2022年、池の雪囲い、煮しめ、だし巻き卵、マユのご飯
例年より少し早いが今日やることにした。このあたりでは雪が1m位積もる。自然の中の池と違い、水が流れないので池に雪が積もると「雪が水を吸って」水がなくなり、鯉は死ぬという。
僕が小さい頃から池の雪囲いは12月のイベントだ。小さい頃は、毎年手伝わされていた。
面倒だなと思いながら嫌々手伝ったものだ。しかし、自分たちでやることに価値があるということを教えてくれたのだ。
それは大事な「教育」であったのだ。家業を手伝うというのは生きることの練習である。
やがて、僕は東京に行き父は一人で庭の雪囲いをしていた。あまり帰ることもなく、33歳で新発田に逃げ帰ってからも何かと理由をつけて避けていた。人生は後悔の連続である。

父のからだが動かなくなってきてからは僕が一人でやることが多かった。結婚してからは妻は、ほぼ実家仕事にノータッチであった。
干し柿作りも、何かと理由をつけて避けていた。
もちろん、僕ら夫婦(妻に対して)に対して無神経なことを言う僕の父母が悪い。子供を自分の所有物のように扱うのは、世の中の常である。もちろん先に逝ってしまった妻の両親も、僕に対しては「他人の腫れ物」に触るように無神経であった。
子供にとっては親である僕も同じ様に思われていた(いる?)。痛かったら言ってくださいねといいながら、痛みを与える。これも人の常である。
やがて父母は去り、僕らはお互い「親のない雀」となった。去年は妻と二人だった。今年は娘と3人であった。
娘は僕がいなくなったら娘はこうして思い出してくれるだろうか。順番というのは守らねばならない。
いずれにしても、間もなくこの世界から「個人が手をかける庭」は絶滅する。子供が東京に出て帰ってこなくなったり、手入れを面倒がる子供たちはは近くに住んでいても駐車場やアパートにする。なにせ小銭にはなる。
あたかも、家で食事を作らなくなったように。

柿の木と空き家は施設に年寄りが生きている証拠である。まだこの街は限界集落ではない。
「面倒な家業」は外注化されて金で買うサービスになったのである。
本来「教育・医療・介護・政治」生活から切り離すことはできないものだ。
家族というシェルターで育まれ手作業されていたものである。
そしてこんな世の中になった。

残念がったり懐かしんだりしても仕方がない。
もうそういう世界になったのだ。
毎日の生活に追われ人生の余裕もなく懐かしむ思い出もない。
価値というのはそこで生きる人の内面にあるのだ。




長く諍いの多い夫婦であったが、父母が亡くなり諍いの原因の50%が消えて、子どもたちはもう手が離れて残り25%が消えた。
時折残りの25%が発火するが、かつてのような力はない炎である。
昔から、年取った夫婦が温和であることが不思議であったが、今なら納得がいく。DVの夫が嘘のように大人しくなる話を聞くことも多い。まあ、熟年離婚というのもあるが、どちらも時代を表現している。
夫も妻も環境の中で良かれと思う事をする。
アリストテレスは「人間は良きこと(自分の利益を最大限視する行為)をする」生き物であると言った。これは人間には限らないすべての生命にとっての律である。
「利他的行為」に説明をする遺伝・進化学者の論は「遺伝子」を残そうとする本能なのだという。ヒトは遺伝子の乗り物なのだという生命観である。しかし、「氏(DNA)より、育ち(マイクロバイオーム)」という言葉のほうが納得できる。
僕は、身体とは「マイクロバイオームのコロニーであり」共して住んでいる有している生命同士は一つの物なのだ。
子供や親は自分の「眷属」である。母は子供を守るために父を責め、父は自分の親を庇う。なにせ親子というのは自分の一部であり。延長なのだ。
歳を取るということは、自分の一部が消えていってしまうことなのだ。
どちらにしても、自分も消える。



今日は妻がパートなので弁当を作る。揚げ物が多かったが、今日は煮しめと卵焼きにした。












今日のご飯はこれで終わりである。

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