「医学」という宗教の隆盛と凋落
ヒトの本質は貪欲である。「科学」の「すべての人を幸福にする」という看板にごまかされてはならない。ヒトを律するのは「自分が生きねばならない」という心と、「一人では生きていけない」という必要、この2つの宗教である。
そして、かつては「金で買えないもの(老後や身体が壊れた時のヘルプ)」を得るために「家族というシェルター」=「欲望を閉じ込める檻」があったのだ。それでも、世界は過酷である。楢山節考、姥捨山、ヘンゼルとグレーテル、いずれも少ないリソースの中で誰が生き残るかの「律」があったのだ。
残念な事に、「家族というシェルター」はグローバリズムという奴隷製造装置によって破壊された。フードキャピタリズムは庶民が属していた「家族というシェルターを破壊することで」富を得るのだ。
家族と医学が共に存在した時代
結核や梅毒と言った「病因があり」「治療の開始と終了(治癒)」のある病に医学は華々しく勝利した。戦うべき敵が単純で特定の「細胞生命(マイクロバイオーム)」の代謝系を阻害する「抗生剤」は「宿主(ヒト)」を殺さないで「敵」を殺したのだ。
そもそも抗生剤は自分で遺伝子を組み替えて代謝物を作ることが得意な植物系の生命が作るものである。牙を持たない生命は毒を吐くのである。妻が僕を苦しめるように(笑)。
同時に「欠乏症」と言う概念を発見して、社会の変化に伴なう災厄に対しての手立ても見つけ出した。「壊血病・脚気」といった食事の変化に伴い、自分というコロニーの中で食物連鎖の内から受け取っていた単純な代謝物の欠乏に対しての対策を見つけたのである。
「塩分」のようなわかりやすい欠乏症は古くからわかられていたが「ビタミン系」の必須栄養素の発見(特定)はこの時代のものである。壊血病に関しては大航海時代からライム(コスト安くビタミンを保持できる)を食べることで回避できることは知られていたが、「代謝物」として特定されて工業的に生産できるようになるのはもっと先である。
外科技術も素晴らしい発展を見せた。麻酔技術が「盲腸」を必死の病でなくしたのはほんのこの間なのだ。僕の姪は小学校の頃盲腸の手術の際に亡くなっている。
やがて、医学は自分の親であり最大の競争相手である「家族と言うシェルター」を民間療法と呼び貶めていく。
医学が患者に寄り添っていないと警句を発する医師もすでに絶滅した。
そして、医学の勝利は一時的なものであった。
今私達を苦しめている「病因のない症状だけの病」
そして医学は、「検査値+投薬・手術」こそがその病を治すのだという。
確かに検査値は薬でストンと下がる。しかし、生命の致命的な損傷は止まりはしない。
この病には、「家族の食事」しか解決はないのだ。
家族の食事とは手間を惜しまず、素材の内の細胞とその間質液に満ちている「タンパク・脂質の立体構造を壊さない」調理なのだ。
利益を生むために向上で生産される「食事」ではない。食材の生命を奪った時点から最短の時間と距離で食卓に並ぶ。『乾燥・抽出・濃縮』を避ける。加熱は適切に主なう。伝統的な調理方法こそが生命を受け継ぐことが出来る。
にそして問題は、「家族の食事を作る術」が「家族というシェルター」ごと既に失われたということである。
競争相手がいなくなった今の社会では、売られている食事は最低になり放題である。
僕が探しているのは、今の時代の中でそれを見つける方法である。
果たして見つけられるであろうか。
「無痛性痛風」と言う大発明
友人が少し前に痛風になった。薬を飲むとあっという間に痛みが消えるという。歩けないほどの痛みが、嘘のようになくなるという。凄いものである。
少し前に「痛風」と「糖尿病」の関係を調べたことが有る。この2つの「病気」は兄弟病と言われる。併発したり移行したりが多く見られるという。両方ともに「腎不全」という出口に向かうという。
別な友人も痛風になったが、医者嫌いでひねくれ者(僕と気が合う)だったのでヨーロッパの民間療法での痛風対策を調べてガスパチョを食べたものだということを知り、徹底的に食べて痛みが消えたそうだ。
その事を聞いて(聞く前からだけどそれ以上に)僕の食卓にはトマト缶料理とニンニクが欠かせない(笑)。今の所、痛風という症状はないが、「検査値や症状」は未来を予告しているわけではない。
現在の食事が身体に現れたものでしか無い。決して予防という訳ではない。
僕にはニンニクとトマトが美味しく感じるのだから、身体が欲しがっているのだ。
美味しくて手間のかかった食事は、医者いらずでピンコロの人生の終わりを迎えさせてくれる。
無痛性痛風って何じゃ
「尿酸値は高い」が、「症状=関節の痛み」が無い場合の患者を治療するための病名である。尿酸が腎臓を破壊するという仮説でこの病気はつくられた。糖尿病と同じである。
『透析になっったらイヤでしょう』と恐喝して、薬を売るのである。そして、腎不全となったらほ~ら、アンタが医師ゃの言うとおりの食事をしないからだよ。自己責任にするのである。
しかし、今の所「尿酸値」が腎臓を破壊するという「分子生物学的な機序」は見つかっていない。単に痛風の患者が腎不全になる確率が高いというだけのことであるのだ。
これは恐ろしいロジックである。
そして、そもそも痛風の原因は分かっていない。1960年前後に尿酸値を生産する代謝系を阻害する「化合物」が見つかったから薬があるだけである。
「なぜその病気があるのか」身体という複雑系の内に有るものは全て何らかの意味がある。
『生活習慣病』と呼ばれる病気は、「よく効く薬」が有る。
その薬は検査値を速やかに下げる。目に見える症状は消すかもしれないが、ピンコロの人生の終わりは迎えさせてくれない。
医師は検査値からその人の未来を占うが、実際に検査値で分かるのは「今の食事」でしかない。検査値は食事が「身体」と言う関数で処理された時の答えなのである。
身体は「複雑系」の最たるものである。無数の細胞が組織を構成して互いに情報のキャッチボールをする。その情報が「検査値」である。
ある組織がある検査値を受け取った時に、その物質を取り込んで検査値は下がる。もしくはその逆である。
食事に問題があり、細胞が上手くキャッチボールできないとい言うのに、ボールだけを取り除くようなものである。細胞は壊れ続けていく。

今、僕は道を探している。
そのコミュニティを僕は『百年のお裾分け』と名付けている。
歩いていける範囲の人に毎日食事を届けてお金をいただくのだ。その範囲で生きてい人が食事を作る。
補助金や寄付やカンパは頂かない。経営者(キャいたリスト=ピンハネ野郎)はいらない。
未来の自分のために時間を惜しまず食事を作る。自分で食べるものから「安心安全」などと誰かに保証して貰う必要もない。
ミクロ経済学では、未だに商品を買うという行動を分析できていない。
なぜその店で買うのか、金を出して私達は何を求めているのだろうか?
商品を買うというのは、コミュニティの一員となるということなのだ。
では、アマゾンで買うということはどういう事だ。
せめて食事は自分で納得の行くものを食べたい。
80歳の僕は、心安らげる居場所を見つけられるだろうか
僕を知っている友人とも連絡は取れず、縁者は合うこともなく、多くの記憶を失い、何もできなくなって行く自分への恐怖、やがてすべてを忘れる。
いつも母の晩年を思い出す。
もっと、食事を作ってあげればよかった。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。