コーヒーの香りは旅の切符
午後コーヒーを飲みながら、妻と二人で過ごす時間。
交わす言葉はそんなに多くはないけれど、とても大切なひととき。
深煎り好きの妻のために、じっくりゆっくり淹れたコーヒー。
ミルクの合う濃いめのやつだ。
僕は夜明け前から仕事をしているので、まだ陽のあるうちに帰宅する。
この時間がとても好きだ。
豆から挽いてハンドドリップする。
コーヒーの香りに包まれるこの時間。

一日の労いの時間
妻とは出会ってから、もう人生の半分以上の月日を共に過ごしている。
世の中の夫婦っていうのは、本当に様々な形があるのだろうけれど、
僕ら二人もまた、変わった形をしているのだろうな、と思う。

点滅する赤い光
その瞬間、記憶が巡りはじめる
出会った頃、彼女(妻)は本屋で働いていた。
小さな町の書店。
会うのは大抵、日が沈んでからで
行き先は居酒屋が多かった。
二人ともあまり口数が多い方ではなかったけれど、
お酒が入ると自然と言葉が出てきた。
食べ物の趣味が合う、そう思った。
お酒はたぶん彼女の方が強い。
個室とかじゃなくて、ワイワイガヤガヤとした
大衆居酒屋みたいな方が不思議と落ち着いた。
周りの人たちが楽しそうに酔い、語らうなか、
僕たちもいろいろな事を話した。
映画や音楽、アニメや漫画、写真とか。
なかでも本のことをよく話した。
彼女は本が好きだった(本屋で働くくらいだもの)。
僕はその頃、詩に興味があって
谷川俊太郎、中原中也、寺山修司、それとボブディラン。
こういった面々の言葉に惹かれていた。
そんな会話の中、二人共に共鳴しあったのが、
高村光太郎の智恵子抄。
僕は文庫本を持ち歩いていて、彼女は家に装丁版があると言っていた。
彼女はとても博識だった。
本当にいろんなことをよく知っていた。
幼い頃から本に囲まれて育った、というのがよく分かる。
本が友だちだったんだな、って。

帰り道、僕は彼女に
「君は太陽よりも月が似合うよね。」
と言った。
少し間を置いて「そうかもね。」と彼女は言った。
月明かりの下で、ちょっとだけ微笑んだように見えた。
ほろ酔いなのか、頬は赤らんでいた。

会えない日は電話でお互いの存在を確かめあった。
まだケータイなんて持っていない時代。
夜、時間を決めて家の電話をかける。
相手の親がうっかり出てしまわないように。
話すと言っても半分くらいは沈黙の時間。
いつしか本を片手に詩の朗読をするようになった。
そして、すっかり丸暗記して
本がなくても詩を言葉にすることができるようになった。

今でも智恵子抄は僕らにとって特別な本だ。
たまに何かのタイミングで、ふと思い出して
この詩を口にすることがある。
日々のコーヒー時間の途中で、息子が学校から帰ってくる。
すぐにゲームがやりたい息子。でも宿題をおわらせてから、の
ルールがあるのでまずはランドセルを開けて教科書とノートを取り出す。
だいたい毎日、音読の宿題がある。
前触れもなく読み始める息子。
~つれずれなるままに 日くらし 硯にむかひて
心にうつりゆくよしなしことを~
懐かしいなあ、今も習うんだね。
そういって父と母も息子の音読に参戦。
~そこはかとなく書きつくれば
あやしうこそものぐるほしけれ~
覚えてるものだよねえ、と僕と妻。
次の瞬間、ほぼ同時に二人の口から
僕等、の朗読がはじまる。
~僕はあなたをおもうたびに
いちばんぢかにえいえんを感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きている~
目をまん丸くして、何それ?と息子。
パパとママの大好きな詩だよ、と言って
目を合わせてクスッと微笑んだ。



コーヒーの香りが漂うこの部屋の中で、
僕らはいつの間にか過去の記憶を辿っていたようだ。
まるで時間の中を行ったり来たりする旅みたいに。
コーヒーの香りは旅の切符。
次に乗り込む時間列車の車窓からは、
どんな景色が見られるのだろうか。
とても楽しみだ。
甘くてほろ苦いミルクコーヒーを飲みながら
フッと頬が緩んだ。
明日もきっといい日になる予感がする。
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