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「ふせん」 ― 付箋を捨てよ、町に出よう ―【エッセイ】一八〇〇字

 本を読むとき、付箋を貼る。
 気になった表現、あとで引用したい一節、何となく引っかかったページ。そんなところへ、付箋を貼っていく。

 ところが、その「あとで」がなかなか来ない。久しぶりに本を開くと、色とりどりの付箋が林立している。だが、なぜそこへ貼ったのか思い出せない。ページを読み返してようやく思い出すこともあれば、「何だったんだろう」で終わる、ことが多い。

 付箋とは、本来、未来の自分への伝言板である。しかし、読み進めることに気を捉われ次々に貼っていくから、肝心の用件が書かれていない。「気になった」という事実だけが残されているのである。

 世の中には、一冊の本をヤマアラシにしてしまう人もいる。横から見ると、小さな恐竜でもある。全ページに付箋を貼っているのではないかと思うほどだ。もちろん、それだけ熱心に読んだ証なのだろう。しかし、そこまでいくと、「貼ること」が目的になってはいないか、と余計な心配をしてしまう。

 もっとも、これは他人事ではない。自身も、気づけばかなりの枚数を貼っている。本当にあとで見返すのは、そのうちのほんの一部である。大量に貼れば貼るほど、「読んだ」「考えた」という気持ちになって満足しているだけではないか。そう思うと、少し滑稽でもある。

 では、なぜ本へ直接書き込まないのだろう。本を汚したくないのである。

 子どもの頃から、本は大切に扱うものだと教えられてきた。ページを折ってはいけない。落書きなどもってのほか。どこか、本そのものを神聖なものとして扱っている自分がいる。少し大げさかもしれないが、「信仰」と呼んでもいいような感覚である。

 だから、線を引く代わりに付箋を貼る。書き込む代わりに付箋をバンバン貼る。あとで剥がせるという安心感があるからだ。

 しかし、本当にそれでよいのだろうか。

 借りた本なら話は別である。親しい人に読ませたいなら別である。だが、自分で買い、読む本なら、もっと遠慮なく汚してもよいのではないか。
 そういえばこんなご利益もあった。初恋の人に本を貸したのだが、「同じ箇所、感動したんです。ラインが引いてあったとこ」、と。

 受験勉強の参考書はどうだったか。マーカーで塗り、余白へ書き込み、ページのあちこちに計算や覚え書きを残した。本と格闘するように読んでいた。それなのに、小説や文学作品になると急に行儀がよくなる。

 学生時代から三十代終わりまで、本を買い集めることが楽しみだった。書棚いっぱいに並んだ背表紙を眺めているだけで、自分も少し教養人になったような気分になっていた。
 家に収まりきらなくなった本は、郷里に預けていた。ところが、その納屋が火事になり、すべて失った。何年もかけて集めた蔵書が、一夜にして灰になったのである。

 本とは、あっけないものだ。

 読むだけならキンドル本で良いはずだ。しかし、やはり紙にこだわる。読みやすさもあるが、やはり背表紙を眺めて自己満足している自分が、まだいる。
 しかし、本の価値は紙にあるのではない。むろん、そこに盛り込まれた内容にある。そして、その内容を自分がどれだけ受け取り、自分の血や肉にできたかにある。

 私は七十代半ばになった。いずれ終活の一つとして蔵書も整理しなければならないだろう。BOOKOFFへ持ち込んでも、量り売り。二束三文である。それなら、読み終えた本は処分してもよいのではないか、とさえ思うようになった。

 モノを大切にすることは美徳である。
 だが、モノを大切にするあまり、その本来の役割を忘れてしまったら、本末転倒ではないか。本は飾るためにあるのではない。当たり前だが、読むためにある。そして、読んで、自分を見つめ少しでも変えるためにある。

 だから、これからは本を汚そうと思う。
 線を引こう。余白へ書き込もう。反論もしよう。共感したら丸で囲み、疑問があれば「?」と書けばいい。本と取っ組み合いをするように読むことにしよう。

 そう考えると、「書を捨てよ、町へ出よう」という寺山修司の言葉が、少し違って聞こえてくる。

「付箋を捨てよ、町へ出よう」

(ふろく)
本日の三紙の一面コラムです。
二紙が、さっそく今回の地震をテーマにしています。毎日新聞は、東野圭吾の訃報。さすがに間に合わなかったでしょう。

東京新聞朝刊(2026年7月29日)
朝日新聞朝刊(2026年7月29日)
毎日新聞朝刊(2026年7月29日)





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