【1】伊達政宗覚書 慶長4年閏3月8日付 有馬中務少輔則頼、今井宗薫兼久宛


一 中納言(宇喜多秀家)殿との折合いの事

一 どのようなことがあっても構わず、一心に徳川家康様をお守り申し上げ、行末を共にし、(私の)身上をお取り立てくださるべき事

一 どのようなご用件であっても、仰せつけください。いささかも疎ましく思うことはございません

一 万が一、領国への路地が不自由であった場合、詮議に預かるべき事

一 その都度申し上げているように、仲の悪い衆への御配慮の事

一 戦が起こった後は、どこであっても、一ヶ所にお預けになるならば、下々の者や妻子を共に置き申し上げる事(口頭で申し上げます)

一 より一層、(豊臣)秀頼様のことは御油断なく対応されるべき事、以上

大崎少将(伊達政宗)

(慶長4年)閏3月8日
有馬中書(則頼)様
宗薫(今井兼久)様


伊達政宗公の覚書です。覚書なのでお手紙ではなく、話題が箇条書きされています。宛先は有馬則頼と今井兼久ですが、この二人を介した徳川家康への覚書でもあります。この時点での政宗公の立場がよくわかる内容ですね😊

【登場人物解説】


●有馬則頼(1533-1602)摂津有馬氏の一族で、茶人でもある。秀吉の御伽衆を務め、秀吉の死後は徳川家康と接近して親密な関係となる。

●今井兼久(1552-1627)宗薫。今井宗久の子、茶人。豊臣秀吉の御伽衆や茶頭を務め、のちに徳川家康の側近となる。

●宇喜多秀家(1572-1655)
いわゆる五大老の一人で、前田利家の娘(秀吉養女)を妻にしており、前田氏と近い関係にあった。この覚書が書かれる5日前に前田利家が亡くなっている。今後の徳川家康と宇喜多秀家の関係について、政宗公は何か提案があったのかもしれない。関ヶ原の戦いでは西軍につく。

【背景解説】


慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が亡くなったとき、息子の秀頼はまだ6歳でした。

世上が不安定な中、伊達政宗公は徳川家康と接近していきます。翌慶長4年正月には政宗公の長女五郎八姫と徳川家康の七男松平忠輝との婚姻が決まりました。仲介をしたのが宛先の今井宗薫です。

石田三成や前田玄以ら奉行たちは、この婚姻が秀吉の遺言に背くものだとして糾弾しました。5つ目の「中悪衆(原文)」の言葉はやはり彼らのことを指しているのでしょうか…

前田利家死後には石田三成襲撃事件もあり、相当ピリピリした状況の中で書かれたこの覚書。2つ目「徳川家康様を命をかけてお守りします。その代わり私の身上についてもよろしくお願いします。」政宗公らしい表現。でも当然と言えば当然の主張です。

「今接近すべきなのは家康だ」と見抜いた政宗公の人を見る目はすごいと思うけど、それだけではなく、家康に対して親しみのようなものを感じていたのではないかと思うんですよね〜(妄想です)

🔸後記

noteでの初めての書状訳。どんな感じで書こうかな?とあれこれ調べていたらあっという間に時間が過ぎていきました。関ヶ原の戦いについては「これから勉強するぞ!」という段階なので、まだまだわからないことだらけですが、見守っていただけたら嬉しいです☺️あとはもう少し早いペースで投稿できるよう時間捻出の努力をする!


参考文献
『仙台市史 資料編11  伊達政宗文書2』
『伊達治家記録』
『関ヶ原合戦人名事典』

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