配慮する男性たちの行方|「多類婚姻譚」「転落男性論」を読んで
ちょっと大仰なタイトルをつけてしまったというか、果たして回答を出せるか分からないが、この1年ほど考えていた“男性の在り方”に呼応する2冊に出会った。
それが、すでにタイトルに書いてある小説「多類婚姻譚」(凪良ゆう)、「転落男性論: 孤立、暴力、ホモソーシャル(以下、転落男性論)」(西井開)だ。
この2冊に出会ったのは、自分から手を伸ばしたわけではなく、偶然同時期にお誘いを受けた別々の読書会の課題本だったから。7月2週目の週末に「多類婚姻譚」、3週目の週末に「転落男性論」の読書会があった。
「多類婚姻譚」は、短編集のような形であらゆる形のパートナーシップが登場する。その中で特に目を引いたのが、4章〈Position Talk〉だ。大手企業の宣伝部で働く32歳の男性・律は、ジェンダー意識が高く、何事を言うにも配慮を欠かさない。
放たれた言葉はあらゆる解釈にまみれ、声の大きな誰かの解釈が、『佐々木律』という人間を形作ってしまう。思いもよらぬ解釈をされて足を掬われぬよう、常に他者を意識して振る舞うことが習い性になってきている。
律の恋人は、同じ会社の広報部に所属している女性・朱里である。ふたりともが大企業で働く所謂パワーカップルであり、朱里もフェミニズムや女性差別に対する意識が非常に高い。時にエンジンがかかってしまうと、律を責め立てるような口調になることが描かれている。
そもそも、朱里が棘のある口調になることの背景には、元々同じ宣伝部で働いていたのにふたりが交際をはじめた後、朱里だけが広報部へ異動になり律は宣伝部に残るという男性特権に阻まれてきた経緯がある。彼女自身(広げれば多くの女性)が背負ってきた痛みや憤り自体は理解できる。
しかし、いち男性としては律の責められ具合には同情してしまうことが多く、(女性の皆さんには申し訳ないけれど)朱里に対して「何もそこまで言わなくても……」と思ってしまうことが正直ある。
この〈Position Talk〉というストーリーは、なにより自分自身が、架空の物語とは思えないほど女性との恋愛や友人関係において通り過ぎてきた複雑な思いを抱いている記憶をまざまざと掘り起こさせる話なのだ。
たとえば、議論が飛躍して、強い火力で畳み掛けるように「言葉」という石を投げつけられる感覚。
「動機が好意でも制欲でも嫌がらせでも、セクハラするやつはみんな痴漢なの。ねえ知ってる? わたしやわたしの知り合いで痴漢に遭ったことない女なんていないよ。みんな通学や通勤中に痴漢された経験がある。それ以外でもいろんな、ほんっとうにいろんないやな目に遭ってる。女の大半が被害に遭ってるのに、男の大半は逮捕されてないって法治国家としては異常でしょう。なのにその異常がまかり通ってるのがこの国なの」
朱里の言葉を読んだときに、過去に同じ論法で畳み掛けられたことがある(念のため書くと、この前の部分からの飛躍に対して違和感をもったが、朱里の言う日本の性加害に対する認識の甘さは同意する)。
あなたや多くの女性が負ってきた傷は分かる。あなたが怒りたい理由や正義感にできる限り呼応したい。
けれども、「どうして男であるというだけで、こんなに責められなければならないんだろう」「自分はあなたのサンドバッグではない」「本当に酷い人たちは別の場所にいるはずなのに不条理にも自分だけが責められるのだろう」「それは正義感を越して、ただあなたが他者に石を投げたいだけになってるよ」と複雑な思いが湧き上がる。
この物語は、自分の記憶を抉るようにさらなる言葉を見せつけてくる。
律「でも……きみを傷つけたのは『男』で、個人としての『ぼく』じゃない(中略)きみや内海さんやたくさんの女の人たちに加害をしたのはぼくじゃない。ぼくは『男』だけど、それ以前に佐々木律という個人だ」
朱里「うん、そうだね、わかってる(中略)でも律は男だよ」
※話者、太字は筆者による
自分の恥部を晒すようだが、前述の畳み掛けられるように〈男性〉を責める言葉を浴びせられたときに、まったく同じ展開になったことがある。
「いま自分は男性ではなく、個人として傷ついている」
そんな言葉を言い、かいつまんで言えば相手から「でも男でしょ」という反応をされた覚えがある。
何度ため息をついたか分からない。思わず「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」と悲鳴をあげ、刺された鋭い痛みと血飛沫、殴られる鈍痛(想像)が全体に広がっていく。こういう関係の結末を何度目の当たりにしてきたことか……。
個人的には朱里に対して「いくらなんでも強火すぎるでしょ」と思うには思うし、実際この本の読書会に参加したときも女性は朱里に共感するのかと思いきや、意外とそうでもないことが分かった。
ただ、ある人(女性)は「実際まわりに居たら“痛い”と思うかもしれない」と話し、「自分にもこういう怒りがあるからこそ、共感性羞恥的に遠ざけてしまうのかもしれない」と吐露していたのが印象的だった。
なぜ印象に残ったのかと言えば、朱里の強火な言葉の数々に「ただの正義中毒でしょ」と反応して終わってしまうこともまた、彼女の負ってきた痛みを請け負わず矮小化することではないかとモヤっとした読後感をもっていたからだ。
つまり、読書会で話した女性たちが“朱里的な女性”を遠ざけていたとしても、胡坐をかいて「そうですよね〜〜〜」と安心することは、結局男性特権によって男性に都合のいい女性しか認めないグロテスクな閉鎖的空間を再生産する可能性がある。
前述の女性が話していた「痛い」という見方も、ある意味では“朱里的な女性”が男性優位社会において嫌われやすいから「その一面を出すのはやめよう」と男性側が知らず知らず抑圧させてきた結果かもしれない。
では、ジェンダー論やフェミニズムに対して意識の高い“律的な男性”はどうすればよかったのか。
その答えの一助となるのが、その翌週に読んだ「転落男性論」だった。
具体的に「答え」と呼べる境地には達していないかもしれない。ただ、なんとなくこういうことかもしれない、と淡い光が差し込んできた。
まず第一に、この本が論じているのは多くの男性学で指摘されている男性の指向が強くあろうとする「達成モデル」に基づいて行動しているのではなく、転落したくない、排除されたくないといった消極的な理由によって駆動しているという指摘である。
男性を縛ってきたのは、男らしさを達成したいという上昇の願望ではなく、ここから転げ落ちたくないという不安ではなかったか?
この中で印象的だったのは、「多類婚姻譚」の律のような男性像もまた、「こうあるべき」という現代的な男性像のひとつであるという指摘だ。
女は殴ってでも従わせるという暴力的な男性像が当然視される時代は過去のものとなり、現代ではむしろ差別をせず、怒りの表出をコントロールすることが理想とされる(尾﨑・西井 2021)。つまり、性差別者やミソジニストと名指されることは、「正当(正常)な」男性からの〈転落〉を意味する。
蛇足だが、「自慢話でも武勇伝でもない『一般男性』の話から見えた生きづらさと男らしさのこと」(清田隆之)という本のなかに、社会問題に関心があり、メディアやインターネット上の論客に憧れ、借り物の言葉で賢いと思われたかった男性の話が収録されている。
「TBSラジオで荻上チキさんの番組を聴き、豊富な知識や鋭い分析、そしてニュースにはっきり意見を言う姿勢など、そういう諸々がとてもカッコよく、憧れ」たと語る男性の姿は、他人事でないどころか自分に重なる。
「転落男性論」に話を戻せば、他者(特にここにおいては女性)に配慮することや社会問題に関心を示すことさえも、「賢いと思われなければ転落してしまう」恐怖、焦燥と隣り合わせであることを示している。
自分自身、実際正しいことを言わなければいけないのではないか、正しくないことを言ってしまえば排除されてしまうのではないかという恐怖心は確実に持ち合わせている。
本心では前述のように「それは言い過ぎでしょ」と思っても、それを言ってしまえば「この人は正常な男性ではない」というスティグマを押されてしまうのではないかと、特にSNSで炎上する男性が毎日のように登場する昨今、発言に推敲に推敲を重ねている。
なまじジェンダーに関する知識をもっている男性たちは、後ろ暗い感情や経験を抱いたとしても封印し、ふるまいを冷静にコントロールしはじめる。取り乱すこともなく、淡々とジェンダー平等の文脈で「できる男」として自己を律するのである。
きっと、律自身が自分の言葉を言い出せない壁は、すべてを言ってしまえば「できる男」から転落してしまうという恐怖によって生まれている。
なお、本書が特に「多類婚姻譚」の〈Position Talk〉に呼応しているように感じたのは、第5章〈とまどいを抱える〉に出てくるメンズリブの運動が、まさに律や自分の抱える葛藤を映し出し、そして光をくれているからだ。
その葛藤について、端的に説明しているのが次の箇所だ。
一方、メンズリブの運動の中で見られたのは、決して潔いとは言えない男性たちの、たじろぎ思い悩む姿である。当時フェミニストたちからその立場性を繰り返し問われ、水野さんは「痛いところをつかれた」と何度も思ったと言い、また多賀さんは「まだ自分は社会的権力を得ていないのに強者として振り分けられることに納得いかないというモヤモヤを抱いていた」と語られた。メンズリブのグループの場は、こうしたマジョリティとしての痛みやもがきなど、自意識の揺らぎを語り、共有する場として機能していたのである。
「多類婚姻譚」を読み終えたあと、律だってもっと朱里と同じように自分の感情を伝えたらいいのに、と思っていた。
また、当時の自分の言い分としては、このようなケースにおいて「男性どうしでケアし合えばいいじゃないか」という論もあり、それはごもっともだけど、結局男性どうしでケアし合おうと弱みを晒してもかえってホモソーシャルなコミュニケーションに取り込まれたり、本質的な問題が分からないままに終わってしまう。だからこそ、男女間のコミュニケーションにおいて越境しなければいけないのではないかと考えていた。
何度か思考の往復を重ねた今、確かにそうではあるのだけど、この構図において律が朱里に「傷ついている」と言っても、結局女性が男性をケアしなければならない旧来的な形を保つことになってしまう。
だからこそ、その傷つきや感情を適切な大きさで渡すためには、まずは男性どうしの逡巡の場が必要なのではないか。本書の読書会で友人男性と「あれはダメだったんじゃないかな」「どうしてこうなんだろうね」といろいろと話して、ふと思った。
また、男性と女性における越境的なコミュニケーションは必要ではあるが、まずは1対1ではない開かれた場で感情や内側にあるものをおろすほうがいい。1対1では、対等だと思っていても権力性は生じてしまう。「傷ついた」と打ち明けることは大切だけれど、それでケアを求めていたら、結局は言葉や感情の粒度は「傷ついた」止まりになる。
いきなり1対1でアサーティブなコミュニケーションを取ろうとすることは、かなりの高等技術が伴う。いろいろな人に打ち明けて、細かくして、細かくして、ようやく適切な大きさになるのかもしれない。
「多類婚姻譚」において、律の「男もしんどい思いをしてるんだけど」(P.217)という葛藤に対して、姉の一葉から「ようこそ!わたしたちの世界に(中略)今までずっとそんなふうに女は大変だったの。」(P.218)と返される。その場にいた、一葉の友人男性・越智は「現代の男に発言する権利はない。(中略)って言われたら返す言葉がないよね」(P.218)と律に告げる。
「ようこそ!わたしたちの世界に」の言わんとする境地は、決して「黙れ」ということではなく、その苦しみを味合わずに生きてこれたことが特権なのだから、適切に感情や葛藤を言葉におろしていく練習をしようよ、というメッセージなのではないか。
抵抗感をやり過ごして、表面的に社会的公正を果たしているかのように装っても、それは社会的に具体的な効果を及ぼさない。重要なのは、湧き出た抵抗感を表出するのでも、押さえつけるのでも、やり過ごすのでもなく、きちんと抱えること、そして、その抵抗感がどこからきているのかを整理することではないか。
前述の越智の言葉にこそ、女性側の視点と男性側の視点のずれが詰まっている。
女性差別を訴える声をひとりで受け止めつづけ、立場性だけではなく、自分の存在そのものも否定的に捉えてしまう男性もいる。しかし、女性に対して相対的に特権をもつ立場にあるからといって、加害的・抑圧的・競争的な存在として自己を規定する必要はないはずだ。ポジショナリティとアイデンティティは影響を与え合うものではあるものの、別の次元にある。
「多類婚姻譚」では〈Position Talk〉というタイトルでこの物語が展開されたが、まさしく「ポジショナリティ(Positonality)」とアイデンティティについての物語だ。
律は“なまじジェンダーに関する知識をもっている”からこそ、朱里の叫びをひとりで引き受け、良い男性であろうと心がける。
最終的に律がどうなるのかは、ネタバレになるので言及は避けるが、物語に描かれるその先でひとりで引き受けず、葛藤を話せる男性たちと分け合える未来に出会ってほしいと願わずにはいられない。
そして、その願望はストレートに自分に跳ね返ってくる。葛藤をきちんと抱えて、少しずつ他者(特に男性たち)と言葉におろしていきたい。
ちなみにこのnoteを書き始めたときは「転落男性論」第5章〈とまどいを抱える〉に書かれている「女性の声に親和的に応答しつつ、男性のあり方を模索」(P.170)に準えて、「応答する男性たちの行方」とタイトルをつけていた。しかし、律や“律的な男性”のひとりである自分は本当に相手の言葉に応答できているのかと迷いが生じ、結果「配慮」という言葉を用いた。
自分のなかで押し留めてしまう「配慮」から、コミュニケーションとしての「応答(Response)」へと変化するために、言葉を重ね学びつづけていかなければならない。
だいぶ長くなってしまったが、以上が「多類婚姻譚」「転落男性論」を読んで言葉にしたかった男性の在り方についてである。
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