けたままヒザメジ城の模型を組み立てている。

「来るな! 来るな! 来るなー!」

ドアを抜けると、足元から王の絶叫が聞こえた。その姿を見たヒザマメロスは絶句した。王は膝枕に頭を預けて横になっていた。扉を隔ててヒザスリヌンティウスと鏡写しになったかのようである。

「まさか、王も膝枕廃人だったのか」

シライユキは表情を変えない。

「知っていたのか?」
「箱入り娘膝枕の購入者リストに王がいたの。偽名だったけど、届け先の住所がヒザクスの都の王の城になってた」

なんということだとヒザマメロスはうめいた。愚かな暴君は、シライユキの膝をかたどったヴァージンスノー膝に溺れる同志だったのだ。

「ある朝起きたら、こいつが離れなくなっていたのだ」

王が苦しげに言った。王の声がくぐもって聞こえていたのは、頬が膝枕にはりついているせいであった。

「箱入り娘膝枕は、誤った使い方をすると不具合を起こすから。不貞を働いたのね?」
「生身の膝に、ちょっとちょっかいをかけただけだ」

ヒザマメロスは背筋がぞわりとなった。飲み会で隣の席になったヒサコの生身の膝にちょっかいをかけたことを思い出したのだ。その間、箱入り娘膝枕は箱に閉じ込められ、押し入れに追いやられていた。結局は箱入り娘膝枕の作り物の膝がヒサコの生身の膝に勝ったわけだが、ヒザマメロスがもし、ヒサコを選んでいたら、裏切りの代償に王のような姿になっていたかもしれぬ。危ないところを免れたのだ。

「ねえ、こんなオッサンの頭にくっついたままでいいの? 自由になったら?」

シライユキは王の頭の下で重みに耐えている膝枕に話しかけた。すると、ほっと安堵のため息をつくように、こわばっていた両膝が緩み、王を解放した。

暴君と膝枕は切り離された。

「恨んでお仕置きを与えても、自分が縛られるだけ。あなたもね」

シライユキは扉の向こうの広間へ声をかけた。模型作りにいそしむヒザスリヌンティウスにではない。彼の頭を受け止めているぽっちゃり膝枕に呼びかけたのだ。

「体脂肪率四割のぽっちゃり膝枕は、長時間使用を続けると、脂肪が溶け出して、肌と一体化してしまうの」

シライユキが言った。

そうだったのかとヒザマメロスは得心とくしんした。ヒザスリヌンティウスは膝枕に溺れているのではない。膝枕に囚われていたのだ。身動きができぬから城の模型を組み立ててひまを潰していたのだ。石膝枕職人のヒザストラウスに身の回りの世話を焼かせていたのだろう。

扉の向こうでヒザスリヌンティウスがゆっくりと体を起こす気配がした。ぽっちゃり膝枕の呪縛を解かれたのだ。

丘の上の館に王が現れると群衆は口々に叫んだ。

「国を貶めた膝枕に厳重な罰を!」
「いよいよ膝枕を火炙りに!」

辺りは異様な熱気に包まれていた。館に火が放たれるのを待ち構える群衆が放つ澱んだ興奮が渦を巻いていた。

「松明を消してくれ。和解が成立したのだ」

昂る群衆を前に王は静かに告げた。頬にはまだ膝枕が張りついていた名残の赤みが残っている。

何を言い出すのかと群衆はどよめいた。楽しみにしていた見せ物を取り上げられた不満が波を立てた。そのさざ波の下では胸を撫で下ろしている者たちもいた。禁じられた後も膝枕をひそかに愛好する者は少なからずいたのだ。国じゅうが膝枕に浮かれていた膝惚けの時代は、今思えば平和であった。あの頃に戻るのも悪くはない。

「わが国は膝枕との共存共栄を図ることとする」

王はヒザマメロスとヒザスリヌンティウスに目をやった。ヒザスリヌンティウスの頬にも王と揃えたかのような赤みが残っている。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。膝枕とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうかわしも仲間に入れてくれまいか」

どっと群衆の間に歓声が起った。

「膝枕万歳! 王様万歳!」

館の扉という扉、窓という窓が開け放たれた。囚われの身の膝枕が次々と運び出された。その持ち主たちは群衆の中にいた。一人一人に膝枕が返還された。ヒザスリヌンティウスから押収された膝枕コレクションも返還された。

膝枕アイドルユニットHZM48に所属する四十八体の膝枕も解放された。その持ち主はシライユキであった。もてはやされる喜びも飽きられる悲しみも知っている彼女は、元の所有者に心無い仕打ちをされた膝枕たちを集め、アイドルユニットとして売り出したのだった。

ヒザマメロスも箱入り娘膝枕を取り戻し、再会を果たした。ヒザマメロスは裸のままであった。その見苦しい肉体をシライユキが緋色のマントで覆い隠した。

「見ろ、膝頭が弾んでいる。喜んでいるのだ」

ヒザマメロスは得意げに言った。箱入り娘膝枕との絆が深まったことを確信していた。だが、シライユキは冷たく言い放った。

「おめでたい解釈ね。でも残念。膝が弾むのは、怒りを表しているの」

シライユキは膝枕語がわかるのである。人工知能内蔵膝枕には感情表現が組み込まれているが、膝の動きや表情もまたシライユキをモデルにしているのであった。

シライユキは箱入り娘膝枕の訴えを淡々と翻訳した。それはシライユキの本音でもあった。

「ヒザマメロスさん、あなたは真っ裸です。全部全部ダダ漏れで中継されています。広告主も撤退しました。城に戻る気なんてさらさらなくて、戻ってきたのはシライユキさんの膝枕目当て。戦うときはシライユキさんに丸投げのへっぴり腰。ヒザマメロスさんの裸体、いえ痴態、いえ醜態を世界中に晒すことになり、たまらなく口惜しいです。真っ赤な嘘をつく真っ裸のヒザマメロスさんには真っ赤なマントがお似合いです」

勇者になれなかったヒザマメロスは、ひどく赤面した。

参考膝図書

「走れヒザマメロス」は太宰治作「走れメロス」に今井雅子作「膝枕」とその派生作品を組み込んだ二次創作作品です。濃淡はありますが、以下の「膝枕」設定を取り入れています。あわせて読んでいただけると、膝文脈理解が進み、膝沼度が増します。

ヒザマメな男について

膝に詳しい占い師について

禁じられた膝枕の館について

元執刀医の城好き膝枕廃人について

体脂肪四割超えのぽっちゃり膝枕について

膝枕アイドルのシライユキについて

箱入り娘膝枕の不具合について

膝枕語について

名作に膝入れ

これまでに「白雪姫」「シンデレラ」に膝入れ。「白鳥の湖」への膝入れも準備中。

膝枕リレースタンプも作ってくださった猫野ソラさんの「姫枕」は「浦島太郎」に膝入れ。絶品。

古典落語では「芝浜」に膝入れ。派生作品多数。


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脚本家・今井雅子📚言葉遊びが好きな物書き 目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。