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【小説】『Crackers(クラッカーズ)』羽野柾人×ChatGPTリライト版

土地区画整理中に発見された洞窟型遺構。
大量の埋蔵品と、未確認生物の骨片群。
この山で、いったい何が起きたのか。
時を超え、封印された真実が、いま語られようとしている。
──1997年、夏。

『Crackers(クラッカーズ)』

第1話「Crackers誕生」

Scene01:
陽が傾きかけた校庭。
遠くでうなる蝉の声。
額に汗をにじませた少年がひとり、
膝をついて、じっと一点を見つめていた。

土と砂が混ざる乾いた地面。
そこに、"蒼"がひとつだけ、落ちていた。

小石。
それは、親指の爪ほどのかけらだったが、
無限の光を孕んでいた。
指でつまんで太陽にかざすと、中で何かがトロンと蠢く。

健太(12)の目が、一瞬だけ吸い込まれる。
モノクロームの世界に静かに浮かぶ深い蒼。
古い記憶と、知り得ぬ未来のあわいにある、カタチの定まらない今を、遥か遠くから眺めているような不思議な感覚。

そこに突然──背後から迫る風切り音。
ドン!
視界がズレた。
衝撃が肩に走り、見つけた小石が指の隙間からこぼれ落ちる。
「……ッ!」
蒼い光が、土埃の中に溶けた。

「もう帰ろうぜ。今日、あの映画のラストチャンスだろ。見逃すのか?」
掠れた声が低く響く。
振り返ると声の主がクシャッと笑った──親友の春雄(12)だ。
愛嬌はあるが、目元がどこか鋭い。

「……何すんだよ」
健太は眉をしかめて軽く怒りをぶつけたあと、再び視線を足元へ戻した。
しかし、蒼い石はもう、どこにも見当たらなかった。

「石が、消えた」
「石って?」
「光ってた。……青く」

春雄は小さく笑った。
その笑いには、どこか幼さの残る諦めが混ざっていた。
「……お前さ、たまに変だよ」

健太は春雄の言葉を無視して、必死に地面を目で追った。
なくした何かを取り戻すかのように。
その顔を、下から春雄が意地悪な顔で覗き込む。
「だから、オレの話、聞い、てん、の」
「もう邪魔だって!」
本気で叩くつもりはなかったが、払った手が運悪く鼻柱にヒットする。
「──痛っっつ!」
弧を描くようにのけぞって、地面に倒れ込む春雄。
ワンテンポ遅れて一筋の鼻血が垂れてくる。
「ご、」
健太の心に一瞬の迷いが生じ、謝まるタイミングを逃してしまった。
ポケットから白いハンカチを取り出して、春雄の顔の上に落とす。
「映画はやめとく、塾だから」
目を合わさずに、健太はその場を立ち去った。

「ちっ、なんだよ」
春雄は顔に掛かったハンカチをクシャクシャに丸めて、健太が帰った方角へ投げ捨てた。
「まだ生きてるっつーの」
健太の行為を悪意として捉えたのだ。
鼻の奥がジーンと熱くなり、拭った指先が真っ赤に濡れた。
ため息をつきながら体を起こそうとしたとき、春雄の手のひらに軽い痛みが走った。
手をどけると、そこに健太が探していた”蒼い石”があった。

生暖かい風が、何処からか潮の香りを運んできた。
それは、
──1997年の、夏の出来事。


Scene02:
表札に大きく「柳(やなぎ)」の文字。
玄関の扉を開けた途端、空気が変わる。
縦長の隙間から、生活の匂いがドッと押し寄せてくる。

「早かったじゃない。塾は?」
台所の向こうから姉の声。
柳さつき(16)は手を止めずに、背を向けたまま尋ねる。

健太は靴を脱ぎながら、淡々と答える。
「行ったよ」
「ほんと?……タダじゃないんだから、わかってる?」
優しくトゲのある言葉に、無言の返答。
廊下を抜け、自分の部屋に入る。
光のない天井。時計の音だけが響いていた。

「春雄くんのママから電話あったわよ。"鼻血"がどうとか言ってたけど?」
健太の足が止まる。
「向こうから勝手にぶつかってきたんだ」
「あんたまた、そうやって」
いつの間にか背後に迫る、サツキ。
ヒュッと空気がうねり、健太は反射的にしゃがみ込んだ。
その頭上をサツキの回し蹴りが、風のように通り過ぎる。
「姉ちゃんさ、春雄の兄貴にどう思われるか気になってッ」
踵落としの気配を感じた健太は、ドアを盾にしてサツキを廊下へ押し戻した。
「ちょっ、健太!」
──柳家では、このような死闘がほぼ毎日のように繰り広げられていた。


Scene03:
夜の静寂が部屋を満たす。
窓から差す街灯の光が、ノートパソコンのキーボードを叩く手元を淡く照らしている。

Banana社のPower Monkey 808/α
半透明と銀色のスタイリッシュな筐体。
背面に浮かぶバナナ型のロゴ。
底面と机の隙間から淡い光が漏れている。
大手製菓メーカー〈コナビス〉のサマーキャンペーンで当てた景品だ。
これを手に入れるために、一体どれだけのクラッカーを無駄食いしたことか。
お小遣いのほとんどを注ぎ込んだ、汗と涙と根性の結晶だ。
健太は、そのマシンを大切に、しかし迷いなく操作する。

メール着信。
送信者は、春雄。
春雄も〈コナビス〉のキャンペーンで同じPower Monkeyを当てた、幸運な一人。

 「To. 健太
  あの後オマエが探してた石を見つけた。
  鼻血で真っ赤に染まったけど……
  この色のが俺は好きかも。
  ……石がこっちを覗いてくるような
  変な感じ。もう一人の自分?
  なんだろ、疲れたからもう寝るわ……
  じゃまた明日な」

健太の目が、鋭く細められる。
画面の白光が、彼の瞳に映る。
つい、無意識にマウスで机を叩いてしまった。──バン!

ブチュン!画面が暗転。
「タイプ11番のエラーが発生しました。コンピュータを再起動してください」
エラー音とともに、Power Monkeyはフリーズした。
健太は、静かにため息をもらす。

「……今日もついてない」

背後で、時計の秒針が止まったかのように、
周囲の音がスッと消えた。



Scene04:
翌日──午後、丘の上公園。
学校帰りの少年たちが、風の吹き抜ける草むらに集まっていた。

雲の隙間から覗く陽光が、街をジオラマのように照らす。
その中心で、健太はひとり沈黙を貫いていた。

「……春雄が学校を休むなんて、珍しいね」
誰かが口にした。

「先生は“体調不良”って言ってたけど、アイツ6年間皆出席狙ってたよな?」
沈む夕陽。風に揺れる木立。

健太の胸の中で、春雄から届いた昨日のメールが、削除と復活を繰り返している。
<──石がこっちを覗いてくるような変な感じ。もう一人の自分?>
冷たい感覚が、背中を這う。

「なあ、健太。お前らはいいよな。Bananaが当たってさ」
唐突に話題が切り替わった。
「俺なんか、ハズレカード通算143枚目だよ。
こうなりゃ意地だね。せめて2等の『Pocket Monkey』でも当たんないかな」
一人の友人が、束になったハズレカードを両手で握りしめていた。

健太は、それを"見せて"と受け取る。
普通に『カードゲーム』としても遊べるから、コナビスは戦略が上手い。

そして──
「……あれ?」
1枚目のカード。
そこには、はっきりと書かれていた。

“当たり”

思わず声に出して読み上げると、世界が、ほんの一瞬だけ停止した。
陽光が強く差し込み、カードが反射して光を放つ。

「……おい、えっ、マジかよ! 見せてみろ!」
周囲の仲間たちが、一斉に健太の元へ駆け寄る。

皆が一枚のカードに視線を集中させた。
だが──
「……って、おい! どこが“当たり”だよ!」
持ち主が怒りの声を上げ、カードを突き出す。

見るとそこには、明らかにこう書かれていた。
“は・ず・れ”

健太は、言葉を失う。
「……確かに見えたんだ。あれは“当たり”だった……」

もう一度、一枚ずつ丁寧にカードを見直す。
だが、すべてハズレ。
仲間たちが爆笑し、背中を叩いてくる。
「見間違いだよ」
「コナビス中毒、ヤバいぞお前!」

だが、健太の目は、虚空を見つめていた。
カードは"当り"と光った。
確かに一瞬、何かが干渉していた。

視界の端で、ギザギザした虹色の光が回転しながら点滅する──
まるで、遠くの空で、壮大な仕掛けが動き出したかのように。

そしてその光は、彼の意識の底で、静かに眠る何かを目覚めさせていた。



Scene05:
「……ただいま」
玄関の戸を閉めた瞬間、プールの中に潜ったような異様な静けさが耳を塞いだ。
部屋の灯りも、テレビの音もない。
いつもいるはずの姉の気配が、どこにも感じられない。

嫌な予感が背骨を駆け上がる。
靴も脱ぎきらぬまま、廊下を駆け出した──その途端、足が滑った。

「っ──!?」

背中から床に叩きつけられ、頭がガンと鈍く鳴った。
手をついて起き上がろうとするが、再び滑る。また、ぬめる。

てのひらを見る。
赤黒い──血、血、血。

鼻を刺す鉄の匂い。
薄闇の中、床一面が赤い液体で濡れていた。
血だ。
廊下が……血の海になっている。

「うあああああっ!」
叫びながら這い進む。服と手がベタベタと血を吸い掻き分ける。

姉の部屋の前にたどり着き、ドアを叩く。
「姉ちゃんっ! さつき姉ちゃんっ!」
返事はない。

ドアノブをつかみ、力任せに開ける。
部屋の明かりをつけた──
そこに、姉の姿はなかった。
机もベッドも整っている。
見慣れた日常の空間のはずだった。

ただ、壁にも床にも、天井にまで、
強烈な"赤"が飛び散っていた。
前衛アートのように、激しく、暴力的に。

「……う、うわあああああっ!!」

喉の奥から、動物のような声が漏れた。
理解が追いつかない。身体が震える。
意識が、ガクンと暗闇に引きずり込まれていく──。



Scene06:
柳さつきの失踪から、およそ1カ月が経過した。
警察は情報を公表せず、極秘裏に誘拐・殺人両面での捜査を進めていた。

──理由は明白だった。

廊下と部屋に残された血痕。それは人間の致死量をはるかに超えていた。
しかも今日に至るまで、どの病院にも該当する搬送記録は存在しなかった。

つまり、あの夜、姉は──。

だが、事態はそれだけで終わらない。
鑑識結果によって、現場から“二種類の血液”が検出されたのだ。
ひとつは柳さつき本人のA型。
そして、
もうひとつは、人間ではない草食動物の血
しかも、それらは混ざり合うというより『細胞レベルで融合』していた。

"後から撒いた血液"では説明がつかない。
時間的にも、空間的にも、現実的ではない。

また、部屋には争った形跡がほとんどなく、ドアや窓も破られていない。
抵抗がなかったのは、加害者が顔見知りだったのか。
それとも、犯行が一瞬のうちに終わったのか。

いずれにせよ、この事件は常軌を逸していた。
警察は「死体なき殺人事件」として捜査を続けたが、目撃者や証言者は誰ひとりとして現れなかった。

まるで、姉は最初からこの世界に存在しなかったかのように──。



Scene07:
地図を片手に、見知らぬ町を歩く。
朝の光の眩しさも力及ばず、彼の視界はどこか灰色に澱んでいた。

今日は転校初日。
姉が行方不明になってから、父と共に2年前に亡くなった母方の実家へ移った。
無理もない。
あの家には、もう住めなかった。
清掃業者が血の痕跡を丁寧に拭い去っても、記憶だけは消えてくれない。

鉄の匂い。
皮膚にまとわりつく、あの生ぬるい感触。
それが、夜ごと夢の中に流れ込んでくる。

春雄も──いなくなった。
あの日を境に、忽然と。

家族の話では、
部屋の中から鍵をかけたまま、ガラス窓を突き破って外へ飛び出したという。
7階だ。人間なら、落ちればまず助からない。

だが、遺体はどこにもなかった。
髪の毛一本すら残されていない。
自殺じゃない。偽装も無理だ。
ドアの前には家族がいた。
誰にも気づかれずに逃げるなんて、不可能だった。

一体なぜ。何が起きているのか。
肉親や、親友が、次々と目の前からいなくなる。
足元から、あたりまえの世界が音も立てずに崩れていく。

待て……でも、インターネットを使えば?
写真と情報を公開して、全国の人たちに呼びかけよう。
誰かが手がかりを持っているかもしれない。
可能性があるなら、動くしかない。
「学校なんて後回しだ」
健太は踵を返して通学路を逆走した。
光のない未来に、ほんのわずかでも火が灯った気がした。



Scene08:
「婆ちゃん、ただいま!」
「えっ? 健太? もう帰ってきたのかい。どうしたんだい、学校は?」
洗濯物を干す婆ちゃんを横目で見ながら、乱暴に玄関を開けて家に飛び込んだ。
「急ぎの用事。今日だけは休ませて」

「だめだよ、ちゃんと学校には行かなきゃ。お父さん月謝だってもう払って──」
「うんうん、ごめんごめん」

「……タダじゃないんだから」
姉ちゃんの口癖が、婆ちゃんの口からこぼれ出た。
血のつながりを、こんな形で感じるとは思わなかった。

「まあ婆さん、放っておいてやんなさい」
盆栽の手入れをしていた爺ちゃんが、絶妙な間合いで割って入った。
「久しぶりに、健太の顔に光が戻ってきたんだから」
──さすがだと思った。
日本でただ一人の「真大和流古武道」継承者。やはり、言葉の重みが一味違う。

さっそく部屋にこもり、母親が昔使っていた『Power Monkey 303』を起動した。
姉と春雄を探すためのホームページ作りに取り掛かる。

「絶対に、手がかりを見つけてやる──」


Scene09:
「完成だ……!」
気がつけば、日付が変わっていた。
ようやく仕上げた捜索ページのファイルを、FTPサーバーに送信しようとしたそのとき──
「あれ、接続ができない…… しまった」
インターネット回線を繋ぎ忘れていた。プロバイダも多分解約されてる。

そのとき、メール着信の通知音が鳴った。
「ん? 繋がってる?」

<新着メール:1件>
送り主は、春雄。
件名もなく、本文は短かった。


To. 健太

もうだめだ。
この石に完全に支配されてしまう。
助けて、健太


送信日は、春雄が姿を消したあの日だった。
“石に支配される”…?
あの、青い石のことか? 赤く染まったとか…

脳裏に、校庭で拾った小さな石の記憶がよみがえる。
その瞬間、パソコンのモニタ画面が暗転した。

「……フリーズ?」
いや、違う。
画面全体が真っ黒に染まり、何も操作を受け付けなくなったが、それが"始まり"だった。
内部から、低く唸るようなハードディスクの回転音が響き出す──。
そして、テキストがタイプライターのように流れながら表示された。


はじめまして、柳健太君。
私はCONABIS社の秘密組織『潜在能力研究室』に属する者、
──コードネーム【α(アルファ)】だ。

時間が無いので本題に入ろう。
君が食べていたCONABISクラッカーには、人間の潜在能力を刺激する物質〈Cidre(シードル)〉が仕込んであった。
その反応を観測するのが、我々のプロジェクト「BANANA計画」の役割だ。

地球上のすべての生命は、海から生まれた。

原始生命体に宿る進化の可能性──それを呼び覚ますのが〈Cidre〉であり、
君たちの中に眠る【原始DNA】だ。

特殊な体質を持つ者だけが、「当たりマーク」のカードを見ることができる。
君がその一人、“Crackers(クラッカーズ)”の適合者であるという絶対的な証拠だ。

その力は、内面を超え、やがて肉体すら変貌させる。
植物にも、動物にも、地球上のありとあらゆる生命体になりうる無限の力。

ここで、重要な警告がある。

君の友人・春雄君も我々の観測対象だった。
だが彼は失踪し、他のCrackersたちも次々と姿を消している。

君が巻き込まれる可能性は、極めて高い。
ネットを使った通信は、これが最初で最後になるだろう。

続きは、近くの<まちや>にて。
では、また──。



フリーズしたのは健太の方だった。
そして、数秒後──
遅れて笑いが込み上げてきた。
「なんだこれ! 原始DNA? Crackers? 何言ってんだよ!」

だが、笑いながらも、心の奥にひとつだけ引っかかる違和感が残った。
(……なぜ春雄のことまで知っているのか?)



Scene10:
──その翌日。
今日もわがままを言って、学校を休ませてもらった。

「……確か、台所の戸棚に残ってたはず」
健太は、去年の夏休みに買ったCONABISクラッカーを探し当てた。
まさかとは思いながらも、封を切る。
中から、カードがかさりと落ちた。

【ハ・ズ・レ】

「やっぱりな……」
でも、懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
一枚、口に入れる。
ザクッ、ザクッ……しみ込む塩気。
やめられない美味さ。とまらない食欲。

──その瞬間、健太の視線が一点に吸い寄せられた。
床に落ちたカード。
さっきまで“ハズレ”だったそれに、浮かび上がるように文字が現れていた。

【当たり】

「……っ!」
喉が詰まる。手が震える。
何度目を擦っても、カードの文字は、
静かに、確かに、輝いていた。

ざわり──空間が歪むような奇妙な感覚。
(これが……〈Cidre〉によって覚醒した、【原始DNA】の力なのか……)

第2話へ、つづく


第2話「挫折」


Scene1:
「ばばば、婆ちゃん! 大変なんだ、一大事!」
カードを握りしめて、健太は庭先に駆け出した。
今もキラキラと輝く“当たり”の文字。

「どうしたの、健太。そんなに血相変えて……」
婆ちゃんは洗濯を終えて、庭の草抜きの最中だった。

「このカード見てよ! すごいんだ──」
「どれどれ、私は目が悪いから、お爺さんに見てもらいなさい」

健太は踵を返した。
同じ敷地内にある祖父の道場。その扉を勢いよく開け放つ。
「爺ちゃん!」

道場の中央、鏡のように磨かれた床の上。
静かに座禅を組んだまま、祖父は微動だにしない。
瞼を閉じ、呼吸すら感じさせない。まるで針の上にとどまる碁石のようだった。

「爺ちゃん、聞いて! 本当に大事なことなんだ!」
返答はない。健太が近づいた瞬間──

バッ!

次の瞬間、健太の身体は宙を舞っていた。
見えない力にすくい上げられたように回転し、背中から床に叩きつけられる。

「いててっ……!」

「健太、修業が足らんぞ」
最初に見た時と変わらぬ姿勢のまま、祖父の声だけが道場内に響いた。

「な、なにすんだよ爺ちゃんっ! 修業なんかしてないってば!」
「わははは、そうだったか。で、用件は?」

健太は憤りながらも、カードを差し出す。
「このカード見てよ。ここに何て書いてある?」

「ふむ……ハズレ、だな」

「えっ、嘘でしょ!? これ“当たり”だってば! ちゃんと見てよ、真剣に!」
「うむ………………やっぱり、ハズレだな」

健太は絶句した。
(あのメッセージは本当だったんだ。覚醒した者だけに"当たり"の文字が見えるという……)

ポケットからクラッカーを取り出して、祖父の目の前に差し出す。
「ワシは、甘いもんしか好かん」
「いいから食べてみてよ。お願い!」

無理やり口に入れさせる。
カリッ……と一枚。
「どう、爺ちゃん?」
祖父はしばらく黙り込んだ後、静かに言った。

「…………うまい。もう一枚」

脱力した健太が床に座り込む。
「ちがうよ……そうじゃないんだよ……!」

祖父は笑いながら、袂の巾着袋から500円玉を一枚摘んで健太に差し出した。
「じゃもう一袋、ワシの分を買ってきてくれ」

「この町、……歩いていける距離にコンビニなんてあったっけ?」
「いいや駄菓子屋さ。家の裏手を東へ4、5分歩いた三叉路の角。ヒョウタンの看板を掲げた『万智屋(まちや)』って店、忘れたのか?」

健太の記憶がぼんやりと蘇る。
小さい頃、母に連れられて行ったお気に入りの場所。
そして、あの謎のメッセージのラストにあった“情報のありか”<まちや>。

(よし決めた。"行けばわかるさ")
健太は立ち上がった。
その表情に迷いはなかった。


Scene2:
店は、ツタに覆われた古民家風の佇まい。
看板の「万智屋」の文字は、風化してかすれている。
入り口の両脇にはには、瓶タイプの赤い自動販売機とルーレットのコインゲーム機が仁王像のように並んでいる。

健太は呼吸を整えて、店内へ踏み込んだ。
棚に並ぶガラス瓶の中に、カラフルなお菓子がぎっしりと詰まっている。
懐かしい甘い香りが鼻をくすぐる。

──『さあ健太、好きなのを選びなさい』
遠い記憶。母の声が、ふっと背後から届いた気がした。
(ここ……来たことある。何度も。なのに、すっかり忘れてた)

「いらっしゃい。あらまあ、随分大きくなって」
奥から現れたのは、丸眼鏡をかけた小柄な老婦人。
柔らかい声。やさしい眼差し。

健太は申し訳なさそうに切り出した。
「あの……クラッカーズのことなんですけど」

一瞬だけ、老婦人の表情が揺れた。
だが、すぐに笑みがこぼれる。
「ごめんね。クラッカーは今品切れなの。最近人気があって」
(なんだ……やっぱり、ただの駄菓子屋か)

「そうですか。じゃあ、また来ます」
健太が店を出ようとしたとき、老婦人が呼び止めた。

「せっかくだからクジ、引いていったらどう? 学校休んできたんでしょ? 一回だけサービスしてあげるから」
健太は振り返り、無言でうなずいた。
「このクジね、当たると“ぽけっともんきい”ってのがもらえるらしいのよ」

「携帯ゲーム機の“Pocket Monkey”?!  それ、本物?」
(よく見ると、“Rocket Monkey”って書いてある。ポとロじゃ大違いだ)
フルスペックの最上位機種を手に入れた健太にとっては、単なるガラクタだった。

健太は思わず苦笑したが、それより彼の目にとまったのは別の品──
Banana社のマークをかたどった、ピンバッジ。正規品はどこにも売っていない。
「……こっちのバッジが欲しんだけど。もしゲーム機が当たったら交換できる?」

「あらまあ」

結果はなんと大当たり。ようやく健太にも小さな幸運が巡ってきた。
「あんたで二人目だよ。こんな変わったこと言うの」
バッジを受け取った瞬間、老婦人が呟いた。
「えっ?」
「ちょうど、あんたと同じくらいの歳の女の子。
クラッカーのおまけカードで『ぱそこん』が当たったから、いらないんだって」

健太の目が見開かれる。
「え?その子、名前は、住所は?」
「さあ、たまにしか見かけないけど……」
健太は慌てて紙と鉛筆を借り、自分の連絡先をそこに書き込んだ。
「もしその子がまたこの店に来たら、これを渡してよ。必ず!お願い!!」
「お婆ちゃん忘れっぽいから、約束はできないけれど」
「思い出したらでいいよ、ありがとう!」

ピンバッジを握りしめて、健太は駆け出した。
“Rocket Monkey”と交換してもらった、新たなお宝アイテム
胸の奥に、確かな鼓動が戻ってきていた。
(春雄だけじゃない。……すぐそばにも誰かいる)

──自分と同じ、“Crackers(クラッカーズ)”が……



Scene3:
「今日はみなさんに新しい仲間を紹介します。シティボーイの柳健太君です!」
担任の声が教室中に響き渡った。
熱量の高い体育会系教師。空気の温度が一気に上がる。

健太は静かに一礼し、「よろしく」と呟いた。
だが、背中に張り手を叩き込まれるような痛烈な一言が飛んでくる。
「おいおい元気がないぞ。そんな蚊みたいな声じゃ、後ろまで届かーん!」

健太は顔を上げ、わざとらしく叫んだ。
「柳健太です! よ・ろ・し・く、お願いしまーす!!」
教室がざわめく。
一呼吸置いた後、あちこちで小さな笑いが起こる。
片手で頭をかきながら、精一杯の笑顔で全員に向かって手を振った。
──ここで逃げたり心を閉ざせば、すぐそばにいる"誰か"には一生近づけない。

「君の席は……城山の隣だ」
その名前に、周囲の男子がどよめいた。
「えーっ、いいなあ!」

教室を見渡すと、席が二つ空いていた。
「ん、城山。今日は欠席か……おい、誰か休みの連絡聞いているかー?」
この教師、いちいち無駄に声がでかい。
女子が数名、互いに顔を見合わせて首を振る。
「そうか。先生ちょっと職員室に戻るから、お前らしばらく自習しててくれ」



──休み時間。
健太は意を決して輪の中へ飛び込んだ。
「この学校に、コナビスクラッカーでBananaを当てた子、いる?」

「いるよ」
返事は即答だった。健太は拍子抜けした。
「ほんとに!?」

「佳奈ちゃんだよ。俺らのアイドル、な」
「アイドル?」
「城山佳奈。キミの隣の席の子」
そこにクラスの女子が強引に割って入る。
「ねえ、先生さっきから佳奈の家に何回も電話してるけど、誰も出ないって」

──左胸が、ズキリと疼く。
喉の奥がヒリヒリ乾く、たまらなく嫌な感覚。ただ、確信だけはあった。
(間違いない……その"カナ"って子が、探している“Crackers”だ)

初めて会話を交わすクラスメートと、Bananaの話題でひとしきり盛り上がる。
なんとか会話を合わせながら情報を集め、すでに“次の行動”を決めていた。

次の授業が始まる前に、
健太の姿は、教室から消えていた。



Scene4:

その子の家が何処にあるのか、詳しくはわからない。
ただ、自分の勘だけを信じて走る。
全速力で走っているはずなのに、一向にスピードが衰えない。
風の音、土の匂い、足裏の小石の感触までが、鮮明に浮き上がる。

(これが……【原始DNA】の覚醒?)

そして、一軒の洋風住宅の前で足がピタリと止まった。
──大理石の表札には「城山」の文字が彫られている。

玄関に近づいた瞬間、鼻を突く“あの臭い”。
錆びた鉄の匂いだ。
今すぐこの場から、逃げ出したかった。

耳元に、かすれた声が届く。
「……たすけて」

誰の声かもわからない。
けれど、それで十分だった。
ドアを開けて中に飛び込む。

床に点々と続く赤い飛沫。
そして、倒れている──女性。息は、まだある。
「佳奈……が……」
その人は、佳奈の母親だった。
健太は電話機を探して、震える指で救急車を呼んだ。

「いったい……何があったんですか!」
返事はない。ただ首を横に振るだけだ。
健太は家の中を駆け回った。
佳奈を探す。
どこだ、どこにいる。

──2階。割れたガラス。開いた窓。
風が吹き込むその部屋に、彼女の姿は見つからなかった。

だけど、何かが残っている。
体温。気配。残り香。
(この匂い、……これか!)
健太はベッドの脇に残された小さな布に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。
(これで追えるか?)
踵を返し、窓に向かう。
──その直前で、彼は急に立ち止まり、ズボンのジッパーを下ろした。
壁際に立ち、ゆっくりと用を足す。
そして風のように走り出した。

その背には、かすかな獣の気配が滲んでいた。


Scene5:
滑るように、森の中を駆け抜ける。
枝葉が頬をかすめ、濃密な空気が肺の奥にどっぷりと流れ込む。
とっくに林道を外れて、深い山の奥へと入り込んでいた。

休まず走っているはずなのに、未だに疲れない。
目を閉じていても、木々の合間を縫うように、野生の勘だけでどこまでも駆けていける。

ただ、喉だけがやけに渇く。
唇の端から涎が垂れているのに気付いても、それを止められなかった。

サラサラとした水の音。
本能が導くままに、獣道のその先へ。

やがて、岩肌から清水が湧き出る溜まり場が視界に入った。
──そこに、小さな先客がいる。

野生のリス。
ぴたりと動きを止めて、こちらを伺う。
その目に、何かを悟ったような恐怖が宿る。
「……こっちにおいで」
健太がそっと手を伸ばす──
その瞬間、リスは弾かれたように飛び去った。
姿はすぐさま森に溶けた。

健太は、黙って水を飲んだ。
氷のように冷たくて、驚くほど旨い。

両手ですくって顔を洗おうとした時──
水面に映った“何か”が、自分の動きを止めた。
(……誰だ、これ……?)

目は異様なまでに大きく、青白く光り、
口元は前へと伸び、牙が4本、獣のように剥き出しになっていた。
(!!!)
身体が後ろにのけぞり、尻餅をつく。
必死で顔を両手で探る──だが、手が痺れてうまく触れない。
呼吸が荒い。
鼓膜が脈打つように震えている。
抑えきれない、感情の渦。

静かな森に、獣の叫びが低く響き渡った。


Scene6:
「健太君! 聞こえるか!? しっかりするんだ!」
遠くから、誰かの声が響いてくる。
頭の奥がガンガン痛み、目が開かない。
だが、その声に……どこか聞き覚えがあった。

「目を覚ませ、健太ッ!!」

瞼がゆっくりと開いた。
濃い緑の天井──木漏れ日。
そして、目の前に見覚えのある優しい顔。
「……晃さん?」

春雄の兄、杉崎晃(あきら)だった。

意識がようやく戻ってきた。
しかし、顔と体には火傷を負ったようなヒリヒリとした感覚が今も残っている。
(顔……!?)
「晃さんっ、僕……顔が、顔がっ!!」
震える手で確かめる。

──戻っていた。
(あれは、夢……だったのか……?)

「落ち着け。ひどくうなされてたぞ」
健太は息を整えながら、問いをぶつける。
「なんで晃さんがここに? 」

晃の指先が、健太の胸を指した。
「そのバッジ。……ソイツが発する信号を追って、ここまで来たのさ」
健太が自分の胸に目を落とす。
Banana社のマーク。駄菓子屋で交換してもらったピンバッジだ。

「もちろん、俺も最初は信じてなかったさ。
でも、春雄のパソコンに残されていた“あのメッセージ”を見せられた時……
揺るぎない確証が、迷いを全部弾き飛ばした」
健太の目が、晃を射抜くように見る。
「まさか、晃さんも……」

「そうだ。俺も、ヤツらが言う『Crackers(クラッカーズ)』のひとりだ」
二人の言葉が重なった瞬間、森の中の空気が一段と濃くなった気がした。

「【α(アルファ)】から、<万智屋>でお前のことを聞いた。コイツで"健太のバッジを追いかけろ"って」
(・・・。)
「これはもう要らないな」
晃は、手にしていた小型ゲーム端末を草むらに投げ捨てた。
チープで黄色い樹脂製の筐体には、**『Rocket Monkey』**のロゴ。例のニセモノだ。

「やっぱり、あの店……ただの駄菓子屋じゃなかったってこと?」
「ああ。CONABIS社の“観測所”のひとつだそうだ。オチのない冗談みたいな話さ」

健太の中で不安の種が発芽していく。
「僕が追っている……佳奈、クラッカーズの女の子は、今も生きて」
晃は立ち上がり、森のずっと奥を見つめた。
「いるさ。……きっとこの近くに」

健太は頷き、ふらつく足で立ち上がった。
「行こう──晃さん!」
今はただ、自分たちを信じて進むしかない。
彼らの中で、なにかとてつもなく大きな塊が目を覚ましはじめていた。


Scene7:
「ダメだ、こっちにはいない」
晃の声が、轟音にかき消されそうになりながら耳に届いた。
渓流はこの場所で途絶えていた。どこかの観光地で見たことのある光景。
映画館のスクリーンほどもある巨大な滝。
流れる水が無数の白い線となって岩肌を滑り落ちている。
「健太、ここだけ、うわッ……痛ってえな!」
バシャンという水音の方に目をやるが、晃の姿がどこにも見当たらない。
「おい、健太君。こっちへ来てみろ!」
「晃さん、どこ!? 大丈夫!?」
「ここだ」
全身ずぶ濡れになった晃が、滝の向こう側から姿を現した。

重く打ちつける水流のカーテン、その向こう側に"闇"が潜んでいた。
大人が立って入れるほどの高さを持つ、黒々としたその入り口。
「──」
二人は言葉もなく、洞窟の中へ足を踏み入れた。
壁面にはびっしり苔が張りついて、何処かに動物の死骸でもあるのか、湿った空気が生臭い。
内部は意外なほど広く、冷気が徐々に足元から体温を奪っていく。
光が届かず真っ暗なはずなのに、それが全く気にならなかった。
「わっ!」
突然、晃さんが振り向いて大声を上げた。
僕は飛び退いた。
「驚いたかい?」
晃さんは照れくさそうに笑った。
しかし、──その顔が次の瞬間、氷のように青ざめた。

「……春雄……」
「え?」

その名前の意味を確かめる前に、反射的に振り向いた。
そこに──確かに、"春雄"がいた。

でも、何かがおかしい。
表情は蝋人形のように固まり、目だけが異様にギラギラしていた。
背筋がぞわりと冷たくなる。

──その時。
洞窟の奥から、女の子の叫び声が響いた。
甲高く、切実で、喉を裂くような悲鳴。



Scene8:
佳奈──なのか?
二人は同時に動いた。だが、次の瞬間!

「っぐわあああっ!!」

鋭い衝撃波が、爆音のように洞窟を包んだ。
二人の身体が弾け飛び、歪で硬い岩肌に叩きつけられた。
全身の骨が軋み、肺から血の混じった息が漏れる。

「……!」
淀んだ視界のその先で、“それ”が動いた。

春雄──だったもの。
彼の身体は、ゆっくりと、しかし確実に変貌していった。
嫌な音とともに皮膚が裂け、筋肉が蠢き、ギリギリと骨格が伸びる。
暗赤色の体表、刺のような背骨、膨張した眼球、鋭利な牙。
まるで映画の中のクリーチャーが、現実に飛び出してきたようだった。
「うそだろ……春雄……?」
こんな生物は、地球上(ここ)には居ない。

ぐわあああああああっ!!

怪物が咆哮した。周囲の空間が揺さぶられる。
鼓膜を破るような音圧が容赦なく襲う!
両手で耳を覆っても頭が割れそうになる。

「健太君、コイツを!!」
晃さんの叫びに合わせて何かが宙を飛んだ。

反射的にそれをキャッチする。
小さなパッケージ。
見たこともないデザインの、──CONABISクラッカー。

「それは『プリミティブ・クラッカー』だ!」
晃さんがまるでコマーシャルのように言った。
「市販されていない、試作品だ。
【α(アルファ)】の読みが正しければ……
ソイツで君の“原始DNA”が、完全に目を覚ますはずだ!」

「もう、なに言ってんのかさっぱりわかんないよ」
考える間もなく、怪物が高く跳ねた。
健太は、無意識でクラッカーを袋ごと口の中に突っ込んだ。

オブラートのように袋が溶け、
次の瞬間──
健太の体内で、“眠っていた何か”が爆ぜた。

晃もクラッカーを頬張る。
二人の身体が淡く光りビリビリと震え出す。
胃から喉へ、背骨から脳天へ、何かが螺旋を描いて駆け上がっていく。

目の奥が焼けるように熱い。
皮膚が裏返るような感覚。骨の内側から凄まじい力が無限大に膨張していく。
『ぐギギギギッギっ!!』
二人の咆哮が、壊れた二梃のコントラバスのごとく、不協和音を奏でながら共鳴し合う。


Scene9:
《About Crackers…》

──海。それが、すべての始まりだった。

地球上のすべての生命のはじまりは、遠い遠い昔、母なる海から生まれた。
最初は目にも見えないほど小さく、弱く、単純な生命体だった。
それが時を経て進化し、
植物となり、魚となり、さらには爬虫類、鳥類、ほ乳類へと姿を変えていった。

だが──

その起源となる始祖、すなわち「原始生命体」に宿りし力。
進化の可能性を無限に秘めた、最初の設計図。
そのコードは、今もなお密かに受け継がれている。

それが、【原始DNA】(Proto-DNA)

そして、人類の中にはごく稀に──
この【原始DNA】を生まれつき保有する者たちがいた。

それが「Crackers(クラッカーズ)」だ。

沈黙し続ける、DNA。
だが、CONABIS社が開発した特殊物質〈Cidre(シードル)〉を過剰摂取することによって、

それは突然、目を覚ます。

Crackersの肉体は、精神状態に応じて進化を開始する。
それは“変身”ではない。
あらゆる生物種の本能と力が、彼らの内から実体化するのだ。
猛禽の眼、魚類の超音波、昆虫の跳躍、獣の筋力、樹木の再生力……。

地球上に存在する全生命のスペックを内包した、超状体。
それが──Crackers。

いま、その禁断の扉を、彼らは自らの手でこじ開けた。
それは、次元を超えた進化のはじまりだった。


Scene10:
二人の身体に異変が生じた。

先に反応したのは晃の方だった。
「うっ…がぁぁぁっ!!」
背中が盛り上がる。皮膚が裂けて、そこから一対の翼が顔を覗かせた。
広がる羽根は黒と金が混じり合った艶やかな光沢を放ち、神話に出てくる鳥人のようだ。
鋭く伸びた嘴。
瞳は猛禽のごとく光を放ち、晃は完全に、“ヒトではないナニカ”に変わった。

(まさか……晃さんまで、怪物に──いや、進化体に!?)

今度は、健太の耳がズキッと痛んだ。
手を当てると、そこに──得体の知れない巨大なナニカがあった。

「健太君! 俺は女の子を助けてくる。お前は今すぐこの場を離れろ!」
晃は翼を一閃させ、風を巻き起こして洞窟の奥へ突入した。

残された僕は、ただ呆然と立ち尽くす——
その目の前にあの赤黒い怪物が迫ってくる!
それはもう、自分が良く知る春雄では無かった。
何とか洞窟の外には出られたが、
足が絡まって、跳ぶようにしか走れない。

ダメだ終わった……!

──覚悟を決めたその瞬間、一筋の風の音。
(晃さん?!)
大きな翼を広げ、腕に女の子を抱えながら、滝を破って飛び出してきた!
そのまま、怪物に真っ向から体当たりして、上空へ急旋回する。

二人を見上げた健太は、足元の苔に足を取られて派手に転んだ。
ドスンッ!
思い切りお尻を打ちつけた。
「あいたたた……、って、あれ?」
さすったお尻に、柔らかい、ふわふわとした毛玉の感触。
振り向いて確認すると、
腰の下あたりに、丸くて白い可愛いしっぽが生えていた。
「なんだよ、これ……!」

その時。ドバンッ!!
滝つぼの水面が爆発するかのように跳ねた。
赤黒い怪物の仕業だ。
超音波を吐きながら、鬼気迫るスピードでやって来る!

逃げた、夢中で逃げた。
枝をかき分け、岩を飛び越え、転びながらも走り続けた。

ふと空を見上げると、
少女を抱えた鳥人が、逆光の中、勇壮に大空を舞っていた。

……すごく綺麗だった。

それに比べて……。
情けなかった。何もできなかった。
ただ必死に逃げるだけの、哀れな小動物。

泣いた。
全力で泣いた。
だけど、声は出なかった。

……ウサギだから。

第3話へ、つづく


第3話「再会」


<原始DNA>の覚醒により未知なる生命の領域に足を踏み入れた健太は、 何もできずにウサギとなって逃げ帰った自分の不甲斐なさに落胆していた。

Scene1:
今は使われていない電車の操車場。数年前から資材置き場に姿を変え、打ち捨てられた枕木が山をなしている。錆びた線路がまっすぐ地平線を目指し、その先にゆっくりと流れる雲があった。

健太はその線路の上に寝転び、空を仰いでいた。枕木の腐食した匂いと夏草の青い香りが混ざる。 あの丘も好きだったけど、今の自分にはこの寂れた風景のほうがしっくりくる。

流れる雲が、スライドショーのように家族の顔を順番に写し出す。
そして、最後に少女の横顔に変わり、フッと姿を消した。

家出はこれで2度目だった。

最初の家出のきっかけは、亀。父さんが山で拾ってきた小さな亀をカメゴロウと名付けて、弟のように可愛がった。 でもある日、学校から帰ると彼はいなくなっていた。父さんが山に返してしまったのだ。 後で姉ちゃんに理由を聞いた。かなり弱っていたから、死ぬ前に生まれた場所へ帰してあげたそうだ。

あちこち怪我をしながら、知らない山を夢中で探し回り、ただ、泣いて帰った夜のことを今も覚えている。 父さんは僕の頭を撫でて、こう言った。
「いつかお前にも、わかる時がくるさ」と。

だけど今回ばかりは、いくら父さんでも理解をするのは難しいだろう。
クラッカーを食べたら、ウサギになりました。──まず、冒頭からドン引きだ。
何もできず、ただ逃げるだけで、情けない自分が嫌になりました…
これじゃあオチがなくて、笑い話にもならない。

晃さんとあの女の子、──城山佳奈。今頃、二人はどうしているんだろうか。

──あの夜、晃さんの機転で、彼女は母親が運ばれた病院の中庭に寝かせられた。
ショックで意識を失っていたが、幸いどこにも怪我が無いように見えた。
『プリミティブ・クラッカー』の欠片を口の中に含ませておいたので、
今はもう、【原始DNA】の力で自己再生しているはずだ。

一方、ウサギ男はあてもなくさまよい、二日目の夜をここで迎えようとしていた。
お腹は空いていなかった。
体の中にまだ何か、わずかに力が残っている気がした。

「健太君……?」

足元で、女の子の声がした。
驚いて体を起こすと、そこに"城山佳奈"が立っていた。

「えっ、どうしてここが──」
「そのバッジ…… 私とお揃いの」
しまった、Bananaピンバッジを外すの忘れてた。

「ハハ、元気そうだね。体はもう大丈夫?」
はじめて真正面から彼女の顔を見た。たしかに、可愛い子だった。

「ええ。晃さんから、あなたのことを聞いたわ。……ありがとう、助けてくれて」
「いや、僕は何も……」

彼女の大きな瞳が、涙で潤んでいた。
(泣くなよ、泣きたいのはこっちなんだから)
「──お母さんは無事だったの?」
「うん。もう少し遅かったら、危なかったって」
丸い瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれる。

(少しは役に立てたんだ)
空を見上げて、ホッと溜め息をついた。
「なんか大変なことに巻き込まれちゃったね」

「健太君……」
「え」
突然、彼女が抱きついてきた。
不意をつかれて受け身も取れずに倒れ込む。
「──」
ほんの数秒の出来事だった。
人の温もりがこんなだと、初めて知った。
「ごめんなさい。なんだか嬉しくって、つい……」
慌てて体を離す佳奈。その頬が少しだけ赤い。

「私、ずっと一人だったの、誰にも話せなくて。
でも、あなたと晃さんに会えて……」
言葉がつまる。

「僕だって同じさ……」
そこから先の言葉が出てこない。
あの時の涙が、今頃になって溢れてくる。

沈黙が、優しく流れる。
【僕はこの子に会うために生まれてきたのかもしれない】
そんなふうに、思えた。

──二人は知っている限りの情報を交換した。
姉のこと。春雄のこと。CONABISのこと。
そして、Crackers(クラッカーズ)のこと。

佳奈は誘拐された間の記憶を失くしていた。
誰に襲われたのかも、覚えていない。

彼女の母親は「怪獣の仮面を被った子どもに襲われた」と証言しているらしい。
医師の見立てでは「ショックによる一時的な記憶の混乱」だ、と──。

春雄の仕業なのか……?

あの赤黒い怪物。
あれが【原始DNA】の進化の結果だとしたら、突然変異の一種か?
でもどうして、人間を襲う必要がある?

自分たちは、変身しても意識があった。
理性もあった。考えることもできた。
あの姿は、何だったんだろう。

「健太君、お家に帰ろうよ」
佳奈が手を差し伸べる。
「無理だよ。帰れない」

「ここにいたって、何も変わらないよ」
「そうだけど……」

「あっ健太君、耳が!」
(えっ、また?──嘘だろ)
慌てて耳に手をやると、佳奈がクスクス笑った。
「冗談よ」
「も、もう……。まさか、僕がウサギになったの──」

「見たわ。とても可愛かった」

……最悪だ。
「私ね、幼稚園の頃ウサギを飼ってた。でも逃げられちゃったの」
やっぱり見られてた。
「きっと、人に飼われるのが嫌だったのね」
ウサギ男。
「それ以来、もう動物を飼うのはやめたの」
ウサギ……ウサギ……ウサギ……
「ちょっと、健太君。聞いてる?」

「ごめん、ショックで」
ハニワみたいに固まっていた。

「元気出してよ。私にとって、あなたは命の恩人なのよ」
……なんだろう、この敗北感。
母親を助けて浮かれてた自分が恥ずかしい。

「さあ、行きましょ!」
佳奈に手を引かれ、トボトボとついていく。

──ウサギを飼っていた少女と、亀を飼っていた少年。

『ウサギと亀』か。
よかった、亀に変身しなくて。 してたら今ごろ、捕まってたな。


Scene2:
「ダメだ。やっぱり帰れないよ…」
門の前まで来たものの、足が地面に縫い留められたように動かない。
あと一歩が踏み出せない。
さっきから、心臓がやたらとうるさい。

「さあ、早く」
佳奈に背中を軽く押された。
──その瞬間、心のブレーキがふっと外れた。
体が自然に前へと倒れ、その勢いで門をくぐってしまった。

玄関の前に、誰かがうずくまっている。

……父さんだった。

薄い雲のかかった夕日が、背の高い父さんの影を更に長く引き伸ばしていた。
目が合った瞬間、父さんはすっと立ち上がった。

怒鳴られる──そんな予感に身構えた。
でも、返ってきたのは、……満面の笑顔だった。

ひと呼吸だけ遅れて、父さんは顔をそむけた。
目尻を、指の背で静かになぞる。
父さんが泣くところを、初めて見た気がする。
母さんを亡くした時もきっと、隠れて。

後ろを振り返ると、
門の外で、佳奈が静かに手を振っていた。
その姿がにじんでよく見えなかった。
頭を下げて感謝を伝えたあと、
もう一度、玄関に向き直り、喉に詰まっていた言葉を吐き出した。

「父さん!!」

「おかえり、健太」
「僕、また父さんに心配かけて……ほんと、あの、ごめんなさい」

父さんは、柔らかく、そして真っ直ぐな眼差しで言葉を紡いだ。
「ありがとう、帰ってきてくれて」


──夕焼けが、二人の間に影を落とした。
その影は、光の中では朧げで見えにくい、家族のカタチをそっとなぞった。



Scene3:
「皆さん、今日は残念なお知らせがあります」
ホームルームの冒頭、学年主任がそう口にした瞬間、教室の空気が張りつめた。
「先日、私たちの学校に転校してきた柳健太君ですが、お父さんの仕事の都合で、しばらくの間、休学することになりました」
クラス全体がざわめく。
視線の先には──城山佳奈。

彼女は、ほんの少し微笑んで、ゆっくりと首を左右に振った。
(まるで「私は知らない」とでも言うように…)

「ぐぉっほん!」
学年主任はわざとらしい咳払いで、教室の空気をリセットする。
「みなさん。柳君が戻ってきたときには、また仲良く迎えてあげてくださいね」
「はーい」
間延びした返事と同時に、先生の手元から無情にもプリントの束が掲げられる。
「では、抜き打ちテストを始めます。はい、教科書とノートをしまってー」
「ええーっ!!」
その抗議のブーイングは校舎を突き抜け、空を舞うトンビにすら届きそうだった。



ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
──佳奈かな?
健太は、立ち上がりながら頭の中で言葉遊びを始めた。
(カナカナって、なんかセミっぽいな)
そんなくだらないことを考えながらドアを開けると、そこに立っていたのは──

やはり、城山佳奈だった。
白い水玉のワンピースに、どこか懐かしさを感じる。
昔のアイドルみたいで逆に新鮮だった。

「こんにちは」
「やあ。今、爺ちゃんと婆ちゃんデートで誰もいないんだ。まあ、上がってよ」
「今日はノートの写しを届けに来ただけだから……」
はにかむように首を振る彼女。

「そう、それは残念。ちょうど、おいしいシュークリームがあるんだけど」
健太の言葉に、佳奈は少し考える素振りをして──上目遣いに微笑んだ。
「……なら、ちょっとだけ。別に、食べ物に釣られたわけじゃないから」
「わかってるって、アハハハ」
授業の復習をしながら、ふたりでシュークリームを頬張る。
「美味しい……甘すぎないし、皮もサクッとしてる。どこで買ったの?」
健太はわざと、間をおいてから答えた。

「それ、作ったの」
自分を指さして微笑んだ。

佳奈は目を見開いたまま、一瞬固まる。
「へえ……意外な才能があるのね」

「登校拒否も、結構暇なんだよ。ずっと家にいると、やることなくて退屈だし」
「じゃ、学校においでよ。みんな、健太君が戻ってくるの待ってるから」

──本気でそう思ってくれている気がして、心の奥がジンと響いた。
けれど、ゆっくりと首を横に振る。
「それがダメなんだ。主治医が、しばらくストレスから距離を置きなさいって…」
「そうなんだ」
佳奈の表情が曇る。
「……ちなみに担当の先生って、僕の父さんなんだけど」
「子ども想いの、優しいお父さんじゃない」
そうかな……最近は仕事ばかりで、あんまり遊んでくれないけど」
(話がややこしくなるので、父親が大学病院の教授であることは伏せることにした)

健太は、空き地で父とキャッチボールをした記憶を引っ張り出そうとしが、ひとつも見つからなかった。
思い出すのは、
日が暮れるまで昆虫採集勝負して勝ち誇った、春雄の顔
虫が怖くて泣きながら逃げる、姉ちゃんの顔。
仲良くしなさい!と怒られた、母さんの顔。

──みんな、もういない。

「ねえ、健太君。泣いてるの?」
「ち、ちがうよ。眠いだけだよ。昨日、遅くまで晃さんに勉強を……」
「ならいいけど、あんまり無理しないでね」
──見え透いた嘘。
ただ、バレないことを祈った。
『ナキウサギ』だなんて、呼ばれたくないから。

「じゃあ、そろそろ帰るね。お母さんのお見舞いにも行かないと」
「うん」
「……また明日、ノート持ってくるから」
そう言いながら、佳奈はふいに振り返った。
「そうそう、エクレアの語源って『稲妻』なんだって。知ってた?」
「それは、初耳」健太は、首を横に振った。
「あれ、美味しいよね」
「そう、だね」健太は、首を縦に振った。
「別に深い意味はないんだけど」
佳奈はくるりと背中を向け、フフフと笑いながら玄関のドアを閉めた。

そして、また静けさが戻ってきた。
──でも、その静けさはさっきまでの孤独とは少し違った。
あの子と一緒にいると、なぜだか元気になれる。

明日、佳奈とふたりで、あの<万智屋>に行ってみよう。
あそこに行けば、何かわかる気がする。

そしてきっと──
何かが、始まる気がする。



Scene4:
夕暮れの畦道を二人並んで歩く。カエルと蝉の合唱が高い空へ吸い込まれていく。
エクレアを頬張りながら、少しだけ遠回りをして目的地を目指した。

「ねえ健太君。……ほんとに、あの駄菓子屋。CONABIS社が運営してるのかな」
「晃さんを信じよう。あのお婆ちゃんが、僕らを騙してたとは思えないけど」

二人は駄菓子屋《万智屋》に到着した。
小さな男の子がお母さんに手をひかれて泣きながら店から出てきた。
「チョコレートー!チョコレートほしいよーっ!」
「まさと君、ダメでしょ。虫歯があるんだから。歯医者さんで治してからね」
「やだやだ!食べたいよーっ!」
「言うこと聞かない悪い子は、薪捨て山の赤鬼に食べられちゃうんだから!」
その言葉で、男の子はピタッと泣き止み、母親の足にしがみついた。
「鬼こわいーっ!鬼やだぁーっ!」
「さ、帰りましょ。後で、お母さんがリンゴ剥いてあげる」
男の子は元気よくスキップしながら、母親と手をつないで去っていった。
「リンリン・ゴー♪、リンリン・ゴー♫」

その歌があまりに可笑しくて、二人は顔を見合わせて吹き出した。
「こんにちはー」
声をかけながら、店の奥をのぞいた。
カラン。
「はーい」
前に見た、あのお婆さんが顔を出した。白い割烹着に丸眼鏡。
どう見ても“ただの駄菓子屋のお婆ちゃん”にしか見えない。
「あらまあ、今日は二人で。探してた人に、無事に出会えたんだねえ」
健太は素直に「ありがとう」と礼を告げた。
「さあどうぞ奥へ。あなたたちが来たら、中庭へ通してって息子に言われててね」
二人は目を丸くして顔を見合わせた。
言われるがまま店の裏手の縁側へと案内された。思ったより奥行きがある。

中庭は薄暗く、盆栽の鉢が傾き、小さな池には苔が浮いている。
まるで時の止まった箱庭だった。とても手入れされているとは言い難い。

二人は縁側に腰掛けて、出されたスイカと麦茶に視線を落とす。
水滴を蓄えた切子ガラスの氷が、カランと綺麗な音を立てた。
「ほんとに、ここでいいのかな……」
佳奈が呟いたとき──
スッ。と背後で襖が静かに開いた。

「ようこそ、柳健太君。そして、城山佳奈君!」
二人はハッとして振り返った。

そこに立っていたのは、背の高い中年の男だった。
白髪交じりの短髪、丸眼鏡、──そして、ド派手な赤いアロハシャツ。
凄まじく場違いなルックスだった。

「初めまして。私はCONABIS社Japanの【α(アルファ)】だ、
まあ、仲間からは“アロハ”と呼ばれているがね」
男は笑いながら、二人の肩を軽く叩いた。
「晃君は、先に“潜在能力研究室”へ向かってる。さあ、君たちも案内しよう」

そう言って、男は下駄を引っ掛けながら庭に降りた。
池の端にある“龍の蛇口”に手をかけると、
ギィィィッ……
と重たい音を立てて、"陰陽太極図"が刻まれた台座が回転する。

次の瞬間──
ゴボゴボと水が吸い込まれ、池の底が渦を巻くように干上がっていった。
露わになった石の底に、金属のハッチ。
ロックが外れる電子音がして、静かにハッチが開いた。
中から、地下へ続く金属ハシゴの先端がニョキッと現れる。

「さあ、こちらへ。滑るから足元には十分気をつけて」
佳奈はとても不安そうな表情を浮かべている。
「ねえ健太君……どうする?」
健太は、真剣な眼差しで大きく頷いた。
「行こう」

クラッカーを食べ、変身し、見えてきた新たな世界。
その奥にある“何か”を知りたい。

二人は男に続いて、薄暗い地下の入口へと足を踏み入れた──。


Scene5:
きしむハシゴを慎重に下り、縦穴の底に着地した。
空気が冷たい。まるで古い保冷倉庫の中に迷い込んだようだ。

顔に、ポタリ──と冷たい雫が落ちる。
どこか遠くで水が流れる音が反響している。

「今、照明を点ける」
【α】の声が響いた。

カチッ。
天井に埋め込まれたリングライトが、淡い彩光で空間を照らした。
霧がうっすらと漂う中、
その奥に……銀色に輝く"流線形の乗り物"が浮かび上がった。
二本のレールが、壁に空いたトンネルの奥に向かって続いている。

知らない間にテーマパークへ遊びに来ていたのかと、思わず錯覚してしまう。

【α】が腕にはめたダイバーズウォッチのダイヤルを数回まわすと、
"キュイーン"とモーターが起動する音が聞こえて、緑色のラインがボディを縁取る。
一体どこから突っ込めばいいのか、言葉が見つからない。
二人はだた、その乗り物としての"美しさ"に心と目を奪われていた。
「うちの関連企業が下水工事を受注した際に、無理を言ってこしらえさせたんだ」

「これに乗れば10分程で“潜在能力研究室”へ到着する。さあボタンを押してごらん」
【α】が笑顔で健太に腕を差し出して、時計のリューズに目配せをした。
健太がボタンを押すと、滑らかな音とともにガラスのハッチがスライドした。

内部は狭いが精密だった。フルバケットの4座席。
液晶モニターが埋め込まれ、その画面上に計器類が並んでいる。
運転席らしきものはなく、全て自動制御のようだ。

「好きな場所に座ってくれ」
健太は前席の右側に、佳奈はその真後ろに腰を下ろした。
【α】が最後に乗り込み、前方のパネルに指を走らせる。
ピピッ……トゥルルルルッ──警告音と共に、安全バーが下りてきた。

「健太君、……ちょっと」
佳奈の声がわずかに震えていた。
健太が心配して後ろを振り返ると、目を細めて眉間に皺を寄せている。
「どうしたの、大丈夫?」
「私……ジェットコースターが苦手なの」

【α】に頼んで、健太は佳奈の隣に移動した。
再度バーが下り、準備完了。
「出発するよ」
【α】が赤いボタンを押すと、車体が僅かに浮き上がり、音も無く震え始めた。
──そのとき。
佳奈が耳元でささやいた。
「……手、つないでもいい?」
健太は小さく頷き、そっと右手を重ねた。

──次の瞬間、衝撃。
凄まじい加速。
身体が背もたれに押し付けられる。重力が頬を歪ませる。
車両は一気に闇の中へ飛び込んだ。

「健太君、痛いよ!」
「ご、ごめん佳奈ちゃん」
無意識のうちに佳奈の手を思いっきり握りしめていた。
それでも、彼女は笑ってくれた。

「どうだい、乗り心地は?」
【α】が振り返り、余裕の笑みを浮かべた。
「で、お爺ちゃんは、相変わらず元気かい」
「……あの、僕の爺ちゃんのこと、知ってるんですか?」
【α】の目が優しく細まる。
「ああ。君の祖父は、私の師匠だよ。
 私は昔、“真大和流古武道”を習っていた。だが途中で道を外れた。
 ……武道は、精神の鍛錬により、己に潜む力を引き出す技だ。
 私は、それを科学の側から追究したくなったんだ」

耳の奥に、風の轟音が響いている。

「そして、亡くなった君の母親と…、
 私ととに武道を学んだ君の父親は、医学的見地で潜在能力の解明に取り組んだ。
 つまり君は、生まれるべくして生まれた──真のクラッカーズとして、ね」

──Crackers(クラッカーズ)。
これまでに何度も聞いた、その名前が、いまあらためて胸にズシンと響いた。

乗り物が大きく急旋回し、
車体を軋ませながら、トンネルの更に奥へと突き進んでいく。
まるで、未来へ向かう弾丸のように。

僕たちはまだ知らなかった。
この先に、想像を超えた運命が待ち受けていることを。


Scene6:
よし、着いたぞ。なんだ二人とも顔が真っ青じゃないか」
【α】の声はどこか楽しげだったが、とても返事をする余裕はなかった。
なにしろ、あの乗り物の加速とカーブは、人間の許容範囲を軽く超えていた。

「吐きそう……」
佳奈が今にも倒れそうに言う。
「なあに、あと2,3度乗ればすぐ慣れるさ」
彼らが降り立ったのは、地下鉄のプラットホームに似た空間だった。
フォルムが異なる3台の車両が、無言で停車している。
無機質な空間に機械音だけが響いていた。

「ここは、CONABIS社Japanの地下3階だ」

【α】が壁に手をかざすと、「シュン」と音を立ててエレベーターの扉が開いた。
健太と佳奈は、慎重に足を踏み入れた。
見た目は普通のエレベーター。だが、なにかが違う。
──違和感の原因は、向かって正面に階数ボタンともう一つの扉があるからだ。
どうやら、エレベーターの"裏側"から中に乗り込んだらしい。

「このエレベーターは一般の社員と共用している。まあ、地下3階はボイラー室ってことになってるから、ほとんど誰も来ないがな」
【α】は当然のように言った。
「じゃあ、このまま上の階のボタンを押せば普通のオフィスに出られるの?」
佳奈がようやく元気を取り戻して、明るい声を出した。
「その通りだ」
「……“秘密の研究室”は、ボイラー室の中に?」
【α】はニヤリと笑って、赤い非常停止ボタンの外枠を右に90度回した。
次に、階数ボタンを奇妙な順番で次々に押していく。
「****…」
最後に、非常停止ボタンを押し込むと──ボタンの色が虹色に点滅した。
チーン。
その音と同時に、エレベーターが横に動き始めた。
「うわ、これ……気持ち悪っ!」
予期せぬ挙動に、脳がついてこない。

ゴトン。
止まった。
そして、ゆっくりと扉が開く──。

「ようこそ。“潜在能力研究室”へ」
扉の向こうには、信じられない光景が広がっていた。

……そこは、まるで"自然公園"だった。
芝生の広場、花壇、小川、そして柔らかな木漏れ日。
「ここ、地下だよね?」
「空が……ないのに、空がある……」
天井には不思議な拡散光が広がり、
まるで本物の太陽のように、時間と共に光の角度が変わっている。
微かに風すら吹いていた。

「私は奥で分析結果の報告を聞いてくる。君たちはここで待っていてくれ」
【α】はスッと木陰に消えていった。

遊歩道の向かいに目をやると──
ベンチに座り、こちらに向かって手を振る人影があった。
先に到着していた、杉崎晃だった。
「晃さーん!」
二人は同時に叫んで、芝生の上を駆け出した。
すぐ目の前を、カラフルな小鳥が羽ばたいていく。まるで絵本の世界。

「よお、来たな」
晃が立ち上がって、二人を迎えてくれた。
「もう、びっくりの連続だよ。駄菓子屋がこんな場所に繋がってるなんて」
「どうだった、ジェットコースターは」
「最悪、もう二度と乗りたくない」
めずらしく佳奈が愚痴をこぼした。
「ところで、コナビスってなんの会社だっけ?」
健太の素直な問いに、晃の顔が少しだけ引き締まった。
「それ、俺も感じてた。たぶん……この計画には、国家が関わってる。
 内閣情報調査室とか、自衛隊とか……」
「まさか!?」佳奈が、声を上げた。
晃は腕を組みながら、真面目に考察を続ける。
「Crackersの能力を軍事利用すれば、諸外国に対して圧倒的な牽制力を得ることになる」
──ゾクリと背筋が冷えた。

確かにあの"怪物"は、人類の想像を遥かに上回る凄まじいパワーを持っていた。
それが、もし権力者の欲望に使われたら……。
それは、
「まるで、漫画の世界だね」
健太が苦笑いすると、晃さんは言った。
「そうさ、だが今や俺たちは、紛れもなくその世界の内側にいる」

──現実と虚構の壁が、知らない間に崩れていた。


Scene7:
【CONABIS社Japan『潜在能力研究室』Cxラボ】

「晃君、君が持ち込んだ"石"の分析結果が出た」
特殊な手袋をはめた【α】の手のひらに、あの蒼い石が乗っている。

「健太君が話してた、例の石ね」
佳奈が、健太の顔を覗き込む。
「ああ。僕が見つけて、春雄の手に渡った謎の石……」
「で、弟の手がかりは?」
晃が話を急かす。
【α】の表情が変わった。軽薄さの影は失せ、科学者の本気が滲み出ていた。
「信じがたいことだが──この物質は地球上のいかなる成分とも一致しない。
 つまり、これは“地球外”の物質だ」
ゴクリと誰かの喉が鳴った。
「正確には、“物質”ではない。……これはだ。地球外生命体のな」
健太たちは予期せぬ言葉に唖然とした。

「ここから先は私の仮説だが」
そう前置きをして、【α】は説明を続けた。
ラボの壁が巨大な液晶モニタに変わる。

「かつて、ある惑星が滅びようとしていた。
 その兆候を察した"住民たち"は、自らの遺伝子を“ウイルス化”し、
 特殊な殻に封じ込めて宇宙へ送り出した。
 それがこの“卵”だ。
 これは、いわば宇宙規模のノアの箱舟──生き延びるための命のカプセルというわけだ」

 モニタが、惑星の爆発とともに飛散する無数のカプセル状の物体を、チープなCGで再現する。

「この卵は、ある“条件”を満たしたときに、
 その封印が解かれる仕組みになっていた。
 その条件とは──
 彼らの母星と酷似した環境を持つ"新たな惑星"に辿り着き、
 そこで暮らす"生命体"と直に接触すること」

【α】はアイスコーヒーで喉の乾きを潤した。

 「君たちクラッカーズが持つ"【原始DNA】が宿る血液"が、その封印を解く"鍵"になったのだ。
  おそらく彼らが暮らしていた星は、太古の地球と良く似ていたのだろう」

健太は、説明に出てきた"血液"という言葉にビクッと反応した。
フラッシュバックするあの光景。
校庭で見つけた蒼い石、春雄が流した鼻血、メール、そして怪物になった春雄。

「つまり……僕が原因で"卵"が目を覚ましたってこと……」
健太が晃の表情を伺うと、彼は下唇を噛みながらじっと目を伏せていた。

「いいや、これは君だけの問題ではない」
【α】がゆっくり首を左右に振る。
「我々も同罪だ。寧ろ我々が意図せず仕組んだ負の連鎖とも言える。
 そもそも『BANANA計画』の存在が無ければ、このような結果には至らなかった。
 我々は"宇宙から来た難民"を、科学の力で招き入れてしまったのだ」

モニタに『タマゴが割れ、中から出てきたエイリアンの赤ちゃんが、手招きする人間と合体して、凶暴なモンスターになる』ドット絵アニメが表示される。

「そして、ここからが大きな問題だ。
 孵化装置は、あくまで彼らの母星の環境を前提に設計されていた。
 ところが現在の地球は、太古の姿とは異なる。
 地球温暖化をはじめ、大気・水質・土壌の化学汚染や、森林破壊など──
 人類の手により、地球の環境は激変してしまった。
 その結果、卵は誤作動を起こした。
 不完全な環境で孵った生命は、成長過程で深刻なエラーを引き起こした。
 君たちが目にした“鬼”のような姿は、その歪みの帰結だと私は考えている。
 本来であれば、彼らはもっと穏やかな…、」
「ふざけるなッ!!」
晃の悲痛な叫びが、研究室の空気を切り裂いた。
「春雄は、俺の大切な弟だ! 勝手に"エイリアン"呼ばわりをするな!!」
晃が【α】の胸ぐらを掴み、やり場のない怒りをぶつける。
衝撃でテーブルの上のグラスが床に落ち、砕け散った。
コーヒーの苦い香りが辺りに広がる。

「落ち着いて晃さん! まだ全部が決まったわけじゃないわ!」
「そうだよ、春雄を助ける方法がきっとあるはずだよ」
健太と佳奈が興奮した晃さんを引き戻す。
その時、ドアが乱暴に開き、スタッフが駆け込んできた。

「阿竹山です!
 ──蒼い石が見つかった小学校の校庭の土、
 あれはすべて"阿竹山"から採掘されたものです!」

「阿竹山……?」
【α】の目が鋭くなった。
「通称『薪捨て山』。赤鬼伝説……神隠し……人身御供……、数々の民間伝承が残る霊山」
──健太と晃は凍りついた。
その山がどこにあるのかは、聞かなくてもわかる。

「そう、春雄君がいた山だ」
【α】があえて答え合わせをする。

【α】の合図で、モニタに人の顔が次々と映し出される。
「君たち三人以外のCrackers候補者は、我々が把握しているだけで17人。
 現在、全員行方不明だ」
空気が止まる。
「彼ら全員が阿竹山に拉致され、ウイルスの媒介として利用されているとしたら? 
 想像してみろ。人智を超えた怪物が、十七体……いや、数十、数百かもしれない」
「そんな……!」佳奈が顔を覆う。
「君は唯一の女性メンバーだ。交配対象として標的にされる可能性も高い」
佳奈の肩が震える。
「最優先事項として、佳奈くんを我々の保護プログラム管理下に置かせてもらう」
「……いやよ……私、自分の命は自分で守る。怖いけど、もう逃げたくない!」
その言葉に弾かれるようい、晃が部屋を出て行こうとする。
「俺は行く。必ず春雄を助ける。
 "さつき"もどこかで生きていると、今も俺は信じている。
 そして……全てを片付けた後、もう一度ここへ戻り、この狂った計画をこの手で終わらせてやる!」
晃の体が怒りに震える。獣のような目で、研究所のスタッフたちを睨みつける。
「僕も行くよ、姉ちゃんがまだ生きているなら、いや……あの強い姉ちゃんが簡単にやられるわけない」
「……私も連れてって。私が選ばれた理由、それを確かめるために、私も戦う!」

【α】は、ゆっくりと眼鏡を外した。
「……わかった。計画は破棄する。研究室は閉鎖する。資料もサンプルも、私が責任を持って始末する。関係機関から特殊部隊を派遣して、二人の救出を命じる」
晃は【α】からの提案を全て聞き流し、首を横に振った。
「……俺は、俺のやり方で行く。理屈じゃない。これは、本能だ!」

「出発は明朝6時。遅刻したら置いて行くぞ」
「私、お弁当作ってくる!」
「じゃあ、僕はおやつ担当で」

とても命がけの戦いに挑む台詞ではなかったが、
その裏側にある決意の強さを知った【α】は、もう彼らを止めようとしなかった。
むしろ、研究室を後にする彼らに向けて、
精一杯の激励として、
ノリノリで、
「オヤツは300円までだ。ただし、CONABIS製品はノーカウントとする」
と無駄に滑りまくってしまった。


Scene8:
「ただいま」
玄関を開けると、ほんのりと煮物の匂いが漂っていた。
祖母が台所から顔を出す。
「おかえり健太。遅かったねえ。お父さんが居間で待ってるよ。
 ほら、今日は……健太の誕生日だから」
健太はハッとした。自分の誕生日すら忘れてしまうほど、色々なことが起きた。

居間に入ると、父がちゃぶ台の前に座っていた。
静かに少し緊張した面持ちで。
「健太、誕生日おめでとう」
「ありがとう。……みんな、僕の誕生日、覚えててくれたんだ」
父は少し照れくさそうに紙袋を差し出した。
「大きくなったお前が喜ぶか、分からなかったけど……他に思いつかなくてな」
袋の中から出てきたのは、革の匂いがする新品のグローブと、白い硬球だった。
「父さん……ありがとう」
「泣くなよ、健太」
僕は首を振って、笑顔を作った。
「大丈夫、まだ泣いてない。ねえ父さん、キャッチボールしよう。今から!」
「そうだな、やるか!」
縁側から庭へ出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。
月明かりだけが、芝の上を薄く照らしている。
「父さん素手だから、手加減してくれよ」
その弱々しい声に笑いながら、健太は力一杯ボールを投げた。
「……いってぇな! だから、もう少しやさしく投げろって!」
その声に重なるように、縁側からカラカラとした笑い声が響いた。
「まったく大げさなやつじゃのう」
甚平姿の祖父が、胡座をかいて二人の様子を眺めていた。
膝に蚊が止まり、風鈴がチリンと鳴った。

「父さん、明日ハイキングに行くことになったんだ。みんなで」
「おお、阿竹山か?」
「うん……まあ、そんなところ」
「父さんも一緒に着いてっていいか?」
「ダメ。すぐへばるから」
「なにぃ、父さんなめんなよーッ!これでも昔は」
──と、張り切って投げたボールが大暴投。
健太の頭上を抜けて、盆栽の台に突っ込んだ。
ガシャーン!
「バッカもーん!」と祖父が立ち上がる。
慌てて祖母がやってきて、なだめにかかる。
「まあまあ、今日は健太の誕生日なんですから」
「……そうじゃった、そうじゃった」
祖父はすぐに座り直したが、視線が盆栽の方を泳いでいる。
父が深々と頭を下げた。
「す、すいません、お父さん」
隣で健太が父親の声真似をする。
「す、すいません、お爺さん」
それがあまりにそっくりで、祖父の口元が緩む。
「孫の笑顔が見れりゃ、盆栽の一つや二つ」
「じゃあ、父さん続きをやろう! 今度は僕が全力で」
「いかんいかーん、今の台詞は撤回じゃ!」
「はーい。そこまで」
婆ちゃんが縁側にケーキと紅茶を並べた。
「さあ召し上がれ。ただ……ケーキ職人のお口に合いますかどうか」
「それって僕のこと?」
一瞬の静寂の後、家族全員が朗らかに笑った。
小さな団らん。ささやかな幸せ。

健太は、胸のどこかで思っていた。
この夜が、最後になるかもしれないと。
明日、阿竹山へ登る。
──“鬼”のいる、あの山へ。


Scene9:
また、この山に戻ってきた。
阿竹山。
佳奈と出会い、春雄と再会した場所。
全ての始まりだったこの山へ。

地図は要らなかった。道のりは身体が憶えていた。
獣道、苔むした岩肌、擦れた木の幹。全てが記憶のなかにある。

【α】は軽率な"オヤツ発言"を猛省し、
急遽、この戦いのために、Crackers専用の特殊な戦闘用スーツを彼等に支給した。
一見、何の変哲もないペアルックにも見えるが、生地は元よりファスナーやボタンに至るまで、
全てのパーツが動植物由来の100%天然素材で構成されている。
これで、彼等の身体にどのような外的変化が生じても、吸収と再生を繰り返し、破れることなく元に戻る。
デザインには、佳奈の意見が全面的に取り入れられ、全体的にレトロな雰囲気を醸し出している。

「……もうすぐだな」晃が低く呟いた。

気づけば、出発してから一言も言葉を交わしていない。
その沈黙は、不安とか迷いとか、そんな言葉では足りないほどに重い。

ここへ戦いに来たのだ。

自分を信じて、
春雄と、さつきを助けに来たが、
もし彼らがウイルスに侵されていたら?
もし敵となって目の前に立ちはだかったら……?

殺すか、殺されるか。

その現実を受け止められるのか。
しかし、
逃げた先に、幸せな未来はない。
弱気になるな。
この身体には、地球の全ての命の力が宿っている!

そのとき──
佳奈の声が山の静寂を破った。
「……カモシカ?」

目をこらすと、前方の木々の間から、灰色のシルエットが駆けてきた。
一頭のカモシカ。
こっちに向かって迷わず走ってくる。例の洞窟の方角からだ。

この山に野生のカモシカが……?
違う。
何かが違う。
姿は獣でも、そこに宿るものは──人間の、確かな感情だった。

喜び。悲しみ。愛しさ。絶望。
言葉にならない、何かが痛いほど伝わってきた。

「……姉ちゃん?」
カモシカが健太の前で立ち止まり、顔を何度も舐めてくる。
その目に、涙が溜まっていた。

「まさか、お前……さつき、なのか?」
晃も、震える声で問いかけた。
その問いに、カモシカは、はっきりとうなずいた。

一瞬、世界の音がすべて消えた。
「──嘘だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
健太は叫んだ。
悔しさに。やるせなさに。胸が裂けそうで。
「さつきーーーーーーーっ!!」
晃さんが、カモシカの体を抱きしめる。
その瞳の内に、獣ではない彼女の面影を見たのだろう。

その時──
「健太君、晃さん!! あれを見て!!」
佳奈が、絶叫に近い声で指を差す。

木々の奥から、赤黒い影が──次々と現れた。
赤鬼の群れ。
あの洞窟の奥で見た、異形の怪物たち。
数十体、それ以上。地面を踏みしめ、こっちへ向かってくる。

晃はカモシカ(さつき)に、頬を寄せた後、こう呟いた。
「……ちょっと早いが、オヤツの時間が来たようだ」

二人とも黙ってうなずいた。
ポケットに手を入れ、銀色のパッケージを取り出す。
CONABIS “プリミティブ・クラッカー”

いよいよ、種の存続を賭けた、
──最終決戦が始まる。


第4話へ、つづく



第4話「愛すべきもの」

Scene01:
──静寂。

森の奥、陽の当たらぬ巨木の根元に、健太は身を横たえていた。
土に還るようなこの感覚。左腕を失い、耳も聞こえない。

それでも、生きている。
これまでに、どれだけの“仲間”を倒しただろう。
鬼のカタチをしていても“彼ら”は、かつて人間だった。
研究室のラボでみた、あのリストのうちの誰か。あるいは、親友の春雄だったのかもしれない。

闘い、変身し、泣き叫びながら…
ただ、問い続けた。

「なぜ、殺し合わなくてはならないのか?」

誰も答えてくれない。
この森に、もう言葉を持つ者はいないのかもしれない。

壮絶な戦いの中で、
あらゆる生き物の姿になった。
鳥になって空を渡り、魚になって川を潜り、獣になって地を駆けた。

昆虫、爬虫類、時には微生物すら──

この地球(ほし)の生き物たちは皆、自分の力だけで生きている。
それに比べて、人間はどうだろう。

道具がなければ飢えをしのげず、
言葉がなければ分かり合えない。

それでも“支配者”のつもりでいる。
なんか、変だ──

ふいに目の前に、人影が現れた。
佳奈が何かを叫んでいる。

──でも、大丈夫。
言葉は、もう要らない。

(僕は大丈夫。晃さんを助けてあげて)
心の声は、きっと届くはず。

佳奈はうなずき、くるりと踵を返した。
その身体が流れるように<豹>に変わり、金色の軌跡を描いて森の奥へと消えた。

なんて強く、そして美しいんだろう──

恋とか、
友情とか、
家族愛とか、
そんな感情を超えて、
ただ、彼女の"生きる姿"に惹かれた。

…巨木と同化した身体に、僅かな変化が起きはじめた。
この樹がいつ芽生え、これまでに何を見て、
何を感じてきたのかが伝わってくる。
ともに過ごした虫や鳥や動物たち。
その全てが愛しくてたまらない。
雨の日も風の日も、嵐の夜も。
自分を必要としてくれた。
お互いを認め合い、
寄り添って、
生きた。

緑の樹液が、失った腕の付け根を満たす。
筋肉が、骨が、皮膚が再生していく。
“木の生命力”が目を覚ました。
あと少しだけ眠ったら、
また立ち上がろう。

──"愛すべきものたち"のために。


Scene02:
夢を見ていた。
氷の世界。
すべてが、白い。
木も、山も、湖も──
音さえも、凍っている。
全身で吹雪を感じているのに、
なぜか風の音だけが、耳に届かない。

代わりに、どこからか
ピアノの音が聞こえていた。

澄んでいて、切なくて、
まるで新鮮なミルクみたいに
白く、冷たい。

──それは、死の調べ。

白い湖のほとり、
氷に包まれた一本のシダ植物。
そこに、ゆっくりと近づく影があった。
アパトサウルス。
悠然と歩く、巨大な草食恐竜。
その動きはとても緩慢で、弱々しかった。

その青く澄んだ瞳に、
涙が一粒、きらりと光る──

そして音楽が、ふっと止まった。

アパトサウルスは力尽きたように、
雪の上へ倒れ込んだ。

その瞬間──!
吹雪の轟音が、鳴り響く。

雪と氷に閉ざされた、
命の終焉のフラッシュバック。

息絶えた恐竜たちの亡骸──
殻を破る途中で、凍りついた卵──
牙を噛み合わせながら死んだ、
若い肉食恐竜たち──

そのすべてが『白』に飲み込まれていく。

やがて、目の前の景色が
ピシッという音とともに細かくヒビ割れ、
ガラスのように砕け散った。

真っ白な世界は音を立てて崩壊し、
意識が一気に現実へ引き戻された。

──その声をきっかけに
「助けて!」
「健太君!!」
「助けて、健太君!!!」

佳奈の声──!

健太は、ハッと目を開けた。
深々と息を吸い込み、
肺が満たされた。

そして、立ち上がった。
左腕はもう完全に再生している。
心臓の高鳴りもちゃんと耳に届いている。

今、体の中に眠る
"生きとし生けるもの"が叫んでいる──
『迷わず走れ!』と。


Scene3:
樹木の力を借りて、完全に回復した身体。
抑えきれない程の、力がみなぎっている。

佳奈の声をたよりに、
深い緑の中を、
音を裂くようなスピードで駆け抜けた。

やがて、戦場の匂いが近づいてくる。
頭の中で問いかけてくる
“もう一人の自分"

「殺しあうしか、ないの?」
「本当に、それしか道はないの?」
「生き残ることが、罪なの?」
「生き続けることが、正義なの?」

──わからない。
答えは、まだわからない。

でも──
こんな無力な自分を、
必要としてくれる人がいる。
命をかけてでも守りたい人がいる。

だから、闘う。
ほかに理由なんていらない。
それだけで十分だ。


Scene04:
「健太君、こっちだ!!」
晃が叫んだ。
彼は今、6体の鬼に囲まれていた。
その身体は巨大な<熊>に変身している。
すでに満身創痍、
皮膚を裂き骨にまで達する、深い傷。
それでも晃は、必死に立っている──
弟のために、そして愛する人のために。

顔を向け、一方を指し示す。
「佳奈ちゃんを頼む!」

健太は必死で佳奈の姿を探した。
いた!
洞窟の方角。
鬼に捕らえられ、引きずられていく…!
数が多すぎる、距離も遠すぎる。

何に変身したらいい。
鳥か? 獣か?
ダメだ。
考えるな、感じるんだ!
──!!
体中に電撃が走る。
そうか、あの夢。
絶滅した破壊王。
肉食恐竜──ティラノサウルス。

"原始DNA"の覚醒レベルを引き上げる。
精神を極限まで集中し、
そのイメージを一気に解き放つ!

──バァン!!
轟音とともに、
健太の体が恐ろしい速度で変貌していく。
体が何倍にも膨れ、
肌が硬質化し、
牙が伸び、
顎が発達して、
巨大な咆哮が大地を揺らした!

しかし──完全に制御不能。
怒りと闘争本能に身を任せた獣が暴走する。
逃げ惑う鬼。震える地面。
遠ざかる意識の中で健太は叫んだ。
「やめろ! やめろ! やめろ…!」
「殺せ!殺せ! 殺せ…!」
交錯する自我。
理性と本能のせめぎあい。

遂に、最後の1体を踏み潰そうとした──
その時!

「待ってくれ健太君、
 コイツは──"春雄"だ!!」
晃の叫びが空気を裂いた。

「春雄?」
その一言がトリガーとなった。
巨大な身体が、崩れはじめる。
理性の光が肉体をつらぬき、変身が静かに解除されていく。
──バシュッッッ!

その僅かな隙を突いて、
健太の胸に強烈な衝撃波が炸裂した。
地面を転がり、視界が霞む。
"春雄"と呼ばれた"緋黒の鬼"は、
ゆっくりと健太に近づき、トドメの一撃を見舞おうとした。

──その時、

木陰から飛び出した一頭のカモシカが、
捨て身の攻撃で"緋黒の鬼"に体当たりを喰らわした。
不意を打たれ膝をついて怯んだものの、すぐさま体勢を取り戻す。
そして、健太を庇うその"カモシカ"を、太く強靭な腕で薙ぎ払った。
吹き飛ばされたカモシカは、大木に打ち付けられて、ぐったりと動かなくなった。

人のカタチを失ってもなお、命懸けで家族を守ろうとする姉の慈愛。
その想いは、容赦なく踏みにじられた。
「さつき姉ちゃーーーーーんッ!!!」
怒りと悲しみで、再び暴走しそうになる。

「待ってくれ健太君、春雄のことは俺に任せてくれ!
 さつきは今、完全な<カモシカ>になっている。
 自己保存本能が奴らの行動原理なら、これ以上、彼女には手を出さないはずだ!」

晃はボロボロの体で、健太の暴走を制止する。
「君は──"佳奈"ちゃんを追え!!」

健太と同様に【原始DNA】を受け継いでいた姉の"さつき"は、本能的に"完全な動物"へ変貌することで、自らを守った。
だが既に──もう人間には戻れないかもしれない。
もとのDNAが、欠落してしまっているなら──

「急げ健太君! 佳奈ちゃんが──ヤツらに乗っ取られる!!」
晃さんの声が耳に届いた。
健太は力強くうなずき、立ち上がる。
「姉ちゃんのこと頼んだよ、晃さん!」
「任せろ。彼女は命を賭けて、俺が守る!」
その声に背中を押され、
健太は洞窟に向かって、全力で駆け出した──



Scene05:
──この洞窟に入るのは、これで二度目だった。
前回は、入り口付近で引き返した。
なので、その奥に広がる異様な風景までは、知らなかった。

まるで、噴火の跡にできた風穴だ。
黒くねじれた溶岩の壁。ゴツゴツと焼け残った岩肌。
冷たい空気が静かに流れている。

足場のない縦穴、ロープはない、梯子もない──
でも、心配することは、何もない。

健太は変身した。
暗闇に棲む案内人。──コウモリに。
翼をひろげて空気を捉える。
重力が消え、体が宙に浮く。

視界は──完璧だった。
明かりが一切ないはずなのに、洞窟の中は昼間のように鮮明だ。
岩の裂け目、空気のゆらぎ、遠くで震える気配までもが“見える”。
ただ見た目だけは、
今まで変身した中で、一番グロテスクかもしれない。

横穴をすり抜けたその先で、視界が一気に開けた。
巨大なコロシアム状の空間。
壁にはいくつもの丸い穴が開いていて、それらが螺旋状の階段で結ばれている。
まるで異世界の巣穴だった。

ここが奴等の──“本拠地”なのか?

「佳奈ーっ!!」
健太は叫んだ。
声が複雑に反響した後、壁の奥へと吸い込まれていく。

「健太君、ここよ!」
その声は、上方からこだました。
佳奈の姿が、巣穴の縁から現れた──
顔が歪んでる。とても苦しそうだ。

「よし、待ってろ。今、行く!」
翼を羽ばたかせた、その瞬間だった。

──“掴まれた”

どこから現れたのか、一体の鬼が健太の足首を掴んできた!
羽ばたこうとするが、引きずり下ろされる。
そして──

あの怪音波が鳴った。ぎゅるるォギギギぎッ……
──耳が割れる!!
コウモリの聴覚を持つ今の健太には、あまりにも強烈すぎた。
「グアアアッ……!」
頭が裂けるように痛む。
そこへ、空中から別の鬼が飛びかかってきた!
逆さになって、首に両足を絡ませながら、
羽をもぎ取ろうとしてくる。
息が、できない!

──バキッ!!
片翼が裂け、背中に強烈な痛みが走る。
──終わりか?
いや──まだ終われない!!

健太は牙をむいた。
首に絡む鬼の脚に──思いきり噛みついた!!
「グギャアアッ!!」
鬼が悲鳴を上げ、バランスを崩して地面に落下した。
そして、足首を掴んでいた鬼の顔に、
大量の糞を撒き散らした!

──!!!
鬼がもがき苦しんだ。

効いたのか??
何のアレルギー反応かは分からないが、
今がチャンスだ!
変身を解除し、
側にあった大岩で、2体の鬼の頭を叩き潰した。

大量のアドレナリンで原始DNAにブーストが掛かる。
全身の筋肉が沸き立ち、
走りながら"山猫"の姿に変身する。
しなやかに。鋭く。音もなく、螺旋階段を駆けのぼった。

「気をつけて、健太君!鬼が、来る!!」
叫ぶ佳奈。
後ろを振り返ると、
鬼の大群が一斉に階段へなだれ込んでくるのが見えた。

「今、助けに行くよ!!」
自らの声で己を鼓舞し、牙を食いしばって加速した。
息をつく暇もなかったが、
目の前に佳奈がいる限り、ここで立ち止まることは許されない。


Scene06:
「春雄、自分を取り戻せ!」
晃は、すでに人間の姿に戻っていた。
満身創痍だっが、敢えて変身を解除した。
血まみれの顔で、まっすぐに"緋黒の鬼"を──"春雄"を見つめている。
「鬼なんかに、負けるな!!
 目覚めろ! 目覚めるんだ、春雄!!」
その声に、"緋黒の鬼"が動きを止めた。
荒い息。立ち上る湯気。
血と泥にまみれたその姿は、もはや誰の目にも"異形の戦士"だった。
しかし──返事は、ない。

晃は泣きながら、叫びながら、鬼の心をこじ開ける。
「俺はお前を殺すことができない。わかるだろ?
 ……俺は、お前の兄ちゃんだぞ」
流れ出す額の血が目に入り、涙と混ざりあった。


──遠い夏の日の記憶が甦る。
川で魚を取り、飽きるまで遊んだあの夏休み。
 全身ずぶ濡れで泣いていた春雄。
 何も捕れず、膝を抱えてうずくまっていた弟に、晃はそっと言った。
 『男なら、いつまでもメソメソするな。
  ほら、兄ちゃんのを一匹わけてやるよ』
 『……ありがとう。兄ちゃん、僕もう泣かないよ』
 その声が、今も耳に残っている。

──しかし、無情にも"緋黒の鬼"は雄叫びを上げて晃に飛びかかった!
晃の喉元に、鋭い牙が迫る──その瞬間。

ドンッ!!
鬼の体が、地面に崩れた。

──“さつき”だ。

意識を取り戻した"さつき"が、再び体当たりをしたのだ。
"緋黒の鬼"はゆっくりと立ち上がり、
真紅の眼でさつきを睨みつける。
カモシカの中に、"人の意思"を察知したとでもいうのか。
「春雄……ダメだ。さつきには手を出さないでくれ!!」
晃が叫ぶ。
しかし、鬼の耳には届いていない。

カモシカに向けて、腹を膨らませ──
「グエッツ!!」
咆哮とともに衝撃波を放つ。
さつきの体が宙に舞い、地面へと激しく叩きつけられた!

「さつきぃぃぃ!!」
晃は叫びながら駆け寄った。
──次の瞬間、彼の背中にも衝撃波が直撃する!!
倒れたさつきの前で、晃は激しく咳き込み、血を吐いた。
──限界だ。
晃は最後の力を振り絞って、さつきの目を見つめた。
「すまない。やはり……、俺は弟を……殺せない。
 だから、最後はお前と同じカタチで、運命を受け入れるよ……」

晃は静かに──変身を始めた。
完全な"カモシカ"へと。

「クゥオーン……」
静かで、悲しげな鳴き声が、山々の遥か彼方にこだまする。
二頭のカモシカが、互いの体に寄り添った。
それは──命を差し出す覚悟の姿。
鬼がゆっくりと歩み寄る。

"緋黒の鬼"は牙を剥きながら、二頭のカモシカの首を掴んだ。
両手で、高く、持ち上げる。
「ギャグググッ……ギャアーオ……」

鬼は二頭の顔を交互に睨んだ。
だが──
カモシカたちは、ただ静かに、鬼の目を真っ直ぐ見つめ返す。
そこに、憎しみも、怒りも、恐怖もない──

祈りと覚悟。
"緋黒の鬼"がそれを受け止めた。

そして──
鬼は、手を放した。
ドスン、ドスン。
ふたりの体が、静かに地面へと落ちる。

鬼は一度だけ振り返ると、
何も言わず、洞窟の奥へと走り去った。
その背中に、晃は小さくつぶやいた。
「春雄、……ありがとう」

遠くの空から──
ヘリコプターのローター音が聞こえてきた。


Scene07:
沈みゆく夕陽。
燃えるような赤に染まる空をバックに、
1機の黒いステルス・ヘリが音もなく滑るように飛行していた。

「ポイント・ダブルエックス、上空に到達しました」
コックピットから副操縦士の報告。
後部座席に座る2人の男。
インカムを装着した中年の男が答える。
「ソナーで反応を確認しろ。急げ!」
声の主はCONABIS社Japan・潜在能力研究室の責任者【α(アルファ)】
普段のアロハシャツ姿から一変し、
迷彩服にサングラス。声を聞かなければ、誰だかわからない。
腕のダイバーズウォッチだけが、唯一変わらない。

──『地上班、ポイントXXに到着。現在、周辺を確認中』
無線が応える。
「3名を洞窟の前に配置、残りは“石”の回収にあたれ」
【α(アルファ)】の命令は、冷たく鋭い。
だが、その瞳の奥には確かな"迷い"が宿っていた。
隣に座るのは、年老いた外国人。
CONABIS社の創設者のひとりであり、すべての裏計画を知る男。
そして、Banana社の元CEOでもある。
彼は静かに、しかし確信に満ちた声で語りだす。
「アロハ君。
 君はあの石の価値を、まだ理解しておらん。
 人類がこの地球を去る日が来た時、
 我々が必要とするのは“原始DNA”を超えた、進化の触媒──
 “蒼い石”こそが、その鍵なのだ」
「ですが、人類の未来のためなら、若者たちを犠牲にしても良いと?」
「これは"選択"ではない。もはや、"必然"なのだよアロハ君」
「・・・」
αが拳を握る。憤りと、焦りで、胸の奥が軋む。
そして、老人はこう締め括った。
「いつか君にも、わかる時がくるだろう」

その時、ソナー担当が報告する。
「生体反応、未だなし。
 肉眼でも…血痕と、肉片しか見当たりません。
 あと、確認できるのは、野生のカモシカが2頭」
【α】は黙って双眼鏡を覗いた。
そこには、荒れ果てた大地。血に染まった岩。
そして。

「みんな…… すまない」
サングラスの奥から一滴の涙が落ちる。
──その瞬間、通信機がヒステリックな警告音を鳴らした!
キュルルルッ、キュルルルッ、キュルル
『こちら洞窟前。何かが、こっちに向かってきます!!』
「応答せよ! 何があった!! 地上班! 答えろ!!」
【α】がインカムで問いかける。
『……………ガシャン』
──通信は、断たれた。
「くそっ…!」
【α】は動揺し、老人は動じない。
「洞窟前の警戒にあたった地上班が、エイリアンに襲撃された」
「やはり"目標"は洞窟内だったな」
「爆破装置の設置は完了しています。決断を…」
【α】はサングラスを外し、老人を睨みつける。
「・・・」
「今すぐ、C計画の発動を!!」
老人はアシストグリップを握りゆっくりと立ち上がった。
窓の外、真っ赤に染まった阿竹山を見つめる。
「やむをえん、NB弾を投下せよ」

ヘリのハッチが開く。機内の照明が赤に変わる。
ひとつ、またひとつ、
NB弾──通称「ナチュラル・ボム」が地上に落とされる。
金属も火薬も含まぬその爆弾は、証拠を残さず、音もなく爆発し、
自然発生の山火事を偽装して、すべてを焼き尽くす。

夕陽が完全に落ちた。
赤黒い煙が、山肌を包む。


【阿竹山-地上】
一方、そのころ地上では、
2頭のカモシカが、静かに体を寄せ合っていた。
──晃と、さつき。
すでに人のカタチを成していない。
しかし、互いの心はどこまでも響き合っていた。
かつて伝えきれなかった「愛」が、今ようやく素直に認め合える。

『晃さん……』
『さつき……』

傷を負い、焼けただれた山の中。
2つの命が、ひとつに重なり合う。
さつきの体内に──"新たな命"が芽吹きはじめていた。



空から火が降る。
NB弾が、証拠も、想いも、容赦なく焼き尽くす。

全てを闇に葬る最終措置。
<C(クリア)計画>──始動。

燃え盛る山火事の中で、
2頭のカモシカの姿が、ゆっくりと赤い煙に溶けていった。


Scene08:
【阿竹山-地下洞窟内】
"石の回収"を命じられた地上班の一行が、
黒い岩肌に囲まれた地下洞窟の深部へと静かに進んでいた。
目の前に広がるのは、光すら呑み込む絶対的な闇。
左右に揺れるヘルメットのライトが、荒々しく歪んだ岩壁を照らし出す。

張り詰めた沈黙。誰もが、息を潜めていた。
「そっちは異常ないか…?」
返事は震えていた。
「はっ、はい。あ、あっ──うわぁーッ! ぐはッ!!」
突然、ライトがぐるぐると空を切り、狂ったように洞壁を照らす。
ライトの先に現れたのは、首を失った男の胴体だった。

銃声、悲鳴、肉の潰れる音、骨が砕ける音が、立て続けにこだまする。
「助けてくれっ! エイリアンが──ぐああっ!」
「この野郎! 死ね、死ね──ぐふっ!」
「や、やめろ──うわぁっ!」


【阿竹山上空-ヘリコプター内部】
キュルルルッ、キュルルルッ、キュルル
今度は、洞窟内に向かった別働隊から、警告音が発報される。
「どうした! 状況を詳しく伝えろ! 返答しろ!!」
……無言。
壊れかけた通信機が、最後の声を拾う。
『……ダメです。全滅です。……起爆スイッチを押します……』
沈黙ののち──洞窟全体が爆ぜた。
地上の一点が赤く染まる。


【阿竹山-地下洞窟内】
轟音とともに火花が洞壁を焼き、空間が揺らぐ。
天井が崩れ、大岩が階段状の通路に次々と落下していく。
ゴシャッ! グシャッ!
鬼たちが逃げる間もなく、落石に叩き潰された。
乾いた破裂音とともに、紫色の血が岩の裂け目に染みていく。

「な、なんだこれ……地震か? いや、さっきの銃声は、……」
健太の脳裏にひとつの可能性がよぎる。
(まさか【α】が、応援をよこしてくれたのか!?)

「早くここから逃げないと!」
「でも、どこへ!?」
崩れる階段、空間を満たす粉塵、そして、終わらない落石の衝撃。
視界も呼吸も遮られる。
「今、ここにいたら死ぬ。ムササビに変身して──下へ飛ぼう!!」
二人はコロシアムの中心に向かって、滑空した。
再び人間の姿に戻って地上を走る。
だが──

「待って!」
佳奈が足を止めた。
粉塵の中、うごめく一つの黒い影。
二人の行手を阻むのは、
"緋黒の鬼"

「まさか……春雄……!?」
目に光がない。
(コイツがここにいるってことは……)

一瞬の迷いが、命取りになった。
「うっ!!」
"緋黒の鬼"に変貌した春雄が健太に突進し、顔面に拳を叩き込む。
右目が潰れ──視界が半分奪われた。
「佳奈ッ!!」
振り返った時、"緋黒の鬼"は佳奈を抱えて壁の裂け目へと消えていた。
「くそっ……どこに消えた……!!」
岩の壁面を、血だらけの手で必死に探る。

その時──
天井から大きな岩の塊が降り注ぎ、健太の目の前に落ちてきた。
足元の地面を砕き、更に下へと落下する。
ドッボーン!
地面に空いた穴から、水の飛沫が上がった。
(この下に地下水脈が?)
穴の中を覗き込むと、そこに最深部へ通じる水路があった。
(そうか、奴らは……この水路を使って……)
健太は深く息を吸い込んで、その中に飛び込んだ。
その瞬間──
ドドドドグラァァァァン……!!
轟音と共に、
巨大な空間が崩壊の連鎖を重ね、跡形もなく崩れ落ちていく。

光は閉ざされた。


Scene09:
【阿竹山-地上】
愛しあう2頭のカモシカを、荒れ狂う炎が容赦なく襲う。
大きな角を持った雄のカモシカが、雌の体をかばうように自分の体を覆い被せた。そこへ、無惨にも燃え盛る大木が次々と倒れ掛かる。
『晃さん』
『大丈夫か、さつき!』
雄のカモシカ(晃)は、最後の力を振り絞り、背中の大木をはねのけた。
折れた枝が背中に痛々しく突き刺さっている。
『早く逃げろ!! 俺はもうダメだ』
『嫌だ、離れたくない』
空から一本の爆弾が、雌のカモシカ(さつき)の頭上めがけて落ちてきた。
『危ない!』
雄のカモシカが体当たりをして、雌のカモシカを遠くへ突き飛ばした。
爆弾は雄のカモシカの体を貫通し、辺り一面は炎の海と化した。

『さつき、は、早く逃げろ…っ…』
晃は、静かに息を引き取った。
それは、ただ真っ直ぐに生きた一人の青年の、
──早すぎる、壮絶な死に様だった。

『いっ嫌ーッ!! お願い死なないでーーーー!!!!!』
雌のカモシカが、青く悲しい雄叫びをあげた。


【阿竹山上空-ヘリコプター内部】
「アロハ君、引き上げよう。
 そろそろ、麓の消防署に山火事発生の連絡が入る頃だ。
 石の回収は完全に失敗だ、
 我々が此処にいる理由はなくなった」
老人が【α】に撤退を命じた。
【α】は老人の言葉を無視して、前にいる補助パイロットの肩を叩いた。
「最後にもう一度、ソナーを確認してくれ。まだ、生存者がいるかもしれん」
「わかりました。確認します」
老人が無礼な【α】の態度に憤慨し、声を荒げる。
「アロハ君、聞いているのかね! 早く逃げるんだ!」
「………」
──長い沈黙が流れた。

「残念ながら生存者は確認出来ません…。いやっ、待って下さい!!」
「どうした」
「いま急に、生体反応が現れました。6時の方角、距離は800メートル」
「その場所へ急行しろ!!」
「わかりました」
メインパイロットが間髪を入れずに【α】の指示に答える。
ヘリコプターが急旋回を行った。


【阿竹山-地上】
カモシカになった<さつき>の身体に、変化が起り始めた。
さつきの中で芽生え始めた<新しい命>に、
さつきの身体が応えようとしていた。
我が子を守ろうとする、母の力。

<新しい命>は人の母親を求め、
閉ざされた壁の向こうへメッセージを送り続けた…。
助けて…お母さん、助けて…

その声が届いたのか、
"さつき"の堅く閉ざされた精神の殻にひびが入り、そこから淡い光が漏れた。

『守らなくちゃ。私たちの…、晃さんが生きた証を』


【阿竹山上空-ヘリコプター内部】
「発見しました、若い女性のようです。炎の中に横たわっています!!」
「よし! 救助用ハシゴを下ろせ!!」
「無理です、火の勢いが強すぎます! 危険です!!」
「いいから下ろせ、俺が行く」
「待て、そんな暇はないぞ。おい、パイロット。早く此処から移動しろ!!」
ベルトを外し席を立とうとする【α】を、老人が引き留めた。
【α】は懐から拳銃を取出して、銃口を老人のこめかみに突き付けた。
「──これが、私の"必然"です」
「なんだと!」
「真上に付けろ」
「わかりました」
補助パイロットが、救助用ハシゴの降下装置を作動せた。
「貴様、何をしているのかわかっているのか!?」
「さあな、いずれわかる時がくるだろう」
【α】は拳銃を補助パイロットに預け、急いでハシゴに足をかけた。
「救出が完了するまで、代わりに見張っててくれ」
補助パイロットは無言で頷き、老人の顔に拳銃の狙いを定めた。


【阿竹山-地上】
【α】が地上に到着した。
「大丈夫か、しっかりしろ! 今そっちへ行く」
炎を掻い潜り、横たわる少女の側へ近づくと、その顔にどこか見覚えがあった。
「もしかして、君は… 健太くんのお姉さんじゃないのか?」
【α】は素早く自分のジャケットを脱ぎ、全裸で横たわる少女に羽織らせた後、
両手で体を強く抱き上げた。
「晃さん… どこなの?」
さつきは【α】の腕の中で、思い出したかのように晃の姿を探し求め始めた。
しかし、荒れ狂う炎の中に、もう晃の姿はない。
「晃さん! どこにいるの!! 私を一人にしないで」
泣きわめき、暴れるさつき。
【α】は彼女のミゾオチに軽くコブシを沈ませた。
そして、気絶した"さつき"を軽々と肩に担いでハシゴに足を掛ける。
炎が風に煽られて火の粉が舞い上がる。
ようやく中間地点まで登った時、ひときわ強い突風が吹いた。
最悪なことに、ハシゴの先端が倒れてきた大木に引っ掛かった。
ヘリコプターがバランスを崩した凧のように左右に揺れる。
衝撃で、老人の体が席から転げ落ちて外に飛び出した。
危機一髪で服の袖が金具に引っ掛かる。
老人の体は機体の外で宙づり状態だ。不安定な振り子のように揺れている。
「たっ助けてくれ!!」
依然ハシゴは大木に絡まったまま。
地上は火の海、落ちたら生きては戻れない。

最悪の事態を迎えた。
【α】は地上と空を綱渡りするように、少女を抱えながらハシゴを登る。
「さあ、もう少しだ。手を貸してくれ」
【α】はさつきの体を持ち上げて、補助パイロットに手渡そうとした。
「おい、何をしている。こっちが先だ! 早く手を貸せ!」
老人も補助パイロットに片手を伸ばして、助けを求めた。

補助パイロットは、迷わず"さつき"の体に手を伸ばした。
彼が彼女の体を無事に抱きかかえた、
その瞬間、
ヘリコプターを再度突風が襲った。
機体が大きく揺れて、老人の服が破れた。
「おお神よ、なんという!」
老人は炎の海へ真っ逆さまに落ちていった。
【α】もバランスを崩し、ハシゴ伝いに何メートルも下へ滑り落ちた。
つま先を、燃え盛る炎の先端が撫でる。
ハシゴの先はまだ外れていない。

「滅びゆく運命にあるものは、刻来ればいずれ滅びる。 運命には、逆らえん…」
【α】は静かにそうぶやくと、
腰に装着したサバイバルナイフを口に咥えて、ハシゴを下に向かって降り始めた。
【α】の体に無数の火の粉が降りかかる。
大木の先端に到着する頃には、もう体全体が炎の塊になったいた。
意識が途絶える最後の最後まで、【α】はナイフの背のノコギリを引き続けた。
業火に焼かれ、命が尽きたその瞬間。
──ハシゴが外れ、
ようやくヘリコプターは、紅蓮の炎に炙られた、罪深い夜空に解放された。


Scene10:
洞窟内部のため池のような水面から、イリエワニがひょっこりと顔を出した。
水から上がったワニは、すぐさま健太の体に戻っていく。
池の中心には小さな陸地があり、そこに、信じられない光景が広がっていた。

松明の炎に照らされた幻想的な空間。
そこは、異様なまでの金銀財宝に埋め尽くされた"お宝部屋"だった。
中央の高台には金色の椅子が置かれ、
その上には、
色鮮やかな打掛をまとった、時代劇の姫君のような"ミイラ"が腰掛けている。
胸元には蒼く光る──あの石
(これは"特別な石"なのか? 自分が見つけた石の何倍もの大きさがある)

健太がその石に近づこうとすると、
ミイラの背後から、"緋黒の鬼"が現れた。
腕の中には、気を失った"佳奈"の姿。

"緋黒の鬼"はミイラを静かに椅子からどかせ、そこに佳奈を座らせた。
さらに首飾りを外し、佳奈の首へとそっとかける。

健太の目が見開かれる。
…この場所で、かつて何があったのか?
【α】が言っていた『阿竹山の伝説』が、どんな話なのかは知らない。

ただ、この"大きな蒼い石"が、彼らにとって特別な意味を持ち、
佳奈がその石に"必要な存在"であることは、なんとなくわかった。

"緋黒の鬼"が仁王立ちになり、
山のような財宝の中から、"金棒"を選んで手に取った。
そして、もう一本、
健太に向かって"白く光る刀"を投げてよこした。

それが、決闘の合図だった。

健太は覚悟を決めて刀を拾った。
もう逃れられない。
目の前にいるのは、
故郷を追われ、ここに逃れた、"鬼"であり、
自分の大切な親友である、"春雄"だ。

炎と金色の反射光が部屋全体を揺らす。
二人の影が交差し、響き渡る剣戟(けんげき)。
金棒が大地を揺らす。

──勝負は、一瞬だった。

健太の刀が鬼の胸を貫き、鬼の金棒が健太の脇腹を砕く。
「うっ…ぐあああああっ!!」
血飛沫の中で、二人は同時に倒れた。
鬼の身体が、ゆっくりと人間の姿へ戻っていく。

健太の視界がぼやける。
そして、そこに春雄の顔が、ゆっくりと現れた。

「…やっと楽になれたよ、ありがとう…健太。
 俺…今まで何してたんだろうな…」

「ごめん、春雄…ほんとごめん…」
「なんでお前が? いつも自分からは絶対に謝らないくせに」

春雄は、椅子に座る佳奈を見て、薄く笑う。
「まさか…お前…俺が知らない間に、彼女ができたのか…」
「どうかな、想像に任せるよ」
「なんだそれ」
春雄が、少しだけ微笑んだ。
「お前、なんか雰囲気変わったな。……ぐふっ、その子、──大事にしろよ」
春雄の体から力が抜けていった。

「春雄ぉおおおおおおお!!!!!」
健太の悲痛な叫び声が、部屋に木霊した。



地響きとともに、天井が崩れ始める。
ようやく佳奈が目を覚まし、健太の側に駆け寄った。
「健太君、大丈夫! しっかりして!!」
健太はうっすらと笑って、首を横に振る。
「僕は…もうダメだ。だから佳奈は、僕の分まで、生きてくれ…」
佳奈が泣き叫ぶ。
「嫌よ! そんなの絶対に嫌よ!!」
健太が、最後の力を振り絞って佳奈を引き寄せる。
「最後に、一つだけ…いいかな」
佳奈がうなずいた。
健太は佳奈の唇にくちづけを交わした。
そして、
彼は佳奈の胸元から"蒼い石の首飾り"を引きちぎり、
自らのわき腹の裂傷に押し込んだ。
「…ありがとう、佳奈。大好きだよ…」
石が、赤く染まる!
「さあ、逃げて」
健太は佳奈の背中を押して、地下池の中へ突き落とした。

その瞬間、天井から巨大な岩が次々と落下し、健太の姿が闇に包まれる。


 爺ちゃん、婆ちゃん、姉ちゃん、父さん。
 さようなら… 今日までありがとう。
 いまから、
 僕は母さんに会いに行くよ、
 だから、


Scene11:
燃え盛る阿竹山の斜面──
その小さな岩肌に、亀裂が走る。
ゴオォッという水の奔流と共に、ひとりの少女の身体が地面へと滑り出た。

──佳奈だった。

彼女が流れ着いた場所、
それは健太が初めて自分の運命と向き合った、あの原点ともいえる場所。
皮肉な巡り合わせだった。

佳奈はしばらく倒れたまま意識を失っていた。
その頬を優しく舐める小さな野生のリス。
やがて、その細い肩がかすかに震え、
──佳奈は、ゆっくりと目を開けた。
目の前に迫る紅蓮の炎。
彼女は必死に立ち上がった。

「生きなくちゃ。みんなの分まで、生きなくちゃ…」

山火事の煙が空を覆い尽くすなか、遠くで消防のサイレンが鳴り響いていた。
だが、佳奈の耳には届かない。

彼女が聴いていたのはもっと別の音、
──命の音、胸の鼓動、そして


佳奈は裸足のまま、焼けた山肌を歩き出す。
涙も拭わず、燃え盛る炎を背に、暗い山の中をただひたすらに歩いた。

「頑張って、生きなくちゃ…健太君の分まで… 生きなくちゃ」

体が何度もバランスを崩しては倒れ、
また立ち上がる。
その歩みに、もう恐れはなかった。

だがその体には、"静かなる異変"が忍び寄っていた。
何度も変身を繰り返した代償【原始DNA】の崩壊。
まだ表面には現れていない。
だが確実に、身体の奥でその変化は進行している。
時々、壊れかけたテレビのように輪郭が崩れ、背景が僅かに透けて見えた。


どれだけ歩いたことか……
いくつもの小川を渡り、丘を越えて、
空はようやく蒼み始めていた。
希望の夜明け。

その瞬間、佳奈の足が止まった。
「……はっきりと聞こえるわ」
彼女の口元に初めて微笑みがこぼれた。
炎の音じゃない。
風の音でもない。

それは、遥か下の方から聞こえる、
波の音──母なる海の呼吸

木の枝を手でかき分ける。
その先に、朝日を反射して煌めく"青い海"が現れた。

海は、優しい表情で彼女を迎えてくれる。
佳奈は、すべての衣服を脱ぎ捨てた。
過去も、痛みも、そして罪すらも。

「ただいま…」
佳奈はそうささやき、静かに崖から身を投じた。


海が佳奈の身体を優しく抱きとめる。

──すべての生き物は皆、母なる海から生まれた……
佳奈のからだは、
その母なる海の中で人類の進化の過程を遡り始めた。
肌がぬめりを帯び、体表は鱗に覆われ、
やがて、尾びれを持つ魚になり、
さらに単純な微生物へと姿を変えていく。
そして最後に、
小さな"原始生命体"のカタチになった。
それはとても単純な生き物で、
あまりにも弱く、純粋で、
美しかった。


【この物語を、地球で生まれたすべての愛すべきものたちに捧げる】


end.


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