AI という巨人の肩の上に
テクノロジー
テクノロジーとは静止したプロダクトではない。アセットではないし、ツール等という生易しいものではない。それは、一連の変化の波である。それを使って何ができるか、どれだけ便利になるのか、もちろんその視点は大事なのであるが、それをこえて覚悟しければいけないのは、テクノロジーは次々とくる破壊そのものであるということ。その終わらない、連続してやってくる変化に対して、どう戦い続け、自らのものとし続けるのか。それを、自らの決して立ち止まってはいけない刷新の繰り返しを、戦略として、日々の基本行動として、備えておかなければ、気づかぬうちに起きる世界そのものの巨大な変容にただただ置き去りにされるだけである。
そして、AI 脅威論
自己実現のプロセスとして労働を捉えたヘーゲルを批判的に受け継いだマルクスは、資本主義社会における疎外された労働を問題とした。疎外とは、人間の手からそれが離れ、そして逆に人間を支配するようになる現象・状態のことである。今日のAIが人間から職を奪うという主張はまさに疎外論的な文脈である。それに対するソリューションは、人類の自己実現プロセスの一つとしてAIを位置づけ直すことではなかろうか。ニュートンは巨人の肩の上に立っていると言った。この言葉は、12世紀のシャルトル学派 ベルナールの言を源としている。ベルナールは、劣等感と進歩への自信の両面をこの言葉に託した。その後、Linuxの父 リーナス・トーバルズは、OSSは巨人の肩の上に乗ったことによってできたと言った。我々はやがてAIという今までにない成果をもたらす、想像を絶する巨人を乗りこなさなければいけないのだろう。劣等感と更なる実現への自信を持って。もしかしたら、それは山ではなく、荒波なのかもしれないのだけれど。
