大根ナッパの塩漬け、平野屋風パンチェッタを作った
今日、妻がスーパーで買物をしていたら大根菜葉を切り落としているオジサンに会ったという。捨てるんですかと言ったら頂けた。どうやら、契約農家の方が、「産直コーナー」に品物を搬入しているところだったようだ。
サプライチェーンが偽装する産直は好ましいとは思えないが、それも世の流れである。
嬉しそうに頂いたと持ってきた。今年は大根を買いそびれてタクワンは干していない、仕方ないからドブ漬けにするかどうしようか悩んでいた。しかし、大根菜葉が手に入らない、これは困ったことなのだ。


かつて、家で食事を作ることが当たり前だった頃は、捨てることは「もったいない」と言われたものだ。食べ物は世界に「あたわった」ものである。
僕らは「食べ物」を作ることは出来ない。レンチンや時短で調理することやセンターキッチンで作られた商品を買うことは出来るかもしれないが、0から作ることなど出来はしないのである。
必ず、素材があり、調理のプロセスがある。そして問題は皿の上の栄養素ではない。皿の上に来るまでのプロセスなのだ。



冬になると大根を漬けて、葉は当たり前のように塩漬けにした。塩を抜いて味噌汁に入れたり薄揚げと炒め煮にしたりおいしおいしいものだ。
この味は何処にも売っていない。
伝統というのは博物館に飾られるものではない。生活のうちに現れる当たり前の生活の内にある。
すでに「それ」も買うほかがない時代ではあるが。
問題は、そんな生活が「病因のない症状だけの病」を生み、人生の終わりを小さな箱で管だらけにされて長生きさせられることにある。統計的に見て私達はガンや致命的な臓器の不全で死ななければ、めでたくメディカルキャピタリストの囲い者となるのだ。
ヒトの商売の邪魔をするつもりはないが、僕はそんな人生の終わりはまっぴらである。
食事の価値というものは、当たり前に私達が「家族というシェルターの内に」受け継いできた物なのだ。

バラ肉のブロックを妻が買ってきたのでパンチャッタにすることにした。
20年前にベーコン作りを商売にしようとしたことがある。食肉加工業は困難で上手くは行かなかった。
しかし、その時に学んだことは多くある。美味しいものは手間を掛けなければ手に入れられないということである。
金儲けにするには自分で食えないようなものを大量に作り売らねばならないのだ。フードキャピタリズムは多くのものを殺しやがて自分をも殺す。


バラ肉を美味しく食べる方法は多くある。漬け込みと乾燥の組み合わせである。






今日のアトカタ


後片付けは高度な状況判断能力が要求される。何よりも、次に誰がどう使うかを考える必要があるのだ。
翌日の食事計画も必要だ。当然、マニュアル化など出来はしない。







人生は色々としたいこともある。しかし、厨房仕事は何よりも優先する。僕にとって、それは生きるということだから。
些細なことで、大喧嘩になった。気がつけば皿が割れておる。
還暦の喧嘩は、セックスのようなものだと思えば良いのだろう。喧嘩の後に仲直りできるならば、セックスより良いかもしれない。
何よりもベタベタヌルヌルしない、後片付けが楽である(笑)。



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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。